第43話 遥はお見通し
「じゃあお姉ちゃん、わたし学校行ってくるね!」
「え、今日日曜だよ?」
「学園祭の準備。なんか香奈達のグループが予定よりも全然遅れてるんだって」
「ふーん。大変だね」
「まあ香奈のことだからどうせこうなるだろうとは思ってたけどね。夕方までには帰ってくるけど、お姉ちゃんは何処か出かける予定ある?」
「なし。何かすることあったらやっておくよ? 洗濯物とか掃除とか」
「掃除も洗濯も昨日のうちにやってあるから大丈夫。最近の洗濯機や掃除機って静かで良いよね」
「い、いつの間に……。じゃあ買い物――」
「お姉ちゃんが昨日買ってきてくれた分があるからそれも良い」
「うぅ……。そ、それなら晩ご飯作るよ。料理本があったと思うから、それを見ながら作れば僕でも――」
「だーめ。ご飯はわたしの担当って言ってるでしょ? ちゃんと早めに帰ってくるから心配しないで。あ、お昼ご飯は冷蔵庫にロールキャベツがあるから、温め直して食べてね」
「え、あ……うん」
「おやつのクッキーは机の上、ケーキは冷蔵庫。ジュースなら新しいのを冷蔵庫に入れておいたから冷えてると思う。紅茶が飲みたかったらキッチンに一式置いてあるからそれ使って」
「あ、ありがとう」
「何かあったら電話ちょうだい。それじゃいってきます!」
「……いってらっしゃい」
◇◆◇◆
週末に学園祭を控えた月曜日。一昨日に引き続き僕達二年D組の面々は放課後の教室に居残り、プラネタリウムの制作に取りかかっていた。
遥は今日も投影機の取扱説明書を一人黙々と読み進めている。たまに低いうなり声を上げて頭を掻きむしっているけど、読み終えたページ数を見る限りは順調そうだ。綾音さんは特別棟にある空き教室の使用許可を今日やっと取れたようで、ドーム組み立て班のみんなとそっちに移動して作業している。葵さんは教壇の周りに集まった四、五人のクラスメイトとプラネタリウムの講演内容について話し合っている。
いつもなら僕は葵さんのグループに入るのだけど、体調が悪いことを悟られないようにするため、葵さんに断って今日の所は外して貰った。今は別のグループに加わって、学園祭当日の教室を飾り付ける小物を作っている。僕が担当するのは画用紙を星や星座の形にカッターで切り抜くというもの。これに蛍光塗料を塗ったものを壁や天井に貼って、教室とその中に設置するドームとの間の真っ暗な空間に星空を作ろうということらしい。これは『教室の中に設置したドームは閉鎖的なものであり、通りかかった人が教室を覗くと真っ暗で殺風景だ』というクラスメイトからの意見から考えられた。
予め画用紙に描かれた線にそって切り込みを入れるだけの簡単な作業なのだけど、一つ一つが小さく数が多いため、数をこなしているとさすがにくたびれてくる。しかも頭痛を抑えるための鎮痛薬を飲んでいるせいで頭がぼーっとしている。おかげで集中しづらく、それが余計に僕を疲れさせる。そんな状態で作業を続けていたせいだろう。
「――っ!?」
ふいに指先に鋭い痛みが走った。霞みがかっていた思考が少しだけ鮮明になり、カッターで指先を切ったのだと理解すると、痛みはさらに強くなった。血のにじむ指先を机の下に隠しながらさっと教室を見回して、誰も僕を見ていないことにほっとする。
ポケットからテッシュを取り出して傷口に巻き付ける。ティッシュはすぐに赤く染まり、慌ててもう一枚重ねる。結構深く切ったのかもしれない。さすがに絆創膏は持ってないし……仕方ないけど、血が止まるまではこのまま――
「楓」
「ひっ!?」
頭上から良く知る声が聞こえた。けれどそれはいつもと違い威圧感を帯びていた。
「な、なに遥?」
悪戯をしていたところを母親に見つかってしまった子供のような心境で、少し顔を引きつらせながら視線を合わせる。
「休憩行くぞ」
「う、うん」
有無を言わせぬ雰囲気に、反射的に頷いてしまう。葵さんに何か耳打ちしてから教室を出て行く遥の後に続いて、僕も同じ作業をしていたクラスメイトに休憩することを告げて、遥の後を追った。
