外伝4 お姉ちゃんが大好きです
「はぁ……」
1年B組の教室。その出入り口に備え付けられた椅子に座り、机に肘をついてため息を漏らす。毎日みんなで遅くまで残って準備したお化け屋敷。苦労したかいもあって人気は上々、お客さんの数も予想を上回り、「これなら売り上げ上位に食い込める」とクラス委員長も息巻いている。それはとても喜ばしいことだけど、今の私にはどうでも良かった。
「ありがとうございましたー。……はぁ」
さっきまであった行列の最後尾にいたお客さんを営業スマイルで送り出し、すぐ仏頂面に戻る。お客さんがゼロになり、やることのなくなったわたしは、憂鬱な気分で廊下を行き交う楽しげな人々をなんとはなしに眺めた。
「はぁ……」
「もう、さっきからため息が多すぎるっ」
頭上から聞こえた声に顔を上げると、白装束を身に纏い、頭に三角の白い布を巻き付けた香奈が腰に手を当てて頬を膨らませていた。香奈は涸れ井戸から出て来る女幽霊の役だからこんな格好をしているのだけど、そんな仕草をされるとせっかくの衣装も台無しだ。
「香奈って息するでしょ?」
「そりゃまあ、人間ですから。肺呼吸ですから」
「今のわたしのため息はそれと同じ」
「ため息つかないと死ぬの!?」
生き死にじゃなくて、意識しなくても出ちゃうってことを言いたかったんだけど……まあいいか。文化祭当日の今日、わたしは自分のクラスの出し物、お化け屋敷の受付をしていた。一昨日までの予定表ではわたしの受け持ちは二日目の午後からだったのに、昨日になって急に変わり、二日間丸々やることになってしまった。
理由は簡単。クラスの子の半分以上が、部活の出し物の方に駆り出されたのだ。体育会系の部活に所属する子が多い1年B組は、気付けば残ったのはわたしや香奈を入れて10人ちょっと。お化け屋敷はお化け役も必要だから人数が結構必要で、おかげでクラスの出し物を手伝う子全員がほぼずっと出突っ張りという状況になってしまった。
初めてのお姉ちゃんと一緒の文化祭。本当だったら今頃はお姉ちゃんや遥さんと露天を見て回るはずだったのに……
『ごめんお姉ちゃん』
『ううん、気にしないで。文化祭は来年もあるからさ』
少し残念そうに、けれど笑顔で言ってくれたお姉ちゃん。少し前に「一緒にお店を回ろうね」と誘ってくれたのに、それを裏切ることになってしまった。本当に申し訳なくて、「ごめんね」ともういちど謝るわたしの頭を優しく撫でてくれたお姉ちゃんを見て、心がぎゅっと締め付けられる思いをした。ため息が出るのも仕方のないことだ。
「気持ちは分からなくもないけど、それだとお客さんも幸せも逃げちゃうよ?」
「今日の分の幸せならもう逃げちゃったよ」
ため息混じりに返す。こんなに落ち込んだのは久しぶりだ。最近は毎日がとても楽しかったから……。お姉ちゃんが無理をしなくなって、わたしを頼ってくれるようになってから数日間。それはそれは毎日が幸せだった。朝起こしに行ったら素直に甘えてくれるし、お姉ちゃんの髪を結っても「椿が似合うって言うならいいよ」ってそのままにしてくれるし、通学途中に手を差し出すと、恥ずかしそうにしながらも手を繋いでくれるし、晩ご飯のメニューをリクエストしてくれるようになって、期待に応えると「美味しい」と喜んでくれるし、ソファーで眠そうにしているお姉ちゃんを抱っこしてわたしのベッドに連れて行き、一緒に寝ても「昔みたいだね」と笑ってくれるのだ。
わたしを必要としてくれるお姉ちゃん。昔からお姉ちゃん……お兄ちゃんのことは大好きだった。いつもわたしのことを守ってくれたお兄ちゃん。頭を撫でられるのが凄く好きだった。今はわたしがお姉ちゃんを守ることもあるけど、お姉ちゃんはその笑顔で、言葉で、わたしの心を優しく守ってくれている。だからお姉ちゃんを大好きだっていう気持ちは、今も昔も少しも変わっていない。むしろ離ればなれになっていた分強くなった気さえする。
