第53話 それが僕の本心
僕が昔の話をしている間、遥は何も言わず、ただじっと耳を傾けていた。やがて話しが終わると、一言だけ「そうか」と呟いた。自分の言葉として紡がれた過去の記憶は、遥という聞き手と僕自身に、あの頃の醜い感情をさらけ出した。
毎日お見舞いにやって来る椿。その椿を笑顔で迎えながらも、少しずつ弱っていく僕。それは体だけではなく、同時に心も蝕んでいき、あれほど大切にしていた椿にさえ、嫌悪感を抱くようになっていった。
両親、そして柊を失ったことは、小学生という幼い体と心には、あまりにも大きすぎた。だから、僕があんなことを思ってしまったのも、仕方ないと言えばそうなのかもしれない。それでも僕は後悔する。なんであんなことを思ってしまったのだろう。椿と離ればなれになる日、なんで僕は振り返らなかったんだろう、と。あの時、遠ざかっていく車の中の僕に、椿はこう言ったんだ。
『行かないで! 行っちゃヤダ!』
涙が頬を伝いながらも、僕を笑顔で送り出したはずの椿の叫び声。どっちが本心かはすぐに分かった。それなのに、僕は聞こえないふりをして、振り返らずに俯き、目を閉じて、ただただ自分のことだけを考えていた。そして後になって我に返り、自分のしてしまったことに絶望して、僕に罪の意識が芽生えた。それを2年もの間、ずるずると引きずった結果、椿ばかりではなく、蓮や周りの人にまで迷惑をかけてしまった。
ほんと、あの頃から僕は周りに迷惑をかけてばかりだ。中学に復学してからもそうだ。寮で一緒の部屋になった遥に辛く当り、学校で声をかけてくれた奈菜や沙枝は邪険に扱い、嫌な思いをさせた。そんな僕なのに、3人は快く受けて入れてくれて、友達にしてくれた。蓮君、遥、奈菜、そして沙枝。4人がいなければ、僕は今こうしてここに、椿と一緒に暮らしているなんてことはなかっただろう。きっと今も、叔父さんの家のベッドの上で引きこもっていたと思う。
「僕ってダメだね。椿を一人にして悲しませた挙げ句、蓮君や遥に頼ってばかり。……今思い返しても、あの時はああすれば良かっただなんて思うことがいくつもある。そうやって後で後悔することぐらい分かりそうなものなのにね」
自嘲気味に呟く。今更こんなこと言ってもなんにもならない。ただ遥を困らせるだけだ。それでも、溜まった膿を吐き出すように、僕は続ける。
「椿はあんなにも立派に成長したのに、姉の僕は後悔に捕らわれ、そこから逃げ出すのに必死だったせいで何も変わってない。おかげでこっちに来てから迷惑をかけてばかりだ。遥の時みたいに、迷惑ばかり……」
自分で言って、悲しくなってきて顔を俯かせる。けれど涙は出ない。それはあの車の中に置いてきたから。僕の表情が乏しいのもあの時からだ。入院中は作り笑いだとしても笑えていた。離ればなれになって、おじさんの元に引き取られてから、僕は笑えなくなった。椿を傷つけたとき、僕の心も傷ついて、上手く泣けなく、上手く笑えなくなったんだ。
「誰だってそういうもんだろ。アタシだって奈菜にどれだけ迷惑かけたか。取り返しのつかないことをしてしまって、自分の思い通りにならなくて、腹を立てたことなんて数えきれないくらいある」
グッと握りしめた手が視界の端で震えている。取り返しのつかないことって、一体遥は何をしたんだろう。
「そうやって後悔して、うじうじと過去に縛られるわけだ。アタシも、楓も」
遥が僕の膝に手を置く。布団越しなのに、それはとても暖かく感じた。
