第40話 椿は大変そう
シャーペンを置いて顔を上げると、さっきまで青かった空が茜色に染まっていた。窓から差し込むオレンジ色の光に目を細めながら、いつの間にこんなに時間が経過したのだろうと驚く。
視線を下ろして机いっぱいに広げたコピー用紙を眺める。今僕が作っているのは学園祭の時に教室の外の壁に貼る予定のポスターだ。星空をバックにいくつか代表的な星座を描き、その横に解説を加えたシンプルなもので、少しでもプラネタリウムに興味を持って貰えればと思って作成した。パソコンならもっと凄いものが作れるのかもしれないけど、この時期パソコンはどこも埋まっているし、何より僕がパソコンをうまく使えない。仕方なくこのデジタルなご時世に手書きというアナログちっくなポスターになったけど……まあこれはこれで手作り感があっていいのかもしれないと思うことにした。
「楓ちゃん、できた?」
顔を上げると葵さんと目が合った。様子を伺いに来たらしい葵さんに今できたばかりのポスターを見せる。
「これでどうかな?」
葵さんはしばらく考える素振りを見せてから微笑む。
「うん。文字は大きくて分かりやすいし、星座の絵が目を引いて良いと思う。さすが楓ちゃん、上手」
「そ、それなら良かった」
葵さんに褒められたことは素直に嬉しかった。けれど少なからず憧れている人からの賞賛の声に僕は照れてしまい、思いとは裏腹に不機嫌そうに返してしまう。
「あれ、楓ちゃんどこか調子悪いの?」
そんな僕を体調が優れないと勘違いした葵さんが心配そうに見つめてくる。
「だ、大丈夫。どこもおかしくないから」
「それなら良いけど……無理はしないでね?」
「うん。分かってる」
頷く僕に葵さんは優しく微笑んだ。
「じゃ、このポスター持って行くね。今日はもう終わりするから楓ちゃんは帰る準備してて」
僕からポスターを受け取って教壇へと向かう葵さん。しばらくしてパンパンと二回手を打ち鳴らし、今日の作業の終了を宣言した。
こうして今日も無事作業を終えた。出し物をプラネタリウムと決めてから分かったことだけど、この学校には天文部がなかった。さらにクラスの知人や先生の中にもプラネタリウムについて詳しく知る人は見つからず、結果素人同然である僕達だけでプラネタリウム施設の作成と設営、そして演目の内容を決めなければならなかった。
最初は四苦八苦した僕達だけど、葵さんを中心に毎日昼休みと放課後を使い、図書館やインターネットから情報を得ながら少しずつ作業を進めた。おかげで一週間が終わる頃にはなんとか学園祭までには形になりそうだというところまでこぎ着けることができた。
と言ってもドームは授業が休みになる学園祭準備期間に入ってから作らないと大きすぎて保管する場所がない。そのため今のところは材料だけ集めて組み立てはまだしていない。また、プラネタリウム上映中に行う演目の練習も投影機が修理から戻ってきていないのでやれずじまいだ。
このように不安要素はたくさんあるのに、みんなはあまり気にしていない様子だった。
「どうした楓?」
鞄を持った遥が不思議そうに僕を見下ろしていた。
「あと一週間なのに、みんな思ったより慌ててないなあ、って」
「まあ、仕切っている葵がまったく焦ってないからな。ほとんどのやつが去年葵と同じクラスだったから、計画通りに進んでいれば何も問題ないことを知ってるんだよ」
裏を返せば、それだけ葵さんがみんなから信頼されているということ。今も葵さんはみんなに指示を出しているけど、誰も不満を言う人はいない。それが何よりもの証拠だ。
「さて、帰ろうか」
そう言って歩き出す遥。僕は周囲を見回して、綾音さんがいないことに気づく。
「綾音さんは? それに葵さんもまだ」
「綾音ならだいぶ前に部活に行ったぞ。葵も後で少しだけ部活に顔を出すんだってさ」
「あ……。そっか。二人とも部活でも何かやるんだよね」
部活に入っている人はそちらを優先することになっている。だけど葵さんも綾音さんも初日から毎日クラスの準備に参加してくれていたのですっかり忘れていた。
「部活の方は大丈夫かな?」
「葵の料理部はほとんど会長がやってくれて忙しいのは前日だけだって言ってたから心配することないだろ。さすがに綾音は部長だから顔を出すだけじゃだめだとか言って走っていったけどな。くくっ」
そのときのことを思い出してなのか、遥が声を押し殺して笑う。
「忙しそうだね。こっちの分を誰かが代わりにしてくれればいいんだけど」
僕が代われるなら代わりたいところだけど、綾音さんが仕切るグループは設営班。非力な僕じゃ綾音さんのように作業に参加しながらみんなをまとめることなんてできない。ただ偉そうに指示を出すだけだ。
「いや、それは自分がしたくてやってることだからいいんじゃないか? それにバレー部は毎年新入部員が綿菓子作るのが恒例らしいから、特に綾音がすることもないって」
「……いいのかな?」
「ああ。今日だって予定の作業を終わらせてから部活に行ったんだ。むしろ練習が休みな分普段より楽だと思う」
練習とこれとはまた違うような……。でも、体を使うということではたしかに楽なのかもしれない。
「まあ、綾音が忙しそうだったらアタシが代わりにやってやるよ。あれ読むだけじゃしんどいしさ」
