第50話 蓮君は昔と変わってなかった
平日のこんな時間に家に戻ってくることにちょっと違和感を覚えつつ、玄関のドアを開けて中に入った。
「楓さん、靴脱げる?」
「うん。……っと」
片足立ちで靴を脱ごうとして、体が傾く。すぐに蓮君が肩に手をおいて支えてくれる。
「ありがと」
「このまま部屋まで支えようか?」
「大丈夫」
廊下に上がり、壁に手をつきながら進む。このまま自分の部屋に行って、すぐにでもベッドに横になりたい気分だ。でもご飯はともかく、薬くらいは飲んでおかないといけないので、自分の部屋へ行く前に、薬箱を置いてあるリビングへと向かう。一応部屋に常備してある頭痛薬にも解熱作用はあるけど、こういうときは風邪薬を飲んだ方がいい。熱をどうにかしたいんじゃなくて、早く治したいんだから。
「えっと、薬どこに置いてたっけ。たしか……」
「ああ、楓さんは座ってて。俺が代わりに探すから」
リビングに入った途端、肩を後ろから押されて、無理矢理にソファーに座らされる。革製のソファーはひんやりとしていた。
「どのあたり探せばいい?」
「たぶんその戸棚の上。そこに椿がこの前置いてたと思う」
蓮君が視線を戸棚の上に向ける。僕の身長じゃダイニングの椅子に乗らないと見えないけど、蓮君なら見えるのだろうか。
「あ、あった」
見えたらしい。羨ましい。蓮君は楽々と戸棚の上に手を伸ばして白いプラスチックのボックスを下ろす。ダイニングテーブルに置き、開いて中を確認する。
「風邪薬に冷却シート、栄養ドリンクもある。一通り揃ってるな。……って、そうだ。楓さんは先に部屋に行って着替えてなよ。5分くらい経ったら薬持って行くからさ」
「ん、分かった。じゃあ着替えて待ってるね」
「着替えたらすぐに寝るように」
「はいはい」
ソファーの横に置いた鞄を持っていくか少し悩み、持つのが億劫だからと、携帯だけを取り出して、リビングを出て自分の部屋へと向かう。中に入るとすぐに、朝帰ってきたら着替えようとベッドの上に畳んであったパジャマに着替え、制服をハンガーにかけてクローゼットにしまう。
ふぅと息をついてベッドに腰を下ろす。やっと横になれる、気が緩んだせいか、途端に体に力が入らなくなり、同時に頭がくらっとして、予期せぬ形でベッドに横になった。なんとか上布団を体の下から上へと持ってきて、体を包む。初めは少し冷たかったが、徐々に暖かくなってくる。体温がかなり高いようだ。すぐに暖かいどころか汗を掻いてしまうほどに熱くなってしまう。そのまましばらく布団にくるまれていると、トントンとドアをノックする音が聞こえた。
「楓さん、入るよ」
蓮君の声を聞いて、ふいに昔の記憶が甦る。そういえば、伯父さんの家にいたときも、蓮君は今と同じ言葉を言ってたっけ。懐かしくなって、あの時と同じように返事をしないことにする。蓮君もあの時と同じようにしてくれるだろうか?
