第46話 そして僕達は二人になった
あれは梅雨の時期だっただろうか。厚い雲に覆われた空から雨がしとしとといつまでも降っていたのを覚えている。
◇◆◇◆
冷たい雨が降り注ぎ全身を濡らしていく。ずぶ濡れの僕は体の芯まで冷え切っているはずなのに、まったく寒さを感じなかった。
背中に固いアスファルトの感触がする。どうやら道路に放り出されたみたいだ。わずかに動く手を動かすとゴツゴツとしたアスファルトの表面を流れるぬるっとした液体に触れた。
ゆっくりと目を開く。視界の右半分が真っ暗なままだった。半分になった視界に映ったのは、真っ赤に染まった地面だった。
誰かが僕に駆け寄ってきた。知らない人だった。その人は僕に何か話しかけてきたようだけど、何も聞こえなかった。
眠い。体を打ち付ける雨が子守歌のように僕を眠りに誘う。
少しずつ目が閉じる。知らない人がずっと僕に話しかけている。でもやっぱりその声は聞こえない。
目が完全に閉じる。誰かが僕の肩に手を置いた。
ごめんなさい。後で謝るから、もう、眠くて……。
……。
◇◆◇◆
目を覚ますとそこは知らない場所だった。白とピンクを基調とした壁紙が張られたその部屋には小さなテレビぐらいしか置いていなくて、お客さんが来たときに使う部屋のようにあまり生活感がしなかった。
ぼーっとしていた意識が少しずつはっきりとしてくる。代わりにずきずきと頭が痛み始めた。感じたことのない痛みに困惑する。ふと柔らかい布の感触を感じた。そこでやっと僕は自分がベッドに寝かされていたことを知る。
なんでこんなところにいるんだろう。当然の疑問を鈍痛のする頭で考える。さっきまで僕は父さんの車の後部座席で寝ていた。本当だったら、次に起きたときは武道館に到着していて、剣道の試合に出るはずだったのに。
……いや、そうじゃない。僕は何か怖い思いをしたような……。でもあれは現実感に欠けていたし、もしかすると夢だったのかもしれない。記憶もどこか曖昧だし。
兎にも角にも、考えても答えは出てこなかった。ただ、『何か』が頭の隅っこの方にいて、僕に「気づけ」と言うように存在を主張しているのに気付いた。
なんだろうこれは。嫌な予感しかしないけど、僕はこれを知らないといけない気がする。おずおずとその『何か』に手を伸ばそうとしたとき、部屋の扉が開いて誰かが入ってきた。仕方なく意識を現実に戻す。
部屋に入ってきたのは、小さなかわいい女の子、僕の妹の椿だった。綺麗な花を生けた花瓶を持って部屋に入ってきた椿は、僕を見るなりみるみるその目に目に大粒の涙を浮かべた。花瓶がパリンと音を響かせて床に細かく広がったときには、椿はその音を掻き消すほどの大声で泣きながら僕に抱きついていた。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と繰り返す椿の顔は涙でぐしゃぐしゃで、それを見た僕は頭痛なんて吹き飛ぶほどの痛みを胸の辺りに感じた。
兄が妹を泣かせてどうするんだよ。何故椿が泣いているのか、理由は分からない。けれど理由なんてどうでも良い。とにかく椿が僕の名前を呼びながら泣いている。それが事実。椿を泣かせてしまった自分を情けなく思う。
『泣かないで』
そう言うつもりで口を開こうとした。なのに僕の口は意思に反して少しも動こうとしなかった。内心酷く動揺しながらも、声が駄目なら頭を撫でようと腕に力を込めた。そこで僕はさっき感じた『何か』にやっと気づいた。それは決して知りたくはなかったことだけれど、否応にも知ってしまう、とても簡単なことだった。
口が動かない、首が動かない、腕が動かない、手が動かない、足が動かない。