そう言って自分のロッカーに視線を送る。その中に入っているのは分厚い投影機の取扱説明書。遥は毎日その本と睨めっこしながら、時々休憩がてら綾音さんの班を手伝っていた。「家のものなんだからアタシが操作する」と言い出して葵さんも遥に任せたけど、さすがに普段教科書も読まない遥が何百ページとある本を読むのは堪えているようで、今もしきりに瞬きしている。
「ふぁ……。自分から言い出したこととは言え、アタシが本を読むなんてありえないよな。眠くなるし」
「良い本読みの練習になって良いんじゃない?」
「高校生にもなって今更遅いっての」
あくびをかみ殺しながら、遥は苦笑する。葵さんに先に帰ることを伝えて教室を出た途端、鞄から微かに振動が伝わってきた。近くの階段の踊り場に移動して携帯電話を開くと、相手は椿だった。
『もしもーし』
携帯からは椿の声と、それを聞き取りにくくするざわめきが聞こえた。
『お姉ちゃんごめん! 今日も遅くなりそう。ご飯遅くなっちゃうけど良い?』
何の用事かと思えば、ここ一週間毎日聞く言葉だった。
「僕のことは気にしないで。それよりも、あまり遅くならないようにね。おばけ屋敷大変だろうけど、頑張って」
姉らしく妹を気遣った言葉をかけると、電話の向こうから歓声のような、叫び声のような変な音が聞こえた。椿のいる二年B組の出し物はおばけ屋敷。小道具やら飾り付けやらほとんどを自作するために準備が大変らしく、小道具係の椿は家に帰っても部屋に籠もって作業の続きをしている。
『みんなうるさい。お姉ちゃんの声聞こえない!』
遠い声で椿が誰かを叱っている。不思議に思いながら待っていると、椿は少し息を切らせて戻ってくる。
『はあ……。ありがとお姉ちゃん。それじゃ――』
電話を切ろうとする椿を呼び止める。
「まって椿。今日もスーパー寄って帰るけど、何かほしいものある?」
『良いって。わたしが買って帰るから』
毎度毎度どうしてそんなことを言うんだろう。僕が行くって言うんだから素直に任せればいいのに。少しだけいらっとした僕は語気を強める。
「な、に、が、ほしいの?」
『え、えっと……それじゃあ、牛乳と卵と……』
遥にジェスチャーで書く物がほしいことを伝え、受け取ったメモ帳に書き留めていく。
『……それとレタス。あとお姉ちゃんの野菜ジュースも切らしてるからそれも。好きな物買ってね』
「了解。ちゃんと『僕が』買って帰るから、椿はまっすぐ帰ってくるように」
『もう、分かってるよ』
あははと椿の笑う声が聞こえる。「それじゃ」と電話を切って振り返った。
「終わったか?」
「うん。ありがと」
話している間、先生が来ないか見張ってくれていた遥に礼を言う。
「さすがにこの時期は携帯没収なんてしないと思うが、念には念を、な」
「見つかったら素直に渡すよ。悪いことしてるのはこっちなんだし」
階段を下りて昇降口へ。最上段の下駄箱から靴を取り出して履き替える。
「大事な用なんだからそれくらい大目に見ろっての」
「ルールはルール。それに学校を出てから電話をかけ直せばよかったと言われればそれまででしょ?」
「それはたしかに……でも『その電話に出られていれば最期の言葉が聞けたのに……』ということも」
「ドラマの見過ぎ」
校門を出て桜並木を通る。途切れたところで僕は立ち止まった。
「あ、僕――」
「スーパー寄ってくんだろ。付き合うよ」
僕の声を遮った遥はスーパーのある方角へと足を向けた。
「え、ちょ、別に遥は来なくても――」
「アタシが行きたいんだから良いんだよ。そうだ、そういえば家のポテチが切れてたな。買いだめしよう」
「むぅ……」
用事があるのなら断るわけにはいかない。仕方なく遥の隣りに並ぶ。
「寄り道して帰り遅くなって、おじさんに怒られても知らないよ?」
遥の両親は娘を溺愛している。そんな両親を心配させまいと、僕達には悟られないよう毎日こっそり授業中にメールを送っていることを僕は知っている。
「ああ、それなら楓が電話している間にメールうっといた」
「は、早いね……」
見た目に寄らず機械に強い遥。だから投影機の操作も遥に任せたんだけど。
「『ぜひ家までちゃんと送ってあげなさい』だってさ」
「……」
溺愛している娘の帰りが遅くなっても良いのかな……。おじさんの考えはよく分からない。
「そういえば今日は卵がお買い得だから急がないと売れ切れているかもな」
「なんでそんなことまで知ってるの……」
訝しげに見上げる僕に、遥はニシシと笑って走り出した。
「ま、待ってよ!」
「最近運動してないだろ? ほら、スーパーまで競争だ!」
「遥に勝てるわけないじゃないか!」
◇◆◇◆
スーパーで買い物をして、マンション前まで送ってくれた遥と別れ家へと戻ってきた。真っ暗なリビングのライトを付けて、冷蔵庫に買ってきた物を収めていく。
買い過ぎちゃったけど、大丈夫だよね……?遥の言うとおりタイムセールで安かった卵をその場の勢いで三パックも買ってしまった。それとなく卵料理を催促して消費して貰うようにしよう。
空になったレジ袋を畳んでテーブルに置き、テレビのリモコンを操作しながらソファーに寝転がった。テレビはどこも夕方のニュースだった。
「はあ……」
ため息を吐いて目を閉じる。テレビがやけに五月蠅くて音を消す。シーンと静かになるリビング。ゆっくりと目を閉じると、次第に意識が薄らぐのを感じた。