「でも、そればかりじゃ勿体ないだろ? アタシみたいに脳天気でポジティブ過ぎるのもどうかと思うが、過去は過去で割り切って、もっと前向きになってみてもいいと思うんだよ。とくに楓は。たとえば……楓がおじさんのところへ引き取られたから、アタシは楓と出会えて友達になれた、とか。ってこれはアタシがいい思いしてるだけじゃないか」
遥が笑う。俯いているから顔は見えないけど、きっといつものように、僕の心を温かくしてくれるような微笑みを浮かべているに違いない。そんな遥の笑顔を、今の僕は見ることができなかった。
「僕は遥みたいに強くないから、そんな風に思えないんだよ。それに、僕がしてきたことをそう簡単に捨てるわけにはいかないんだ。僕は椿を泣かせた。椿に鬱陶しいなんて思ってしまった。行かないでと言う椿の言葉に耳を塞いでしまった」
ズキンと頭が痛んだ。こめかみの辺りを押さえる。部屋が少し寒く感じて、布団を引っ張り上げる。
「そして、ずっと一緒にいるって約束を破った」
「約束?」
「もう椿は忘れてしまっていると思うけど、一度だけ小さかった頃に約束したんだ。ずっと一緒にいる。一人で遠くに行かないって。それを僕は破ったんだ。だから、また椿と暮らすことができるようになって、今度こそ僕は約束を守ろうって思った。けれど、始まってみれば僕は朝から晩まで椿に世話になりっぱなし。姉らしいことを何もしてやれない。椿の邪魔ばかりしてる」
またズキンと痛んだ。その痛みはまるで僕に何かを訴えかけているようだった。いや、訴えかけているんだろう。そんなふうに思うなって。それでも僕は言ってしまう。
「ふと思うんだ。もう椿に僕はいらないんじゃないかって」
頭を殴られたような衝撃が僕を襲う。たぶん怒っているんだ。我慢できなくなって両手で頭を抱える。
「楓。本当にそんなこと思ってるのか?」
遥の声が冷たい。突き放されたような気がして、ビクっと体を震わせる。少しだけ痛みの和らいだ頭から手を離し、膝を抱える。
「だって……だって迷惑ばかりかけてたら椿に嫌われる。鬱陶しいって、邪魔だって、あの頃僕が椿に思ったように、今度は椿が僕にそう思う。……椿に嫌われたくない。嫌われるくらいなら、いっそ――」
突如体が揺れた。肩を掴まれて、無理矢理顔を上げさせられる。遥は怒っていた。目をつり上げ、眉間に皺を寄せ、口はきつく結ばれている。
「それより先は言うな。椿が悲しむだろ?」
「……そんなことないよ。椿なら一人でもやっていける」
遥の視線が痛い。僕は見つめ返すことができずに目を伏せる。遥がため息をつく。
「もしもそうなったとして、楓は一人でやっていけるのか?」
「無理じゃないかな。今まで一人暮らしなんてしたことないし。なにより一人で家事全部できるほどの体力ないから」
「だったら――」
「そうやって、僕は椿におんぶに抱っこで、また迷惑をかけるんだ。いつか嫌われてしまうことにビクビクしながら」
「だからそう言う言い方は――」
「だって本当のことじゃないか!」
遥の手を振り解いて叫ぶ。熱は引いたとは言え、体調はいまだ悪い。ただ叫んだだけなのに、息が上がってしまう。僕が落ち着くのを待って、遥が口を開く。
「なあ。楓は椿のことどう思ってるんだ?」
なんでそんなこと今頃聞くんだろう。そう思いつつも、僕は正直に答える。
「大切な妹だよ。かわいいかわいい僕の大切な妹」
「楓は、椿と離れたくないんだよな?」
「もちろん」
「……そうか」
遥が僕から離れる。その表情はどことなく柔らかい。
「これだけ聞ければいいだろう。今まで良く我慢したな。入っていいぞ」
「え?」
遥の言葉の後、ドアノブが回り、ゆっくりと扉が開いた。僕と遥しかいないはずなのに、おずおずと僕の部屋に入ってきたのは、
「ごめんね。お姉ちゃん」
椿だった。