第49話 椿に嘘をついた
『椿はね、あなたが思っている以上に、あなたのことが大好きなのよ』
料理部の部室を出て教室に戻っても、その言葉が頭の中に残っていた。椿が僕を慕ってくれていることは分かっている。それに気づかないほど僕も鈍感じゃない。だって、そうじゃなければ一緒に暮らすことなんてできないだろうし、あんなにも僕のことを心配してはくれないだろうから。
でも、「どのくらい慕われているのか?」と聞かれると、僕には応えられない。穂乃花先輩の言うように、椿は僕が思っている以上に、僕のことを好きだと思ってくれているのだろうか? それは僕が唯一の肉親、姉だから? それとも小さかった頃によく遊び相手になってあげたから?
……結局、椿は僕の妹といえども、僕自身ではない『他の人』。だから、椿が僕をどう思っているかなんて、椿以外誰も分からないんだ。姉である僕でさえも。
◇◆◇◆
朝。いつもよりも早い時間に用意を済ませた僕は、制服姿で部屋から出てきた椿を横目に玄関へと向かった。
「へ? お、お姉ちゃん?」
僕がこんな時間に一人で起きていること、そしてさらに着替えを済ませていることに椿は驚いているようだった。
「僕、用事あるから先出るね」
靴を履きながら、振り返ることなく告げる。トントンとつま先で地面を叩いて、鞄を持つ。
「あ、朝ご飯。野菜ジュースは飲んだの?」
「時間ないから飲みながら行くよ。ほら、ちゃんと持ってる」
鞄の中から紙パックの野菜ジュースを取り出す。
「えっと、あの……き、気をつけてね」
「うん。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
心配そうな椿の声を背中に受け、僕はドアを開いた。
空は快晴。天気予報によれば気温もちょうど良く、過ごしやすい一日になるでしょうと言っていた。それなのに、マンションを出た僕は酷い倦怠感に襲われていた。
一応学校に行くふりだけでもしとこう。まったく働かない頭で考え、ゆっくりと歩みを進める。それにしてもさっきは危なかった。あと少し椿が部屋から出てくるのが早かったら、顔を見られて、きっと僕の調子が悪いことがばれてしまっていたに違いない。
フラフラと歩きながら、額に手を当てる。ちょっと熱い。体温を測っていないけど、37度くらいはありそうだ。はあ、と体の怠さを少しでも外に出そうと息を吐く。もちろんそんなことで改善するはずもなく、重い頭のせいで自然と視線が下がる。
今日の朝、目覚ましよりずっと早い時間に、息苦しさで目を覚ました僕は、すぐに自分の体の異変に気づいた。異変と言っても、単純に最近の疲れがたまって、それが吹き出したことによる発熱だ。中学の頃によくそれで寝込んでいたから、起きてすぐに分かった。
大抵のことは我慢する僕でも、この状況で学校へ行こうとはさすがに思ってはいない。ただあのまま大人しくベッドで寝ていたら、椿に熱のことを感づかれて心配されてしまう。もしかすると、学校を休んで看病すると言い出すかもしれない。
それだけはダメだ。姉の僕のせいで学校を休むなんて……姉の僕が妹の椿にこれ以上迷惑をかけるなんてこと、あってはならないんだ。だから僕は重い体を引きずって、学園祭の準備を理由にして先に家を出るふりをした。あとは椿が家を出た後に戻って、今日一日部屋で大人しくしてればいい。
のろのろと歩き続け、住宅街を抜けたところで通学路から外れる。2、3分歩いて見つけた公園に入りベンチに座った。弾んだ息を落ち着かせ、鞄の中から携帯電話を取りだして、学校へと電話をかける。
「もしもし。2年D組の四条楓ですが、今日体調不良のため、学校を休みます。……はい。……はい、すみません。よろしくお願いします」
手早く済ませて電話を切り、携帯電話を鞄に戻す。出てくれたのが担任の山本先生で良かった。空を見上げてベンチの背もたれに体重をかける。木製のベンチが少しだけきしむ。遠くの方で笑い声が聞こえる。たぶん同い年くらいの子だ。朝からあんなに笑えるなんて、元気だな。
「はあ……」
ため息をつく。誰かが今の僕を見たらどんな風に映るのだろう。朝の登校時間に公園のベンチに座る制服姿の女の子。待ち合わせ? 何か思い悩んでいる? 登校拒否? 3つ目と思う人が多そう。きっと今の僕はそんな雰囲気を出していると思う。まあ、ある意味間違ってはいない。
時計をちらちらと見ながら時間を潰す。やけに自分の息づかいがうるさくてゆっくりと呼吸してみようとするものの、すぐに疲れて元に戻してしまう。時間が少しずつ進む。早く時間が経ってほしいときに限って時間というものはゆっくりと流れる。ほら、さっき見てから30秒しか経っていない。