「今日の分ねぇ……。あぁ、最近の椿はずっと気持ち悪いぐらい機嫌良かったもんねぇ。元々気持ち悪いけど」
「元々って、わたしのどこが気持ち悪いの?」
「暇さえあれば楓先輩の待ち受け画像を見てにやにやするところ」
「……なるほど」
人のことを気持ち悪いだなんて言い過ぎだと思ったけど納得してしまった。
「ほんとに椿はお姉ちゃんっ子なんだから」
「だってかわいいんだもん」
「このシスコンめっ」
「ありがと」
「どういたし……えっ、なんであたしお礼言われたの?」
「シスコンは褒め言葉だから」
「……末期だ」
香奈が肩を竦めた。なんとでも言えばいい。何を言われてもわたしの気持ちは変わらないのだ。
「なんでそんなにお姉ちゃんのことが好きなの? 大抵兄弟姉妹って喧嘩するくらいに仲が悪いって聞くけど」
「喧嘩する要素なんてどこにもないよ。はあ……今頃お姉ちゃん何してるんだろうなあ」
何気なく呟いた言葉。そのあとに聞こえたのは、
「んー、呼んだ?」
聞き慣れた声。驚いて声のした方を向く。
「やっほー」
「よお」
そこにはわたしのお姉ちゃんこと四条楓と、お姉ちゃんの親友の遥先輩がいた。笑顔で手を振るお姉ちゃんは朝家を出たときとは違い、綺麗な黒髪を大きな赤いリボンで束ねてポニーテールにしていた。凄くかわいい。こっそりお姉ちゃんにばれないよう携帯電話で写真を撮る。さっそく待ち受け画面にしよう。
しかしその表情に違和感を覚えた。いつものお姉ちゃんより感情の表現が強い。もしかして……と、そっと遥先輩に目配せする。わたしの視線に気付いた先輩はゆっくりと頷いた。やっぱりそうだ。今のお姉ちゃんは柊お姉ちゃんだ。だからといってわたしの対応は何も変わらない。楓お姉ちゃんも柊お姉ちゃんも、どちらもわたしの大好きなお姉ちゃんなのだ。
「どう? 順調?」
「うん。思ってた以上に来てるよ。今はちょうど人が捌けたところで中にお客さんはいないけど、さっきまで行列ができてたんだから」
「そっか。良かったね。椿も香奈さんも凄く頑張ってたみたいだから」
お姉ちゃんがわたしを見て、微笑みかけてくれる。それだけで、わたしのため息はぴたりと止まり、あんなに憂鬱だった気分も綺麗さっぱりなくなっていた。
「ほんっとそうです。これで閑古鳥が鳴いてたら学校中をお化け屋敷にしてたところですよ」
あははと笑う香奈。実際そうなった場合、彼女だともしかすると本当にしてしまいそうだから怖い。
ふとお姉ちゃんの手元を見ると、赤くて丸いものに木の棒がささった不思議なものを持っていた。なんだろう、あれ。
「お姉ちゃん。それはなに?」
「ん、これ? これはリンゴ飴。お祭りの定番なんだって」
ペロッとリンゴ飴を舐めてみせる。リンゴ飴を舐めるお姉ちゃんはかわいかった。
「リンゴ飴……あ、その中に入ってるのがリンゴなんだ」
リンゴを飴で包んだ単純な昔ながらのお菓子、というところだろうか。なんでこれがお祭りの定番なんだろう。
「椿、椿。見て見て」
お姉ちゃんが小さな舌を出す。舌の表面がリンゴ飴と同じ赤色になっていた。
「赤い? 赤くなってる?」
「うん。真っ赤だよ」
「えへへ」
お姉ちゃんが少し恥ずかしそうに笑う。うん。後で誰かに受付を変わって貰って、リンゴ飴を買いに行こう。そして晩ご飯のあとのデザートに出そう。そうしよう。
「……もしかして、椿もリンゴ飴を見たのは初めてなのか?」
「はい。初めて見ました」
「まじか……どうなってんだよこの姉妹は……」
遥先輩が目を見開き、頭を抱えてしまった。理由が分からずお姉ちゃん、そして香奈を見る。お姉ちゃんは苦笑し、香奈は遥先輩同様驚いていた。
「リンゴ飴を知らないだなんて……。5円チョコと同じくらい有名ですよ? ねぇ遥先輩」
「香奈悪い。それアタシ知らないわ」