◇◆◇◆
休憩と言っていたからてっきり学食に行くものだと思っていたのに、何故かやってきたのは保健室だった。
「そこに座れ」
言われたとおりに大人しく椅子に座る。遥は備え付けの戸棚や机の上を探ってから、僕の前に膝をついた。
「先生もいないのに、勝手に保健室使って大丈夫?」
「保健委員だから心配ない」
「誰が?」
「アタシが」
ポケットから何かを取り出して僕に見せる。それは保健室の鍵だった。遥が保健委員だなんて意外だ。
「いつでも使って良いと許可も取ってある。ほら、手を出せ」
おずおずと怪我をした左手を差し出す。
「我慢しろよ」
僕が頷くのを確認してから傷口に消毒液を吹きかける。痛みに涙が浮かんだけど、なんとか声は出さずに済んだ。
「これでよし」
「あ、ありがとう」
絆創膏が巻かれた指先を撫でながらお礼を言う。けれどそんな僕を遥は何も言わず、じっと見つめる。居心地悪く視線を彷徨わせながら遥の言葉を待つものの、視線を固定したまま微動だにしない。
「え、えっと。はる――」
沈黙に我慢できず口を開いたその時、遥は右手を僕の頬に当てて顔を近づけてきた。
「ち、ちょっと遥!?」
「静かにしてろ」
低い声がやけに響いて聞こえて、体を硬くする。そのまま緊張しながらじっとしていると、遥の指先がそっと僕の目の下に触れた。一瞬それに何の意味があるのかと首を傾げたけど、すぐにその意味に気づいた。
「やっぱり……」
心配するような、呆れるような、そんな表情をして僕の目の下辺りに視線を注ぎ、次いで指先についたオレンジ色の粉に視線を落とした。
「クマ隠すの上手くなったな……」
顔を上げた遥が僕を見つめる。きっと僕の目の下の化粧の薄くなった箇所からクマが顔を覗かせているに違いない。
「これ自分でやったんだろ?」
遥がまた目の下に触れる。
「まあ、椿には言えないし……」
今更嘘が通じるとも思えず白状する。
「ったく。隠すことばかり上手くなりやがって……」
「つ、椿も気付かなかったのに、よく気付いたね。いつ気がついた?」
「違和感は朝からあった。クマに気付いたのは昼だな。すぐにでも言ってやろうかと思ったが、隠しているようだったから放課後まで様子を見ようと思ったんだよ。そしたら……」
遥が半眼で怪我をした指に視線を向ける。
「こうなるんだったらもっと早く声を掛ければ良かったな」
「ご、ごめん。遥に気を遣わせちゃって」
遥が小さく舌打ちする。それを聞いて顔を俯かせると、「悪い」と呟いてからそっと僕の頭を撫でた。
「自分に腹を立ててるだけだ」
「……でもそれも結局は僕のせいだよね?」
僕が怪我をしなければそんな思いをしなくて済んだのだから。
「そう思うようにさせたのはアタシのせいだ」
「でも――」
「だー。そんなことはどうでもいい!」
遥は立ち上がると近くにあったコットンを手に取り、少し乱暴に僕の化粧を落とし始める。
「は、遥痛いよ」
「少し我慢しろ……まあこんなもんだろ」
変色したコットンをゴミ箱に投げ捨てる。
「よっと」
「え、ちょ、遥!?」
ふわっと体が浮遊感に包まれ、少し遅れて気付いたときには遥に抱え上げられていた。驚いて声を上げるけど、遥は僕を抱えたまま歩き、ベッドの上に下ろした。
「少し寝ろ」
「や、でも」
「いいから寝ろ。起きるまで見張ってるから、逃げようとか考えないようにな」
それってつまり起きるまで近くにいてくれるって事じゃ……。
「起きたら話を聞くから、寝てる間に考えとけよ」
「ね、寝てる間にって、そんなこと無理だから……」
僕がそう言い返すと、遥はにやりと笑って、
「無理なら何も考えず、思ったことを喋れば良いんだよ」
遥が布団をかけてくれて、そっと頭に手を置く。たったそれだけで、昨日あれだけ眠れなかったのに、魔法がかかったかのようにゆっくりと瞼が降りてくる。
「ん……ごめん……少しだけ、寝る、ね……」
「ああ。おやすみ、楓」
半分ほど閉じてしまった目で見た遥は笑っていた。そういえば、今日遥が笑っているの見たの、これが初めてかな。