布団を体に巻き付けて、ドアを凝視する。数秒後、もう一度ノックが聞こえる。これにも返事はしない。ガチャリとドアノブが回って蓮君が部屋に入ってきた。
「ノックしたんだから返事くらいしてくれてもいいのに」
僕を見ると、少し呆れ顔で言った。凄い。一字一句、昔と同じだ。
「ぷっ、あはは」
「突然笑ってどうしたんだ?」
おかしくなって笑ってしまった。蓮君が怪訝な顔をする。
「ごめんごめん。昔と一緒だなって思って」
「昔と? ……ああ。本当だ。ははっ」
蓮君も昔を思い出したらしく、笑い出した。
「そうか。だからさっき返事しなかったのか」
「うん。昔僕は返事してなかったのを思い出したから」
「ったく。ほら、薬持ってきたから飲んで」
蓮君に手を貸して貰って上半身を起こす。
「この粉薬を水で飲んで。そのあと栄養ドリンク」
「こ、この薬飲むの?」
蓮君が持ってきたのは、薬箱に入っている薬の中でも最も苦い粉薬だった。効果は抜群なんだけど、あの後味悪い苦さは嫌いだ。
「小学生みたいにシロップを飲むわけにもいかないだろ? ほら、鼻摘んで飲めば苦さも感じないって」
「……分かった」
渋々粉薬を受け取ると、左手で鼻を摘んで一気に口に流し込む。「んーんー」と呻きながら、空いた右手で水を要求。受け取ってすぐに口を付けた。
「……苦い」
鼻を摘んだところで苦い物は苦い。良薬は口に苦し、とは言うけど、すすんで飲みたいとは思わない。この苦さは一生慣れることはできなさそうだ。粉薬より全然飲みやすい栄養ドリンクをなんとか飲み干し、再び横になった。薬を飲んだばかりなのに、もう調子が上向いてきた気がする。さっそく薬の効果が……なわけがないので、きっと気持ちの問題なんだろう。病は気からって言うし。
「部屋は違うけどさ、こうやって楓さんと二人で楓さんの部屋にいると、ほんと昔を思い出すよ」
蓮君が物珍しそうに部屋を見回す。できたらあまり見ないでほしいんだけど。
「昔を思い出すって、主に無愛想な僕を?」
ちょっとからかってみた。
「それと、やたら元気な柊」
「ふーん。無愛想は否定しないんだ」
「したいところだけど、あれはさすがに、なあ?」
「本人目の前にして『なあ?』って同意を求められても」
蓮君が苦笑する。薬箱から冷却シートを取り出し、僕の額にぺたりと貼った。昔も熱が出たときは、こうやって蓮君が看病してくれたっけ。
「ほら」
「ん」
体温計を口に咥える。しばらくしてピピピと電子音がなり、蓮君が体温計を手に取る。
「37度8分か。平熱が低い楓さんにしては高いな」
思った以上に高かった。こんなので椿が学校から戻ってくるまでに治せるのだろうか。
「でも見たところ元気そうだし、夕方には治りそうだな」
「なんで分かるの?」
「伯父さんの家に通い詰めた成果、かな?」
そういってから、何か思い出したように「ああ、そうだ」と言って話を続ける。
「ついでに思い出したけど、楓さん、僕との約束忘れてるよね?」
「約束?」
蓮君と何か約束なんてしたっけ? 首を捻る僕に、蓮君が意地悪そうににやりと笑みを浮かべる。
「中学に行って、落ち着いたら連絡するように、っていう約束」
「……ああっ!」
そうだ。僕は中学に通うために寮に入る前日に、蓮君と約束したんだ。「寮に入ってすぐはいろいろと苦労することがあるだろうから、落ち着いてからでいいので連絡して」と。すっかり、今の今まで忘れていた。なんでこんな大事なこと忘れていたんだろう。
「ごめん」
申し訳なくなって謝る。けれど、蓮君は少しも気にした様子もなくけろっとしていた。
「いいよ。別に気にしてないから。便りがないってことは、それだけ充実してるってことなんだろうって思ってたから。久しぶりに会ってみたらその通りだったしね」
「……うん」
たしかに、僕の中学時代は、初めこそすぐにでも寮を出て行きたいと思うほど嫌だったけど、遥や奈菜、沙枝のおかげで、結果としては十分に充実した楽しい中学生活を送ることが出来た。ああ、そうか。それだ。それで僕は蓮君との約束を忘れていたんだ。
「クラスマッチの時に出会った楓さんは、あの頃と違って普通に歩いていて、友達もいて、しかも笑っていたからね。……でも、今はちょっと元気ないみたいだけど」
蓮君の大きな手が伸びてきて、ぽんっと僕の頭にのせられる。
「俺は楓さんと柊以外とはあまり話したことなくて、遥さんや椿ちゃんのことなんかはよく分からないけど」
大きな手で優しく撫でられ、ちょうど薬が効いてきたのか、次第に瞼が重くなってくる。
「楓さんは、もう少し甘えていいと思うよ」
優しく笑う蓮君を見つめながら、僕は瞳を閉じた。