「知らないってそんなまさか。冗談ですよね?」
「いや本気で知らない」
「なん……です……と?」
香奈が遥先輩を見てワナワナと震えている。5円チョコって、5円の形をしたチョコのこと? それとも5円のチョコのこと? 5円で買えるお菓子があるだなんて初耳だ。
「椿もお祭りにはあまり行ったことがないのか?」
「はい。中学まで住んでいたところの近くでは大きなお祭りがありませんでしたから。小さなお祭りはあったんですけど、リンゴ飴は売ってませんでした」
「そうか。売ってなかったんじゃ知らなくても仕方ないか」
遥先輩がため息をつき、顔を上げる。その先には香奈が作ったお化け屋敷の看板がある。
「ま、リンゴ飴の話はこれくらいにして」
「次は5円チョコの話ですね!?」
「なしに決まってる」
「そんなぁ」
香奈がガクッと項垂れる。結局5円チョコの正体は分からず仕舞いで終わりそう。
「せっかくだし、行ってみるか」
遥先輩が看板を指さしながら言う。表情は至って普通、むしろ少し笑みを浮かべていた。
「遥先輩は怖いの大丈夫なんですか?」
「ああ。アタシは幽霊とか宇宙人とか、そういうものは信じないことにしてるんだ」
信じないから怖くない、ってことだろうけど、そう割り切れるのは遥先輩みたいに強い人だけだと思う。
「楓、行ってみようぜ」
「へっ!? な、ななな、なにに!?」
素っ頓狂な声を上げて、遥先輩から離れるお姉ちゃん。誰から見ても分かるぐらいに動揺していた。お姉ちゃんもおばけや宇宙人は信じていない。でもそれは本当にいたら怖いから、そういう思いがあって信じていないだけであって、遥先輩とは違い、おばけも宇宙人も怖いのだ。
「なにって、お化け屋敷だよ」
「ななんで!?」
「面白そうだからだよ」
「そ、そうかなっ。面白いかな!?」
……ま、単純に、お姉ちゃんが恐がりなだけなんだけどね。雷が鳴ったら耳を押さえてフルフル震えてかわい……こほん。フルフル震えて怯えたり、虫もいつ飛んでくるか分からないから怖くて触れないし。本人は素知らぬふりを装っているつもりらしいけど。周りにはバレバレなんだよね。その証拠に、遥先輩はさっきから意地悪そうに笑っている。
「椿や香奈が作ったんだからそりゃ面白いだろ」
「え、あの、そ、そうだね、椿が作ったんだから面白くないはずないもんねっ。面白いよねっ。でも今は昼間だから別にいいんじゃないかな!?」
夜は学園祭やってないから昼じゃないといけないのに、あまりにも動揺しすぎて変なことを言ってる。
「まあまあ、とにかく行ってみ――」
「つ、つつつばきっ。このリンゴ飴あげるねっ。美味しいよ! それじゃボクはプラネタリウムが気になるから戻るね! 椿頑張って-!」
「あ、おねえちゃ――」
呼び止める間もなく、お姉ちゃんは走って行ってしまった。あんなに速く走るお姉ちゃん初めて見たかも。
「ったく。逃げることはないのに」
肩を竦める遥先輩。でも顔は凄く笑ってる。もしかして、たまにこうしてお姉ちゃんで楽しんでいるのだろうか。ちょっと羨ましい。
そのあと、先輩は一言二言わたしたちに激励の言葉をかけて、お姉ちゃんの後を追っていった。嵐の後の静けさ。残されたのはわたしと香奈、そしてリンゴ飴。
……ペロッ。あ、美味しい。
「あーっ。間接キス!」
「姉妹だからいいの」
「あ、そっか。姉妹なら……んん?」
香奈が腕を組んで首を捻った。
「さっ、そろそろ気合い入れて頑張ろうか」
「お、さっきまであんなに不機嫌だったのに。さすが楓先輩効果。さすがシスコン!」
「そんなに誉めないでよ」
「だから誉めてない!」
学園祭一日目が終わるまで、残すところあと2時間ちょっと。ずっと朝から憂鬱だったけど、これからは楽しくやれそうだ。わたしはお姉ちゃんが大好きだから、どんな薬よりもお姉ちゃんが一番効果的なのだ。