第68話 いい思い出
事務室からフロアへと姿を現わした僕を出迎えたのは、大勢の人とそこから発せられた大音量の声だった。その声は軽く許容量を超えていて、僕に耳鳴りとめまいを引き起こし、同時に視界を小さな白い星で埋め尽くした。クラクラする頭を押さえながら、あまりにも大きな音は聴覚どころか視覚にも影響することを身をもって知った。
そして現在。木製のしっかりとした作りの椅子に座る僕は、自分の置かれた状況に困惑していた。僕から1、2メートル離れてぐるっと取り囲むようにして人垣がある。それは主に学園の男子生徒や女子生徒で構成され、中には私服姿の同年代の子も見える。手には携帯電話が握りしめられており、さっきからずっと僕に向けられ、電子音を響かせている。
は、恥ずかしい……。
急遽始まったのは、僕の撮影会だった。ポローン、パシャ、ジャーン。様々な音が鳴り、その度に僕の引きつった笑みの画像が増えていく。いや、時折「四条さーん、笑ってー」と注文が飛んでくるから笑えてないんだと思う。きっと無愛想な顔をしている。それなのに人垣が崩れることも電子音が鳴り止むこともなく、その場から動けずにいた。
愛想笑いもしていない僕を撮ってもいいことなんてないのに。そう思っていたけど、
「いいよいいよぉ~! その羞恥に顔を赤く染め、どうしていいか分からないっていう困った表情もいいよぉ~!」
望遠レンズのついた高そうなカメラを構えてフラッシュをたき続ける彩花さん。あっちへこっちへと僕の前を動き回っていて、誰よりも一番目立っている。彼女が声を上げる度にどこからともなくため息が聞こえるのは、きっと彼女のファンの人だろう。図書部の出し物なんだから、ファンの人のためにも、彩花さんの撮影会が開かれて然るべきなんじゃないだろうか。それなのになんで僕が……。
向けられるレンズから逃げるように少し顔を俯かせて、視線を彷徨わせる。たまに「こっち向いてー」と、注文に応えて顔を上げるものの、カメラのレンズを直視してしまうとただでさえ赤い顔がさらに熱を持ち、僕の思考能力を低下させた。そんな状態で気の利いたことなんてできるはずもなく、とにかく恥ずかしくてすぐさま顔を俯かせた。
さっきからその繰り返し。とにかく恥ずかしいので早く終わってほしい……。
「彩花さんも何かポーズ取ってー」
「四条先輩とのツーショットが取りたいです!」
「んー? あーはいはい」
構えていたカメラを下ろし、僕の後ろに回って両肩に手を置く彩花さん。
「こんな感じでいいかな?」
「は、はい!」
「彩花先輩最高ですっ!」
「そお? にゃはは。かわいく撮ってね~」
見上げると、彩花さんは笑っていた。彼女は凄い。こんな状況なのに、自分への要望があると快く承諾しすぐに応えてくれている。堂々としたその物怖じしない姿は、僕には輝いて見えた。
大勢の人の前なのに恥ずかしくないのかな。羨ましい。金髪碧眼の彩花さんだから、修道服はとても似合っていた。目を閉じてお祈りの十字を切る姿も本物のクリスチャンのように様になっていて、神秘的だ。
「……ソーメン」
アーメンだと思う。しぱらくして目を開いた彩花さんは、見上げる僕と目が合うとニパッと小さな子供みたいに笑った。
「ねぇ、四条さん」
背もたれに両手を付いて前屈みになり、顔を寄せてくる。
「ごめんね。四条さんって人前に立つのが苦手なんだよね? それを知ってるのにこんなことしちゃって。でも、どうしても四条さんと学園祭を楽しみたかったんだ」
苦笑する彩花さん。僕は首を横に振る。
「ううん。たしかに恥ずかしいけど……学園祭だもんね。こういうのもいいと思う」
「ほんと? よかったぁ。こんなことしておいて実は結構気にしてたんだ。四条さんが怒ってたらどうしよう。嫌われたらどうしようって。これでもボク、打たれ弱いからさ」
嫌われたらどうしよう、か……。僕もほんの少し前まで、椿に嫌われたくないってビクビクしてたっけ。あの時のことは鮮明に覚えている。それを思い出すと、悲しくなると同時に嬉しくもなって、胸がきゅっと締め付けられる。もう一度「ごめんね」と言う彼女に、僕はまた首を横に振る。
「嫌いになったりしないよ」
人を嫌いになるのは簡単だ。会ったことも話したこともない初対面の相手でも、些細なことで嫌いになれるのだから。だけど、そうやって嫌いになってしまうと、その人を好きになるのはとても難しい。嫌いながらもその人と関わり、知り、誤解を解いて、受け入れないといけないのだから。もしも嫌いじゃなかったら、簡単に親友になれたかもしれない人でも。
僕はそれを遥から知った。だから僕はできるだけ人を嫌わないようにしている。友達になれるかもしれない人と、友達になるために。
「やっぱり四条さんって思った通りの人だ」
坂口さんと同じ言葉。坂口さんはそれを「素敵な人」だと言っていた。僕としては彩花さんこそその言葉が似合う人だと思う。
「そ、それでね、四条さん。四条さんさえ良かったら、その……」
赤くなった頬を人差し指でかきながら彩花さんが遠慮がちに言う。今日初めて彼女の恥ずかしそうにしている表情を見た気がする。なんだろう。何を言うんだろう。緊張して次の言葉を待っていると、
