第55話 僕が君にできること
学園祭の作業も佳境を迎えていた。と言っても僕達のクラスは葵ちゃんのおかげで順調に進み、既に全行程を終えていた。今は忙しい隣のクラスを尻目に、学園祭準備お疲れ様でした会を開いている。
太陽がまだ高いうちから、教室でお菓子やジュースを飲んでいると、少し得した気分がする。床にブルーシートの上に広げられたお菓子やジュースの数々は全て担任の山本先生が差し入れとして持ってきてくれたものだ。結局最後まで手を貸すことはなかったけど、実は裏で特別教室を貸して貰えるように便宜を図ってくれていたり、最後の一人が学校から帰るまで残って見守っていたり、その後こっそり教室に潜り込み、足りない備品を買い足してくれていたりしていたことをみんな知っている。だから差し入れを持ってきたときに「ありがとうございました!」とみんなでお礼を言ったんだ。先生にはみんな、本当に感謝していたから。
「あー、終わった終わった!」
遥が肩をコキコキと鳴らす。相当凝っているみたいだ。
「終わったって、あんたの場合は明日からが本番でしょ? 本番で間違わないよう注意しなさいよ?」
綾音さんが半眼の目を向ける。遥はふんっと鼻を鳴らす。
「分かってるよ。綾音の方こそ、ちゃんとドームは出来たのか?」
「ふふんっ。こっちは完璧よ」
綾音さんが胸を張る。反撃とばかりに遥がにやりとする。
「どうだか。当日公演中に崩れたりしないだろうな?」
「あるわけないでしょ。そんなこと」
「綾音が担当した箇所だけベキベキ~ってな」
「ないわよ!」
遥と綾音がにらみ合う。そんな二人を傍観する僕と葵ちゃん。
「ふふ。さっきまであれだけ疲れたって言ってたのに、終わった途端にこんなに元気になるなんて」
「ホント。遥も『取説なんて見たくもない』って毎日言ってたのに、結局最後までちゃんと読んで理解して、他の子に教えられるくらいになるんだもん」
そう言うと、葵ちゃんの目を丸くして僕を凝視した。なんだろう。何か変なこと言ったかな?
「楓ちゃんは、ここ数日で何かいいことでもあったの?」
「いいこと? う~ん……。うん。あったかな」
椿とまた昔みたいに仲良くなれた。とてもとても、いいことだ。
「やっぱり」
「やっぱりって?」
葵ちゃんが微笑む。
「楓ちゃん。最近よく笑うようになったから」
「……そう?」
「うん」
頬をぺたぺたと触る。たしかに今も口角が少し上がっている。ちょっと前までは意識しないと笑えなかったのに、今は自然と笑えていた。まだ少しぎこちないけど。
「とりゃっ」
「ひゃっ!?」
突然後ろから抱きしめられる。振り返るとそれは遥だった。
「葵。楓、かわいいだろ?」
「うん」
「そうだろそうだろ。でもこれアタシんだからやらないぞ」
遥が頬をすり寄せてくる。
「ち、ちょっと遥。恥ずかしいよ」
「気にしない気にしない」
「僕が気にするの! もう。葵ちゃん、綾音さん、助けてよー」
二人に助けを求める。なぜか二人は目を丸くしてお互い見合ってから、僕を見た。そして小さなため息をつきながら、
「遥も頑張ったから」
「明日からヘマしないように、今日は充電してもらわないとね」
「へ?」
まさか、二人が遥の味方をした?
「んじゃお言葉に甘えて。充電充電」
「は、はるかぁ~っ!?」
さらに頬をすりすりしてくる。押し返したいところなんだけど、満面の笑みの遥にそんなことはできなかった。されるがままにすりすりされる。
……別に嫌じゃないからいいか。ふと遠くを見れば、禅条寺さんと目が合った。彼女は顔を赤くして、慌てた様子で目をそらした。どうしたんだろう。
「そうだ。この後どうする? 桐町にでも行く?」
ポテトチップスを食べながら綾音さんが言う。
「私は用事ないからいいけど、遥と楓ちゃんは?」
「あ、えっと……」
「アタシはいいけど楓は用事があるからだめだ」
言い淀んでいると、遥が代わりに言ってくれた。
「そっか。じゃあ今日は三人で行きますかね」
「ごめんね」
「なに謝ってるんだか。相変わらず楓は律儀よね」
綾音さんが苦笑する。ホワイトボードの上にある時計を見ると、約束の時間だった。
「遥、そろそろ僕行かないと」
「えー。もう少しいいだろ?」
「こら。楓を困らせないの」
「へいへい」
僕を抱きしめていた腕の力が緩む。遥の手を取って立ち上がり、壁際に置いてあった鞄を持つ。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、明日は学園祭だから頑張ろうなっ」
「今日は早めに寝なさいよ?」
「ばいばい、楓ちゃん」
扉の前で振り返って、遥達に手を振る。
『おつかれさまー!』
