外伝3-1 柊は悪戯好き
中学になって初めての夏休みも残り二週間となった八月半ば。俺は今日も同じ時間に同じ玄関の前に立っていた。眼前にそびえ立つ扉は自分の家のものよりも一回りも二回りも大きく、扉の大きさは家の大きさに比例するのだろうかと、ふと思った。もちろんそんなことはないと知りつつも、西洋風の外観をした広い庭のあるこの家を見ていると、なんとなくそう考えてしまう。
もうそろそろ良いだろうと携帯電話を取りだして時刻を確認する。この時計が合っているならば、今は午後二時二分。ちょうどいい時間だ。俺は携帯電話をポケットにしまって、『依岡家』と書かれた表札の横にあるインターホンを押す。しばらくするとインターホン越しに聞き慣れた声が聞こえた。
『いらっしゃい、蓮君』
「おばさんこんにちは。楓さんはいますか?」
インターホンのカメラに向かってお辞儀する。
『楓ちゃんなら部屋にいるわ。今玄関のカギ開けるから』
数瞬してガチャッと音が聞こえ玄関の鍵が外れる。身長の二倍近くあろうかという扉を開けて中に入ると、ひんやりとした冷気が体を包んだ。汗をかいていたせいで少し肌寒く感じる廊下を歩き、まずはリビングへと向かう。リビングではおばさんが二人分の飲み物とお菓子をお盆の上に並べていた。
「お邪魔します」
改めてもう一度挨拶すると、おばさんは「そんなことしなくていいのに」と笑った。
「いつも楓ちゃんのために悪いわね」
「いえ、俺が来たくて来てるだけですから」
「ふふ。だったら少しでも蓮君が来たくなるように、蓮君の好きなお菓子や飲み物で釣らないといけないわね」
冗談めかすおばさんは上機嫌のようだ。
「そんなことされると毎日きちゃいますよ?」
「ぜひお願いしたいわ。蓮君が来てくれた日は楓ちゃんも機嫌が良いみたいなのよ」
「そ、そうですか」
初めて聞いた話に内心ガッツポーズを取りたくなるほど嬉しくなったが、それは不謹慎だと思い自重する。正直初めて会った頃からあまり変わっていないように感じて、昨日の夜も少し落ち込んでいたところだったからなおさらだ。
「楓ちゃんが待ってるから行ってあげて。はい、これよろしくお願いするわね」
おばさんからお盆を受け取る。お盆に載せられたお菓子はデパートで売られているような見るからに高そうなものだった。別にお客様という偉い立場でもないのにこんな良いものを出さなくてもと、こっそり苦笑しながらリビングを出た。
◇◆◇◆
深呼吸をしてコンコンと扉をノックする。もう何度となくノックした扉だが、この瞬間はいつも緊張する。
「楓さん、入るよ」
少しだけ待つも返事はなし。いつものことなのでとくに気にもせず、もう一度ノックをしてから扉を開ける。案の定、楓さんは車いすに座り扉に背を向けていた。ノックの音は聞こえていたはずなのに。俺はできるだけ平静を装いつつ、背中に向けて話しかける。
「ノックしたんだから返事くらいしてくれてもいいのに」
…………あれ?
いつもならここでちらりとこちらを伺い「なに?」と素っ気なく返事してくれて、そこから会話が始まるのに、今日はぴくりともしない。
「楓さん?」
返事なし。顔は窓の外を向いているので、寝ているようではないし。……機嫌が悪いとか? もしかして怒ってる? 予想していなかった事態に頭がパニックになる。
え? 昨日来たとき、俺なんかやったっけ? ……そういえば外に出るのを嫌がる楓さんに外出を勧めてみたりしたっけか。できるだけ優しく聞いてはみたはずだが、今思い返せば少ししつこかったのかもしれない。楓さんはほとんど表情を変えないからよく分からない。それで楓さんが機嫌を損ねているのも知らずにペラペラと話し続けたからとか……? あー、あり得る。ところで楓さんが怒るなんていつ以来? むしろ今まで怒ったことあったっけ? ……不機嫌な時はあったが、怒ったことはない気がする。つまりこれが初めて? うわ、どうしよう。悪いのは俺だから、俺が謝らないといけない。でもどう謝れば……。
頭の中でグルグルといろいろな言葉が浮かぶ。けれどいつまで経っても答えのようなものは出てこない。と、とにかく何か話そう。沈黙が続けば続くほど何を話せば良いのか分からなくなる。俺は意を決して口を開く。
「あ、あの……楓、さん?」
うわ、今声が上擦った。ってそんなこと気にしてはだめだ。そのまま続けよう。
「えっと、もしかして昨日しつこく外へ出ようって誘ったこと、怒ってる?」
……返事なし。違う? これじゃない? いやこれだからこそ無視しているとか?
「その、もしそれで怒ってるなら、謝りたいから返事してほしいかなぁ~なんて」
……はい無視っ。もしやこれは謝罪も聞きたくないということなのかそうなのか!?
「あのー、そのー、ですから……えっと……」
「……ぷっ」
しどろもどろになんとか話を続けようとしていると、ふいに楓さんが吹き出した。
「あははははっ――!」
「か、楓さん!?」
急いで回り込んで正面に立つ。楓さんはお腹を抱えて笑っていた。目には涙まで浮かべて。
「はあ、はあ……ぷぷっ、予想通り過ぎてお腹痛いっ」
ペシペシと車いすを叩く楓さん。……ってこれは楓さんじゃない!
