第5話 朝は弱い
「……っ。……」
……。
「……っ……ん」
……んー?
「……ちゃん」
声が聞こえた気がした。遠く……ではないようだ。結構近い。重い瞼を少しだけ持ち上げてみる。案の定、いつもの通り視界は布団に覆われていたけど、強い日差しは布団の中にまで入ってきていた。ちゃんとカーテンは閉めて寝たはずなのにどうして明るいんだろう。僕は眩しくて目を細めた。
「……ちゃん。お姉ちゃん起きて」
ゆっさゆっさと体が揺れ始める。
……あぁ、なるほど。
さっきから聞こえる声は誰かが僕を起こしに来たのだということを理解する。誰だろう。遥……は去年学園に進学したからもういない。ということは、きっと高等部からメームメイトになった奈菜だ。
「んー……」
あと5分……と言いたいところだけど、それを言うと奈菜は布団を剥ぎ取って無理やり起こそうとする。あれをやられるくらいなら自分から起きた方がまだマシだ。眠い目を擦りながら頭まですっぽりと被った布団を少しだけめくる。
「お姉ちゃん? ……はぁ、やっと起きた」
あれ、奈菜じゃない……?
「……だれ?」
「誰って椿だよ。……もしかしてお姉ちゃんねぼけてる?」
椿? ……ああ、そうか。昨日引っ越したんだっけ。
「もう朝だよ。そろそろ起きないと」
「……うー」
布団の中で伸びをする。……眠い。
「……っと。あれ?」
体を起こそうとしてみるけど、腕に力が入らなくて上手くいかない。
「んんっ……はあ」
再度試してみるものの、体を一ミリも持ち上げることができない。昨日の引っ越しが原因かな。
「どうしたの?」
「ごめん、椿ちょっと手を貸して」
「ん? はい」
首を捻りつつも椿が差し出してくれた手に、僕は力の入らない手を重ねる。
「僕の手を引っ張って起こして」
「うん。……行くよ?」
僕が頷くと、椿は僕の手をぎゅっと握って引っ張った。椿に引かれて僕の体が持ち上がり、やっと上半身を起こすことができた。なんとかその体勢のままベッドの縁に移動して床に足を下ろす。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「頭ふらふらするし、体にまったく力入らないけど、なんとか……」
「それって大丈夫って言うの……?」
椿の問いに、首を少し傾げて肩を竦め、苦笑で答える。
「しばらくすれば良くなるから、もう大丈夫。ありがとう椿」
これ以上椿の時間を僕のために使わせるわけにはいかないので、自分の作業に戻るよう促す。
「う、うん。分かった」
と椿は返事したのに、何故かそのまま部屋を出ていかず僕の頭に手を乗せて撫で始めた。
「……椿、なにしてるの?」
「あ。……寝起きのお姉ちゃんが可愛かったから、つい」
ついってなんだ。ついって。
「お姉ちゃん可愛いなあ……」
妹に可愛いって言われる姉ってどうなんだろう……。そんなことを考えつつ見上げると、椿は僕の頭を撫でながら、凄く嬉しそうな表情をしていた。
……まあ、いいか。起きるのを手伝ってもらった手前、無下にすることもできず、僕はしばらくの間椿に頭を撫でられ続けた。
◇◆◇◆
パジャマから白地のシャツとホットパンツに着替えてリビングにやってきた僕は、テーブルについて昨日買ってきた野菜ジュースを飲みながら、椿に髪を梳いてもらっていた。ちらっと時計を見ると9時半過ぎ。昨日はご飯を食べた後にお風呂入って10時にはベッドにもぐり込んだから、11時間は寝ていたことになる。休みだからとは言え、我ながら寝過ぎだと思う。
「お姉ちゃん。いつも朝はあんな感じなの?」
「いつもってわけじゃないよ」
話題はさっきの僕のことだ。
「昨日は引っ越しで結構動いて疲れたから、そのせいかな」
「そっか……」
