第30話 葵さんのクッキーは美味しい
「あ、楓ちゃん」
ホームルームも早々に終った放課後。葵さんが鞄を持って立ち上がりながら私に声をかけた。
「なに?」
「今日料理部の部室まで来れる?」
「え? えっと……」
部室? 部室ってどこだっけ。さすがに聞き返すのは失礼だと思い、場所を特定するために『楓』の記憶を探ってみる。だけど、楓自身料理部に顔を出したのは部活見学したときの一回だけのようで、ちゃんと場所を覚えていなかった。仕方なくそれらしき情報をかき集めて推理することにする。
……三年生の教室。渡り廊下。階段。調理台。集めた情報をパズルのように組み合わせる。
たぶん、二階渡り廊下から隣の建物に移り、階段を上った先にある教室のどこか、のようだ。ここまで解ればあとは現地で人気のありそうな教室を覗いてまわればたどり着けるはず。
「うん。でも、何か用事?」
「昨日クッキー作ったの。でもちょっと作り過ぎちゃって食べきれないの。だから楓ちゃんに食べてもらおうかなって」
昨日のクッキーといえば、椿も昨日「作りすぎた」と言ってたくさんクッキーを持って帰って来たっけ。おいしかったから思わず全部食べちゃったせいでご飯食べられなくなって椿に怒られたことを思い出す。
このことは昨日『日記』に書いたけど、あとで楓が見たら絶対怒るんだろうなあ。「僕も食べたかった」って……。下手すると頭痛するのも気にせず私に会いに来るかも。まあ、今そんなこと考えても無駄なこと。そのときはそのときってことで。
昨日の椿のクッキーはおいしかった。デパートの地下で綺麗な箱に詰められてお高い値段で売られているものと遜色なかった。椿でそれくらいおいしかったんだから、その椿の先輩である葵さんならもっとおいしいんだろうなあ。
「教室に持ってくればよかったんだけど、昨日部室に置いたままで……いいかな?」
「うん。葵さんさえよければっ」
葵さんに答えながら、やけに弾んだ自分の声に、顔には出さないけど内心苦笑してしまった。
「よかった」
「……あ、でも今日日直だから少し遅れるけど、大丈夫かな?」
「全然平気。それじゃ、私は先に行ってるから後できてね」
「うん。またあとで」
葵さんは私に手を振りながら教室を出て行った。
「へぇ~。クッキーか」
「あげないよ」
「楓からお菓子をもらおうなんて考えは無いさ。……楓は昨日もよく食べたよな。アタシの奢り含めて三つも」
昨日の帰り、私は遥にケーキを奢ってもらっていた。遥は「学園でのことを黙っていて、そのせいで楓を怒らせたことへのお詫び」なんて言っていた。たしかに今思い返すと、昨日の私は遥が隠し事をしていたとこを聞いて気分があまりよくはなかった。でもやっぱり怒ってはいなかった……と思うんだけどなあ。
「はあ……小遣いまであと一週間。どうするかなあ……」
「ん? 足りないならお金貸そうか?」
「本当にヤバかったらそうする」
私は鞄から財布を取り出したけど、遥にやんわりと断られた。
「遥……。借りるって、あんたんちってお金持ちじゃなかったの?」
綾音さんが少し驚いたような表情をして遥を見る。
「現金としては綾音や楓と同じくらいしかもらってないからな。カードは使わないようにしてるし」
「ああ、そういえばあんた前にそんなこと言ってたわね」
綾音さんが納得したというふうに何度か頷いた。……まあ、『楓』はそのカードで遥から服を買ってもらってるんだから、本当なら貸す貸さないなんて問題にもならず、楓と『楓』である私が遥にお金を返さないといけない立場だ。
だけど以前、遥が楓に前日に貸りた分のお金を返しに来たときに、楓が服を買ってもらっているからと断ると、「あれはアタシがそうしたかっただけ。何も返す必要なんてない」とかなり真剣な顔で言われてしまったので、それ以降はカードでの買い物(服)については貸し借りに反映しないという暗黙のルールができたらしい。
楓は未だにそれを完全に納得したわけじゃないようけど、私としては遥がそれで良いというなら、それで良いのに……と思う。そんなところが楓らしいと言えば楓らしいけど。
「いい心がけよね。高校生の時分からカードなんて使ってたら金銭感覚狂うだろうし」
「そこまで深く考えてないよ。なんとなくだよ」
「ふーん」
何故か綾音さんはにやにやとしながら遥を見た。
「……げ。もうこんな時間。急いで部活行かないと。楓、遥、また明日ね」
「お、本当だ。アタシもバスケ部に助っ人頼まれたから行くわ」
「うん。また明日」
私が手を振ると、遥と綾音さんは振り返しながらそれぞれの目的地へと走っていった。
「さて……と」
遥と綾音さんを見送ったあと、席を立って教壇前から二つ後ろの席に座る女の子の元へ向かった。
「禅条寺さん」
「は、はいっ」
声をかけると、禅条寺さんは何故か声を上擦らせて返事した。
「そろそろ日直の仕事始めよっか。えっと、ボクがゴミ捨てに行くから――」
「あぁっ。ゴミ捨てはわたしがいくよ。四条さんはホワイトボード消すのとインク切れの確認お願い」
うーん。まさかゴミ捨てをやりたいだなんて言うとは思わなかった。ゴミ捨ては外まで出ないといけないから一番面倒なのに。