「まさか『柊』か!?」
俺がそう言うと、楓さんの時には見せない輝くような笑顔をした柊が眼前に人差し指を立てた。
「せいかーい。もう、途中で気づいてよ。いくら楓が無愛想だからって、無視したりしないよ」
「い、いや俺は怒ってるんじゃないかと思って」
「なんで楓が怒るの? 昨日のは蓮が自分のことを思って言ってくれたことだって楓も分かってるのに。それよりもさっきの蓮の慌てようがもう思ってたのとぴったりで……あははははっ――!」
また柊は笑い出した。
「――ははははっ。わ、笑いすぎて椅子から落ちそう」
柊は本当に椅子から落ちないよう肘掛けに寄りかかっている。
「そ、それは危ないから気をつけて」
「大丈夫大丈夫。はあ、面白かった」
ひとしきり笑い終えたようで、柊はお腹をさすりながら姿勢を正す。
「ごめんね。たまにはこういうのもいいかなって思って」
「やられたこっちはたまったもんじゃないけどね」
「あ、やっぱり?」
柊は「たはは」と笑いながらもう一度「ごめん」と謝った。
彼女の名前は依岡楓。見た目は体の弱い普通の女の子だが、二年前の事故によって重傷を負ったところを、同じ事故で脳死した双子の妹の体に脳移植することによって一命を取り留めた元男の子であり、さらにはその心に柊という人格を持った、所謂二重人格者である。
「で、どうして楓さんじゃなくて柊なの?」
「それって私じゃ不満ってこと?」
車いすからベッドに移った柊が上半身を起こした姿勢で布団を被りながらそう言った。俺やおばさんにはちょうど良い部屋の温度も、柊には少し冷たすぎるようだ。
「またそうやってからかう」
不満を返しながらベッドの脇に椅子を持ってきてそれに座る。
「ごめんごめん。楓ならちょっと休憩してる。午前中に家庭教師を相手にしたせいで疲れたみたい」
パジャマ姿でそう言った柊は、少し寂しげに見えた。でもそれはほんの一瞬で、俺が『家庭教師』という言葉に過剰に反応した結果、そう見えてしまっただけだと知る。
楓さんは近くの私立中学に籍を置いている。しかし入学式を含め一度としてその学校の門をくぐったことはない。それは楓さんが二年前の事故によって受けた手術の後遺症により、通学が困難と判断されたからだ。そのせいで楓さんは自宅療養しつつ通院してリハビリを受け、さらに同級生に遅れないよう午前中は毎日家庭教師を呼んで勉強をしていた。今の楓さんにとってそれらは非常にハードらしく、これまでも何度かこうして柊が表に出ていたことはあった。
「そういえば、頭痛もするって言ってたかなあ」
頭痛という言葉から、以前柊から聞いた話が頭に浮かんだ。
「頭痛って……もしかして楓と『会話』した?」
柊が驚いた表情をしてパチパチと拍手する。
「正解。よく分かったね」
「前に『私と楓は面と向かい合って話すことができるけど、それをすると楓が頭痛になる』って言ってたじゃないか」
柊が天井を見上げる。やっぱり寒いようで布団を首まで引き上げる。
「そう言えばそんなこと言ったっけ」
長い髪をクルクルと指に巻き付ける。考え事をしているときの柊だけが持つ癖だ。
「無理して会話なんてしなくても、携帯のメール使えばいいじゃないか」
「んー……それだとすぐに返事がもらえないんだよね」
「そんなにすぐに返事が聞きたかった内容なわけ?」
俺の問いに「んー……まあそうとも言える……かも?」と曖昧に返す。
「まあまあ、別にいいじゃない。何を話したかなんて」
「いや、俺はまだ楓が怒っているんじゃないかって思っているわけで……」
「だからそれはないって。そんなに気になるなら後で聞いてみれば良いよ。もう少しで出てくると思うから」
俺はその言葉に驚く。
「え、出てくるの?」
「うん。ノルマだからね」
俺が首を傾げると柊が説明してくれる。
「この前から始めたんだ。『蓮が来たときはちゃんと話をする』って。いつまでも人見知りしてちゃだめだからね」
その言葉にさらに驚く。
「か、楓さんって俺に人見知りしてるの!?」
「うん。すこーしだけどね」
少なからずショックを受けた。楓さんや柊とこんな仲になってから一年と半年ほど。たしかに柊と比べると口数少なく頷くだけがほとんどだったが、それは楓さんがそういう性格だからだと思い、親友とは言わないまでも気兼ねなく話せる友達くらいにはなれていると思っていた。
「あ、落ち込んだ?」
「それなりに」
ガクッと肩を落とす俺の頭に柊がそっと手を置く。
「よしよし。まあ人見知りしてるけど、それでも蓮が一番仲が良い友達だから」
「人見知りされてるけどね」
「蓮って結構気にするタイプ?」
仲が良いと思っていた子が実はそうでもなかったと聞かされれば誰だってこうなると思う。まあ仕方ない。うだうだ言っても何も変わらないのなら、気持ちを切り替えよう。
「……よし。これは俺の努力が足りなかった結果として受け止め、これからはもっと楓さんが人見知りしなくなるまで仲良くなるよう頑張ろう」
「うんうん。そういう前向きな姿勢はいいと思うよ」
嬉しそうに微笑む柊。しばらくすると「あっ」と呟いてから、俺たち以外誰もいないのに何故か手招きをした。とりあえず言うとおりにしようと顔を寄せると耳打ちしてきた。
「そうだ。楓と蓮が仲良くなる良い方法があるんだけど……どうかな?」
「良い方法?」
聞き返す俺に、柊は笑顔で頷いた。