髪を梳く椿の手の動きが少しだけ鈍くなった。……まあ、あんなフラフラした姉の姿を見せられたら心配にもなるか。普通の人なら荷造り荷解きほとんどなしの引っ越しくらいで、次の日にこんなに疲労するなんてことはない。いや、そもそも凄く体を動かして疲れたとしても筋肉痛になるくらいで、さっきの僕のように自分の体さえ起こせなくなるなんてことはない。
「あ、そうだ。一応言っておくけど、僕は朝弱いから。恥ずかしいことだけど、向こうでは同じ部屋の友達に起こしてもらってたくらいだし。……思い出した。目覚まし買わないと」
「いいよいいよ。わたしが起こすから」
椿が僕の肩に手を置いたので、何かと思い後ろを振り向くと、何故か椿は嬉しそうに笑っていた。
「や、でも朝の忙しい時に時間を割いてまでそんなことしなくても……」
「目覚ましの音で起きるなんて気分悪いでしょ?」
「それはそうだけど」
「ね、いいよね?」
つ、椿ってこんなに推しが強かったかな。昔はいつも静かに僕の後ろを付いてくるような大人しい子だったと思うけど。
「……椿がそう言うなら、よろしく」
「やった。ありがとうお姉ちゃん」
椿はバンザイして喜びを体全体で表した。
「……なんで椿がそんなに嬉しそうなんだか」
「えへへ~。いいからいいから」
上機嫌に笑いながら、椿は再び僕の髪を梳かし始めた。
◇◆◇◆
「はい、できたよ」
椿に手渡された鏡を覗き込む。見事に寝癖が直されていた。自分じゃこうはいかないのに、何かコツでもあるのだろうか。
「お姉ちゃんの髪って柔らかいんだね」
「そう?」
「うん。こんなに長くて細いのに枝毛一つないし。どんなお手入れしてるの?」
椿が僕の髪に触れる。
「別に特別なことはしてないけどなぁ~」
飲み終えた野菜ジュースの紙パックを折りたたむと、立ち上がってキッチンのゴミ箱に捨てる。
「本当に朝はそれだけでいいの?」
「うん」
「昨日の夜もおにぎり一個しか食べてなかったけど」
「プリン二つ食べた」
「あれはデザートだからご飯には入らないような……でもお腹の足しにはなるし……うーん……」
椿が腕を組んで唸り声を上げる。何をそんなに悩んでるんだか。
「……とにかく、お姉ちゃんは朝は野菜ジュースとか、それくらいのものがいいってこと?」
「うん」
「わかった。明日からそうするね」
「ありがとう、椿」
僕の言葉に椿は首を横に振って答えた。
◇◆◇◆
「お姉ちゃん。今日はどうするの?」
身支度のために自分の部屋に戻っていた椿が、リビングのソファーに座ってテレビを見ていた僕の隣に座りながら尋ねてきた。
「引っ越し済んだら顔出すって言ってあったから、伯母さんのところに行ってくる」
「あ、それならわたしもお姉ちゃんについて行こうかな。春休み終わってから一度も帰ってないし」
……一度も?
「え、高校に入ってから全然帰ってないの?」
「うん」
僕は驚いたあとに椿にジト目を向ける。
「それはさすがにどうかと思う」
「だって、行こうと思えば一時間あれば行けるし、お母さんからはよく電話かかってくるから……」
「それは単純に椿が家に顔を出さないから心配してるんじゃ……」
「あ、なるほど」
今気付いたらしく、椿はポンと手を叩いた。
「じゃあ、今日はお昼に外出して、どこかでお昼ご飯を食べてからお母さんの家に行って、その帰りにスーパーで買い物するっていうのはどう?」
「それでいいんじゃないかな」
椿の提案に僕はそう言いながら頷く。
「……あ」
そのとき、僕は大事な事を思い出した。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「伯母さんの家行った後に、時間あるかな?」
「うん。わたしは用事ないし、スーパーも遅くまで開いてるから時間なら全然気にしなくていいけど……どこいくの?」
僕は少しだけ考えてから、素直に行き先を告げた。
「お墓参り」