「よ、良かったらボクと友達になってくれないかな?」
それは拍子抜けするような、けれどとても嬉しい申し出だった。だって僕もそうなれたらいいなと思っていたから。
「うん。僕のほうこそよろしく」
即答した途端、彩花さんの表情がぱあっと輝いた。
「ほんと? じゃあさっ、じゃあさっ。楓ちゃんって呼んでもいい?」
「うん。いいよ」
「やったっ!」
ほら、こんなに簡単に友達になれた。でも、葵さんに引き続き、彩花さんからも「ちゃん」付けかぁ……。ちょっとこそばゆい。しかし疑問が湧く。彼女はどうしてこんなにも僕のことを好意的に受け止めてくれているのだろう。
「……彩花さん」
「なに、楓ちゃん?」
嬉しそうに僕の名を呼ぶ。
「なんで君はそんなにも僕のことを……」
――好きでいてくれるの? そう続けたかった言葉を途中で切って応えを待つ。彩花さんは目をパチクリさせた。けれどすぐにさっきまでと同じ笑顔を浮かべると、その目をきらきらと輝かせて、彼女は言った。
「それはね、楓ちゃんはボクのヒーローだからっ」
◇◆◇◆
「はあ……疲れた」
制服に着替え、逃げるようにしてやってきたプールの出入り口前の階段に腰を下ろすと、大きくため息をついた。
「おつかれさん。ほら」
「ありがと。……あれ、これどうやって飲むの?」
遥から受け取ったビン入りのジュースを見て首を傾げた。見ると飲み口の内側のところにビー玉が詰まっていた。蓋は遥が取ってくれたみたいだけど、これじゃビー玉が邪魔で飲むことができない。
「どうやってって、この上に乗っかってるプラスチックのヤツをグッと押し込んで……もしかしてラムネ飲んだことないのか?」
「うん。これラムネって言うんだ」
初めて手にしたそれは、青色がかった透明なビンで、真ん中のあたりにくぼみがあった。中の飲み物も透明で、着色はしていないようだ。
「ラムネといえば、夏の風物詩だろ?」
「そうなの?」
「夏の風物詩でもあり、祭りの定番じゃないか。見たことあるだろ?」
「うーん……そういえばお祭りの時に売ってたような……」
露天に並ぶジュースの中に、これと同じものがあった気がする。きっとあれがこのラムネだったのだと思う。見かけたことはあるけど、一度も飲んだことはなかった。それ以前にビンに入ったジュース自体数えるほどしか飲んだことがない。
「でもまあ、たしかに祭り以外じゃほとんどみないから、飲んだことなくても仕方ないか。これはだな、このビー玉が栓の役割をしてるんだよ。で、これを飲むには蓋の上に乗ってるヤツを……」
言いながら右の手の平を飲み口に押しつける。するとポンッという音が鳴ってビー玉が飲み口から外れ、ビンの窪んだところに落ちて引っかかった。
「これで飲むんだよ」
「へぇ~。なんか面白そう」
「楓もやってみろよ」
「うん。これを押し込めばいいんだよね」
遥の見よう見まねで、右の手の平を使って蓋に乗っていたプラスチックをグッと押し込む。
「け、結構かたいね……」
「勢いをつけてやってみたらどうだ?」
遥の助言に従って、今度は押し込むのではなく勢いをつけて叩くようにしてやってみる。すると、今度はちゃんとポンッと遥の時と同じ音がなってビー玉が下に落ちた。上手にできた。そう思った矢先、
「わわっ。これ炭酸だったの!?」
ビー玉が外れた途端、中から炭酸の泡が吹き出した。驚いて右手を離すとさらに泡が溢れてきて、ビンを持っていた左手が濡れてしまった。
「はははっ。絶対やると思った。ビー玉が落ちてもしばらく押さえておかないと溢れてくるんだよ」
「知ってたなら教えてよっ」
すぐ近くの洗い場で手を洗いながら抗議の声を上げる。遥は気にせず笑っている。絶対こうなることを分かってて、わざと言わなかったんだ。
ジュースでベタベタになったビンを若干気にしつつ口を付ける。炭酸はそんなにもきつくはなかった。少し喉がピリピリするくらいでちょうどいい。
携帯電話を取りだして時刻を確認する。いつの間にか正午を回っていた。
「図書部の喫茶店に1時間もいたんだね。もう、遥のせいで酷い目にあったよ」
「はははっ。悪い悪い。アタシもまさかあそこまで盛り上がるなんて思ってなくてさ。まさか楓があんなにも人気があるとはなぁ」
謝っているはずなのに、どうして嬉しそうにしているのだろう。こっちは本当に大変だったのに……。でもまあ、もういいや。なんか笑ってる遥を見てたら、怒る気も失せちゃった。
「遥。僕疲れたから、ちょっと休むね。あとはよろしく」
「ああ。でも楓はもういいのか?」
「うん。十分楽しんだし、明日もあるしね。それに彼女も学園祭を楽しみにしてたから、譲ってあげないと」
「そうか。分かった。んじゃ、また明日な」
「また明日」
遥に小さく手を振って、飲みかけのラムネを横に置く。彼女にもこれを飲んで貰おう。遥が僕の前で膝をつき、手を広げる。そっと体を預け、ゆっくりと目を閉じる。遥の心地良い暖かさを感じながら、僕の意識はまどろみはじめた。
初めての学園での文化祭。楽しんでね。