椿はそろそろ家を出た頃かな。いつもならこれくらいの時間に家を出るはず。とすると、あと10分もすれば近くの通学路を通るだろうから、そのあとなら椿に出会うことなく家に戻れそうだ。
寒気を感じて胸の前で手を合わせる。朝の冷たさのせいか、それとも熱のせいか、合わせた手は小刻みに震えていた。寒い。早く家に帰って布団に入りたい。食欲はないから、布団にこもって、椿が帰ってくる夜までに調子が良くなっていれば――
「あれ、楓さん?」
聞いたことのある声に顔を上げると、そこには不思議そうな顔をして僕を見る蓮君がいた。
うぁ……まさか知っている人がこの道を通るなんて。でも見つかってしまってはもう遅い。できるだけ調子が悪いのを悟られないよう、普通に接しよう。
「おはよう、蓮君。自転車通学なんだね」
「おはよう。うん。家から学校までは少し距離があるからね。歩けない距離ではないんだけど……って、楓さん顔が赤いけどどうしたんだ?」
「赤い? そう? 気のせいじゃない?」
とりあえずとぼけてみる。できれば見逃してほし――
「ううん。絶対赤い。ちょっとごめん」
「あ……」
見逃してくれなかった。蓮君は自転車を止めて近づいてくると、僕の返答を待たずに額に手を当てた。あーあ、これは確実にばれた。でも蓮君の手、ひんやりしてて気持ちいいな……。そんなことを思いながら蓮君の顔をぼーっと見上げていると、みるみる蓮君の表情が険しくなっていく。
「凄い熱じゃないか! どうして学校を休もうとしなかったんだ!?」
突然の大声に驚いて、思わず目を閉じてビクッと体を震わせる。ゆっくりと目を開けておそるおそる視線を上げる。案の定そこには怖い顔をした蓮君がいた。
「や、あのね、学校は休むんだよ?」
「じゃあどうしてこんなところにいるんだよ。制服まで着て」
「そ、それにはいろいろと深い事情があって……」
「事情って、椿ちゃんに迷惑かけたくないから、先に学校へ行くふりして出てきたってこと?」
「……なんで分かったの?」
蓮君が大きくため息をつく。
「分かるよそれぐらい。もう3年も前になるけど、楓さんとは伯父さんの家にいる頃によく遊んだだろ? これでも少しは楓さんのこと分かってるつもりだ。まったく、見た目は女の子らしく成長しているのに、中身はあまり変わってないんだからな……」
「あの、後の方が小さくて聞こえなかったんだけど……」
「……なんでもない。とにかく、家に戻ろう。もう椿ちゃんも学校に着いた頃だろうし」
そう言われて公園の時計を見ると、いつの間にか予鈴の時刻を過ぎていた。
「蓮君は学校行かないの?」
「こんなところに楓さんを放っていけるはずないだろ? どうせ1、2時間目は自習だし」
蓮君はポケットから携帯電話を取りだす。
「とりあえず椿ちゃんには連絡し――」
「ま、待って!」
慌てて立ち上がり、蓮君の手を両手で包み込む。
「椿には連絡しないで」
勢いよく立ち上がったせいで頭がクラリとする。前に倒れそうになるところを蓮君が肩を押さえて支えてくれた。
「椿ちゃんには連絡しないよ。でも、遥には伝えておこうと思ってね」
「え、遥に……?」
『無理すんなって言っただろ!?』
……遥の怒声が聞こえた気がする。
「は、遥に電話するのはいいけど、ここに僕はいないことにしてね」
「いや、連れて帰るんだからそれは無理――」
「お願い! ……そうしてくれないと、蓮君の言うことも聞かないからね」
「もう……。分かったよ。遥に電話しても楓には絶対代わらない」
「本当に?」
「本当に」
じっと見つめる蓮君の目は嘘を言っているようには見えなかった。渋々蓮君から離れてベンチに座り直す。それを見届けた後、蓮君が携帯電話を耳に当てた。
「もしもし。楓さん来てないだろ? なんか公園で怠そうにしてたからこれから家に連れて帰るところ。うん。うん。椿ちゃんにはなんとか隠しておいて、心配するだろうから。え? し、しないってそんなこと! うん。それでいい。元々そうしてもらおうと思ったから。うん。じゃあまた後で」
携帯電話をポケットにしまいながら蓮君がこちらに向き直る。
「それじゃあ行こうか。歩ける?」
「……正直に言うと、ちょっとしんどい」
「だったら自転車で行こう。掴まることはできるよな?」
蓮君の言葉に頷く。
「よし。じゃあ行こう」
蓮君が自転車に乗り、その後ろに僕が乗る。落ちないようにしがみつくと、自転車はゆっくりと走り出した。