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私(ぼく)が君にできること  作者: 本知そら
第一部三章 楓と椿
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第54話 僕も大好きだよ

 部屋に入ってきた椿は、居心地悪そうに扉の前に立ったまま、動こうとしなかった。いつもならすぐに枕元にやってきて「お姉ちゃん起きて」と僕の肩を揺らすのに。……ああ、それは朝に僕を起こしに来るときだった。


 こんな感じに、椿のことを思い出す時はいつも迷惑をかけたことばかり。朝起こして貰うことだけについて言えば、元々は目覚ましを買おうとしたところを椿に「起こしてあげるから」と止められたからだけど、結局それも僕が椿に甘えたと言うこと。姉なら姉らしく、強く僕が出て断るべきだった。それなのに、椿の善意に甘え、椿の負担を増やしてしまった。そうやって椿のことを深く考えもせずに、OKを出してしまった僕に問題がある。それにもしかすると、あの時の椿は僕を起こすことに苦を感じなかったかもしれないけど、今の本心は面倒がっているのかもしれない。特に学園祭の準備で忙しい今頃は。自分から言った手前、続けているだけなのかもしれない。


 ブルッと体を震わせて、布団を掴む。なんで椿がここにいるんだろう。遥が呼んですぐに入ってきたってことは、ずっとそこにいたってこと。話を聞いてたってことだ。昔入院していたとき、椿の元を離れたとき、あのとき僕が椿のことをどう思っていたかということも、なにもかも全部聞いていたんだ。


 俯いている椿を見て、途端に怖くなった。そういえば最近の椿は変だった。いつもニコニコと笑っていたのに、数日前くらいからあまり笑わなくなった。僕を見て、不安そうな顔をすることが多くなった。


 ……そうだ。椿は頑張り屋さんなんだ。だってほら、休日だというのに友達の遅れを取り戻すため、学園祭の準備の手伝いに行ったりするんだから。僕によくしてくれるのも、そう言った使命感からくるものなんだ。だからきっと、最近の椿は、あの時の僕のように、僕のことを邪魔だと感じてきているんだ。きっとそうだ。そんなときに、あの時の僕がどんな酷いことを考えていたのかを聞いてしまって、落胆しているんだ。なんでこんな出来損ないを養ってるんだろうって。


 また頭が痛くなってきた。痛い。痛い。どうしてそんなに僕の頭を痛くするんだ。僕は本当のことしか言ってないのに。


「そんなところに突っ立ってないで、ここに座れ」


 遥に促され、遥が座っていた椅子に椿が座る。代わりに遥がそっと部屋を出て行く。部屋にいるのは僕と椿の二人きりになる。目の前に椿がいる。そう思ったら、全身がぞわっとした。とにかく何か話さないと。きっと椿は僕の言葉を待っている。だから。


「つ、椿……」


 名前を呼ぶだけで精一杯だった。喉がからからになって、うまく言葉が出てこない。ビクッと椿の肩が震える。それだけの反応に悲鳴を上げそうになるけど、なんとか押し止める。ゆっくりと椿が顔を上げる。




 椿は、泣いていた。




 どうして椿が泣いている? どうして椿が泣く必要がある? 頭の中がぐるぐる回る。ぐるぐる、ぐるぐる。吐き気がしそうなくらいに。実際気持ち悪くなって口元を押さえる。なんとか戻さずにはすんだけど。そうして息を荒げていると、少しずつ僕の内側から声が聞こえてきた。それはいつもの優しく明るい彼女とは違う、別の声だった。