文字通りに本当に動かなかった。いくら力を込めても、いくら『動け』と念じても、まるで他人の体かのように言うことを聞いてくれなかった。ジェットコースターに似た気分を味わいつつも、ただただ椿に泣いてほしくなかった僕は、椿が握りしめた僕の右手、その人差し指だけに精一杯の思いと力を込める。
しばらくしてから、ゆっくりと人差し指は動いた。椿の手を握りかえしたとは言い難いけど、それでも僅かに動いた人差し指は椿の手の甲に触れることができた。椿がハッとして顔を上げ、僕を見る。僕はいつも椿に見せる笑顔を作る。椿の目から涙が止まった。そして「お兄ちゃん!」とぎゅっときつく抱きついて再びあふれ出した。
その涙はさっきまでとは違い、少しだけ暖かい気がした。
◇◆◇◆
数分後にやってきた僕の主治医だという親戚の叔父さんから、あれから僕に何が起こったのか、全て話してくれた。
僕達が乗っていた車は交通事故に巻き込まれ、父さんと母さんは即死。柊も搬送されたこの病院で息を引き取り、車に同乗して生き残ったのは僕だけだった。けれどその僕も体に致命傷を受けて生死の狭間にいた。そこで叔父さんは比較的軽傷だった柊の体に僕の脳を移植することで僕を助けようと考えた。親族の同意の下行われた手術は無事成功し、僕はまた目を覚ますことができた。
叔父さんが用意した姿見に映る僕は柊の姿をしていた。僕と柊は双子でよく似ていたから他人が僕を見てもきっと気づかないだろうけど、たしかに間違いなく柊だった。看護師さんに支えられて上半身を起こしている僕は、全身に包帯が巻かれていて見ていてとても痛々しかった。ただ頭痛を除くと痛みというものはほとんどなかった。叔父さんが言うには、移植してまだ数日なので体がまだ馴染んでおらず、痛覚その他があまり機能していないから、ということらしい。あともう数日もすれば車いすで生活するくらいには回復できるとのこと。ただ前のように歩いて普通に生活できるようになるには数年かかると言われた。
叔父さんの言葉を理解しながらも、僕は父さん、母さん、そして柊を失ったことがあまりにも大きすぎて、酷い喪失感に泣くことも忘れて三人のことを考えていた。もう数日前のことらしいけど、僕にとってはついさっきの出来事。さっきまで柊と試合のことで話していたのに、その柊はもうこの世にはいない。
もう柊と話すことどころか会うこともできないんだ。もう柊に「楓」と呼んでもらえないんだ。あの屈託のない笑顔で微笑みかけてくれることもないんだ。
涙腺が緩み、涙がじわりと浮かんだ。裾を引っ張られる感覚に目を向けると、椿が僕の服の裾をぎゅっと掴み見上げていた。その瞳は不安で揺れているようだった。
そうだ。僕が泣いちゃ駄目だ。僕は椿の兄なんだから。ぐっと涙をこらえて椿に微笑みかける。ちゃんと笑えているかどうか鏡を横目で見る。うん、ちゃんと笑えてる。
椿は一瞬驚いたような表情をしたあと、すぐに安心したように涙目ながらも笑顔になった。
そう、これでいいんだ。父さんも母さんも柊もいなくなって、胸がすごく痛くて寒くて辛いけど、僕はお兄さんなんだから。僕が椿を安心させてあげないと。
◇◆◇◆
数日後、看護師さん同伴で車いすであれば外出できるようになった僕は、椿と一緒に母さん、父さん、そして柊のお葬式に出た。
椿は泣いていた。僕に縋り付くように、膝の上でずっと泣いていた。そんな椿の頭を、僕はやっと動くようになった右手でずっと撫で続けた。
どこにも行かないで。
それはとてもとても小さな声だった。けれど、たしかに僕にはそう聞こえた。だから僕は応えた。小さな小さな声で椿にだけ聞こえる声で。
どこにも行かないよ。
びくっと椿の体が震え、それからぎゅっと僕の服を掴んだ。
どこにも行かないよ。
もう一度囁く。椿の手から力が抜けた。頬を伝う涙の線も、少し細くなった。
どこにも行くもんか。心の中で強く呟く。だって僕は椿と一緒にいるって『約束』したんだから。