幾重にも重なった声が教室と僕を揺らす。気付けばクラスのみんなが僕に手を振っていた。驚きつつも振り返すと、小さく歓声が上がった。
「指の怪我、もう治ったみたいだね。良かったー」
「四条さんはすぐ頑張りすぎるから、明日はほどほどに頑張ろうなっ」
声を聞いてさらに驚いた。みんなが僕を見ていたことに。みんなが僕を知っていたことに。視界の端の遥が歯を見せて笑った。それを見て、僕も笑った。
◇◆◇◆
3階から4階に上がり、1年B組と書かれた教室へと向かう。他のクラスに顔を出すというのは、たとえそれが下級生の教室でも緊張するもので、僕は見つからないようにそーっと中を覗く。
「あーっ。楓先輩じゃないですか!」
香奈さんが僕を指さして大声を上げる。それを合図にクラスの子が一斉にこちらに振り返り、歓声を上げる。それはさっきの2年D組のものとは比較にもならなかった。
「どうしたんですか? 何か用事でも?」
顔中をペンキでベタベタにした香奈が近寄ってくる。1年B組はまだまだ準備中のようだ。
「えっと、椿いるかな?」
また歓声が上がった。騒がしい教室のなか、何人かの女の子が僕に手を振っている。よく分からないまま手を振り返すと、キャーと悲鳴じみた声を響かせた。
「椿ですね。ちょっと待ってください。おーいつーばきー!」
口元に両手をあてて香奈が声を張り上げる。奥の方にいた椿がこちらを向いて、目を丸くする。手を振る僕に慌てた様子で鞄を掴み走り寄った。
「お、お姉ちゃんどうしたの? 待ち合わせは校門前って言ってたのに」
「え、えっと、その……」
「ん?」
椿が首を傾げる。恥ずかしくて耳元に顔を寄せて椿にだけ聞こえる声で言う。
「……こ、校門で待つのは寂しかったから」
「――っ!?」
次の瞬間、気付けば僕は椿に抱きしめられていた。
「つ、椿!?」
「……へ? あっ。ご、ごめんなさい。ついつい嬉しくなっちゃって」
椿がはにかみながら離れる。遥といい椿といい、僕の周りにはくっつきたがる人が多い気がする。椿は「ちょっと待って」というと、一度教室の中に戻り、クラスメイトと二言三言話してすぐに戻ってきた。
「じゃっ、帰ろっか」
香奈に手を振って、僕と椿は教室を離れた。
◇◆◇◆
作りかけの屋台を両脇に眺めつつ、椿と二人並んで歩く。
「久しぶりだね。おじさんとおばさん達と一緒にご飯食べるなんて」
「うん」
今日僕と椿が早く帰るのには理由がある。それは依岡のおじさんと四条のおばさん達が僕達の様子を見に、マンションへ遊びに来るのだ。本当はもう少し時間を開けて来たかったそうだけど、僕と椿が仲直りしたことを電話で伝えると、早々に僕達と会いたいということで急遽今日に決まったのだ。
ちなみにご飯を作るのは椿の役目だ。おばさん達が作る予定だったのだけど、椿がどうしても自分が作りたいと譲らなかったらしい。だから家に帰る前にスーパーで買い物をして帰ることになっている。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「今日何が食べたい?」
視線を少し上げて思案する。少し前までなら、何でもいいと答えていた。それでも尋ねられたら、きっと作るのが簡単なものを選んでたと思う。でもそれじゃ椿に遠慮している。遠慮なんかすると椿に悪い。だって椿は僕にご飯を作って、「美味しい」と言って貰うために中学から料理部に所属していたんだから。だから正直に、今食べたいものを告げる。
「グラタンが食べたい。マカロニ多めのグラタン」
「グラタンかぁ~。分かった。美味しく作るから期待しててねっ」
椿がむんっと胸の前で拳を握りしめる。
「いただきっ」
パシャッと音がしてフラッシュが焚かれる。目を向ければ、そこには結奈さんがカメラを構えて立っていた。
「ごめんね。二人仲良さげにしてるところを。でも、今の楓さんの表情をどうしても撮りたくてさっ」
頭を掻きながら結奈が申し訳なさそうに言う。
「いえ、その気持ち分かります」
椿の力強い言葉。本当にそう思っているみたいだ。
「現像したらあげるからさ。それじゃ、また明日ねー」
走り出す結奈さん。けれどぴたっと止まって振り返り、
「楓さん。今の表情。凄く良かったよ!」
そう言い残して今度こそ走り去っていった。
「お姉ちゃん。手を繋ごうか」
手を差し出す椿。少し躊躇してから、僕はその手を握りしめる。
椿と手を繋いで歩く。椿が笑う。それを見て微笑み返し、ぎゅっと手を握る。椿に甘え、椿を頼りにする。笑顔でそれに応える椿に、僕は傍で笑いながら「ありがとう」と返す。
想像していたものと少し違ったけれど、これがきっと、今の僕が君にできることなんだ。