『椿を泣かせたのは誰?』


 僕だ、僕が椿を泣かせた。


『お姉ちゃんなのに?』


 そう、お姉ちゃんなのに妹を泣かせた。


『そんなことしていいの?』


 いいわけがない。


『なんで泣いてるの?』


 きっと僕に怒っているから。


『怒っているなら謝らないといけないよね。もっと怒られる前に』


 うん。


『もっと怒られて、うんざりされて、嫌われて、追い出される前に』


 ……うん。


『追い出されたら、僕は生きていけないもんね。だって』


 ……。


『こんなによく出来た妹に追い出されるようなヤツ。誰も相手にしないよね』


 …………うん。


『葵さんも、綾音さんも、奈菜も、沙枝も、蓮君も』


 ……。


『そして遥も』


「お姉ちゃん」


 椿が僕を呼ぶ。反射的に体が震える。


『ほら、怒ってる』


 声がする。自然と涙が出た。それはそうだ。僕はいつも強がっているだけで、本当はとても弱い人間なんだから。この体よりも、心はもっと脆いんだから。情けないくらいに。


「ねぇ、お姉ちゃ――」


「――っ!?」


 ベッドに手をついた椿から逃げるように、ベッドの反対側の壁際まで体を寄せ、距離を取れるだけ取る。それでも椿は近づいてくる。涙で視界が滲む。椿は目の前にまで迫ってきて、ゆっくりと手を上げた。


 ぶたれる。そう思った僕はついに声を上げる。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」


 頭を抱え、椿に謝った。


「ごめんなさいっ。毎日お見舞いに来てくれたのに。約束破ったのに。お世話してくれたのに。ごめんなさいっ。椿に何も返せなくてごめんなさいっ」


 涙を頬に伝えながら叫ぶように言葉を紡ぐ。溢れた涙はぽたりぽたりと布団に落ちて濡らしていく。


「だから嫌いにならないでっ。これからは自分のことは自分でするようにするから。変にお姉さんぶったりしないから。椿に迷惑かけないから。だから嫌いにならないで。僕のことを……ひっく……嫌いにならないで……」


 喉をしゃくり上げて泣く。椿と遥の前でみっともなく。でもこれが本当の僕なんだ。強がっているのは、ただただ椿の前でお姉さんぶりたいだけ。小さくてどうでもいい、僕のプライドだ。


「嫌いに……ならないで……」


「お姉ちゃん」


 ベッドが沈む。涙でぐしゃぐしゃになった顔を少しだけ上げる。椿が両手を広げていた。


「ご、ごめんなさ――」


 今度こそ叩かれる。そう思って、反射的に頭を覆う。けれどそれはまったく違っていた。


「怖がらないで、お姉ちゃん」


 椿は唐突に、そしてまったく想像もつかなかった行為に出た。


「……えっ」


「怖がらないで、お姉ちゃん」


 椿はやさしく、ふわりと、その両腕で包み込むように、僕をしっかりと抱きしめた。椿に抱きしめられていた。こんなに優しく、あやされるように椿に抱きしめられたのは初めてのことだった。抱きしめるのはいつも僕で、それも小さかった頃の間だけ。何故ならこれは兄であり、姉である僕の役目だったから。


 抱きしめられるのはとても気持ちが良かった。ふっと体から力が抜け、だらんと腕を垂らし、なすがままにされる。


 こうして抱きしめられて、やっと僕は気付いた。椿は今もずっと泣いている。でもそれは決して僕を怒って泣いているんじゃなかった。


「わたしの方こそごめんね。お姉ちゃん」


 椿は少しも、僕のことを怒ってなんていなかった。


「あの時のこと、入院していたときのこと、わたしは全て知ってたんだ。お姉ちゃんが泣けなかったこと。泣けなくて、眠れなくて、とても苦しんでいたことも。全部気付いていたんだ」


「えっ。そんな……うそだ。だってちゃんと化粧もして隠していたのに……」


「あの時から化粧してたんだ。それは上手にもなるよね」


 くすっと椿が笑う。動揺する僕の背中をぽんぽんと、赤ちゃんをあやすように軽く叩く。


「お姉ちゃん気付いてた? いつもね、わたしが病室に入るとき、一瞬だけど凄く辛そうな顔してたんだよ? それでわたしは分かったの。わたしがお見舞いに行くから、お姉ちゃんはわたしのことを気遣って、泣くのを我慢して辛いんだって。だから一度だけ、試しにお見舞いにいかなかったの。そうしたら、まさか病室から一人で出てわたしを探しに行こうとするんだもん。あの時は心配したんだよ?」


 本当に……バレていた? それが事実なら、椿の言うとおり、一日だけ椿はお見舞いに来なかった日がある。あれは僕のことを考えてのことだったということ?


「わたしがお見舞いに行っても行かなくても、お姉ちゃんは辛そうだった。だからわたしはそれからもお見舞いを続けた。お姉ちゃんは日に日にやつれていく。わたしが近くにいるから、お姉ちゃんはいつまでも泣くことが出来なかった。そしておじさん達は決心したの。お姉ちゃんとわたしを離してしまおうって。おじさんとお母さんの親戚同士で喧嘩したってことにして」


「したことにって……もしかして」


 椿が僕を抱きしめたまま、小さく頷く。


「うん。おじさんもお母さんも、本当は喧嘩なんてしてない。お姉ちゃんのことを考えて、喧嘩したってことにしただけ。わたしはその話を偶然聞いちゃっての。お姉ちゃんと別れることは辛かったけど、それ以上にお姉ちゃんがこれ以上苦しそうなのを見ていられなかった。元気になってほしかった。だから、おじさんたちにこう言ったの。お姉ちゃんを助けてあげてって」


 椿が少しだけ体を離し、両手を僕の頬に添える。僕の目と椿の目が合う。椿は笑っていた。


「お姉ちゃんはわたしのことが邪魔だって、離れられて良かったって思って、それを悔やんでいるって言ったけど、わたしはそれを聞いてほっとしたの。おじさんたちやわたしがしたことは間違ってなかったんだって。お姉ちゃんと離れ離れになって寂しいけど、それでお姉ちゃんが元気になるなら、何年でも待ってみせるって。そう思った昔のわたしは間違ってなかったんだって」


 瞳から溢れる涙が止まらない。何故かはよく分からない。でも、それはさっきまでの悲しいものじゃかった。椿は僕のことを嫌っていなかった。むしろ、ずっと僕のことを思ってくれていた……?


 ふいに穂乃花先輩の言葉が頭に浮かんだ。


『椿はね、あなたが思っている以上に、あなたのことが大好きなのよ』


 椿は僕のことが、僕が思っている以上に、大好き。


 聞いたときは信じられなかった。でも、今なら少しだけ、そうかもって思える。だって、目の前の椿が笑っているから。だから僕は勇気を出して聞いてみることにした。


 頬に添えられた手を取り、握り摘める。椿の瞳を見つめながら、おそるおそる、僕は尋ねる。


「……ねえ、椿。あの時僕が思ったこと、怒ってる?」


「ううん」


 椿が顔を横に振る。


「じゃあ……僕のこと、許してくれる?」


「許すも何も、わたしはお姉ちゃんに腹を立てたことなんて一度もないよ」


 椿が笑う。


「じゃあ……」


 次の言葉を口にしようとして、言いよどむ。聞くのが怖い。でも、


『アタシはさ、楓とは高校を卒業しても、大学を卒業しても、社会人になっても、誰かと結婚しても、お母さんになっても、お婆ちゃんになっても、今と変わらず親友でいたいと思うんだ』


 遥の言葉が頭をよぎる。僕もそう思う。遥とはずっと親友でいたい。そのために、僕も勇気を出さないといけない。


 椿をじっと見据える。僕の言葉を待っているようだった。一度大きく深呼吸して、そして今度こそ、その言葉を口にした。


「じゃあ、これからも、一緒にいていい?」


「一緒にいてくれないと、わたしが困るのっ」


 椿が声を上げた。


「昔みたいに兄らしいことはできないし、いろいろ頼るだろうし、迷惑かけるけど、それでも?」


「うん。それでもっ」


 椿が強く頷く。


「じゃあ……椿は今でも僕のこと、好き?」


 椿が目を丸くする。それから次第に目を細めていき、


「うんっ。大好きだよっ!」


 そう言って、僕のことを強く抱きしめた。


 ああ。そうだ。そうなんだ。やっと僕は分かった。僕は椿の傍にはいてやれなかった。だけど椿には……椿の傍にはいつも僕がいたんだ。きっと、ずっといたんだ。


「……ありがと」


 ゆっくりと、強く、椿とは比べられないほど弱々しいけど、それでも精一杯に、椿のことを抱きしめる。


 僕はその時、椿を抱きしめながら、椿と別れてから6年振りに、ちゃんと笑えた。

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