「申し出は嬉しいけど……ボクの身長じゃホワイトボードの上まで手が届かないんだよね」
「あ、ああ。ご、ごめんなさい。じ、じゃあわたしがゴミ捨ててきたら消すから、四条さんはインクの確認とゴミ拾いと日誌お願い」
「それだと禅条寺さんばかり仕事することにな――」
「いいからいいから。四条さんはインクと日誌お願い。ね?」
「う、うん。解った」
少し納得がいかないけど、作業分担を決めてそれぞれ取り掛かる。禅条寺さんは教室の後ろにあるごみ箱を持つと、その中のゴミを教室の前にあるごみ箱に移して元の位置に戻し、教室の前にあるごみ箱を持って教室を出ていった。私は机と机の間を歩きながら、目に付いた大き目のゴミを拾ってごみ箱に入れた。次にマーカーのインクが切れてないか一本ずつホワイトボードに試し書きしていく。全部ちゃんと書けることを確認すると、教卓で日誌を開いて、今日の欄に自分と禅条寺さんの名前と、コメントとして『特になし』と書き込んだ。
「これでよしっと」
日誌を閉じて振り返る。目の前には大きなホワイトボードがそびえ立っている。
「届く範囲くらいは消しとこ」
そう呟いて字消しを手に取った。
「あ。ホワイトボードはわたしが消すよ」
振り返ると、禅条寺さんがゴミ箱を持って教室に入ってきたところだった。禅条寺さんはごみ箱を元の位置に置くと、もう一つある字消しを取ってホワイトボードを綺麗にし始めた。禅条寺さんは楽々ホワイトボードの上まで手を届かせていた。やっぱり身長はそこそこ必要だよね……。
「四条さんはいつも落ち着いてるね。背小さいのにクールで大人びて見えるし」
手の届くところを消していると、ふいに禅条寺さんはそう言った。
「そう?」
「うんうん」
それは単純に『楓』があまり表情に出ないだけなのと、人見知りしてるだけな気がする。人見知りしてるときの楓はたしかに大人びて見えなくも無いと思う。内心じゃ結構焦ってるんだけど。
「どうしたらそんなに落ち着いた感じになれるのかなって。わたしってよく五月蝿いって先生からも注意されるからさ」
そういえば、度々授業中に禅条寺さんが注意されるのを見かける。それら全て隣の人とお喋りしてるせいみたいだから、単純に授業中のお喋りを止めれば済むことだと思うんだけど……ってそれが出来てたらとっくにやってるよね。
「うーん。どうしたら、と言われても、ボクも意識してやってるわけじゃないし」
「そ、そうなんだ……。わたし最近よく注意されるから成績にも影響してきちゃってどうしたものかと……」
話しているうちに全部消し終わり、禅条寺さんと私は字消しを置いて、少し離れたところからホワイトボードを見て消し忘れがないか確認する。
「うん。オッケー。四条さん、おつかれさまー」
「おつかれさまー」
「じゃ、日誌はわたしが帰りついでに返しておくから。また明日ねー」
ブンブんと元気よく手を振りながら、禅条寺さんは日誌と鞄を持って教室を出て行った。成績が下がるほどなのはどうかと思うけど、私は元気なままの禅条寺さんの方がいいなと思った。
◇◆◇◆
日直の仕事を終えた私は、二階の渡り廊下を使って特別棟へとやってきた。三階に上がり、料理実習教室を見つけた。教室からはクッキーを焼いたような甘い香りではなく、何かをフライパンで炒めるようなジューという音が聞こえてきた。今日はお菓子ではなく炒め物を作っているのだろうか。間違いなくこの教室だ、と断定した私は扉を開けて中に入った。
「えっと。ここに油を小さじ一杯っと」
「香奈、どうして小さじ一杯って言いつつ直接入れてるの?」
「近くに小さじが見当たらなかったものですから。あははは」
「適当すぎる……」
そこにはフライパンを振るう香奈さんと、それを指導するように隣に立つ葵さん、そして椿が包丁を持って香奈さんと同じ調理台に立っていた。
「あら、楓」
「穂乃花先輩。おはようございます」
穂乃花先輩はいつもの微笑みを浮かべて『おはよう』と挨拶を返した。私がちらちらと香奈さん達の方を見ていると、穂乃花先輩が「ああ、あれはね」と続ける。
「香奈がこの前野菜炒めの作り方がよく分からないって言っていたから、今日は香奈の腕前を見ようと思ってね。今まで部活動としてはお菓子ばかり作っていたから」
穂乃花先輩は恥ずかしそうに照れ笑いした。
「そうでしたか。では邪魔してはいけないので、こっそりここから見学することにします」
私が扉に一番近い調理台に置かれた椅子に座ると、穂乃花先輩も私の隣に椅子を持ってきて座った。
「さて、香奈はちゃんとできるのかしらね」
穂乃花先輩は顎に手を当てて呟きながら、少し心配そうに香奈さんに視線を向けた。
「香奈。せめて計量スプーン使ったら?」
「大丈夫です、葵先輩。この数ヶ月で上がったあたしの腕前を見てください!」
「一学期の家庭科でお味噌汁にお味噌まるごと一パックいれた人の言うセリフ?」
「あれは手が滑ったんだよ。外野の椿はだまって人参の皮でも剥いてて」
「はいはいっと、終わったよ」
「早っ!」
「早って、数も少ないしピーラーでしゃっしゃってやるだけだから」
「椿がピーラーマスターだったとは……」
「いや、そんな称号別にいらないから。たぶん、というか間違いなく香奈が不器用なだけだよ」
「針の穴に糸なんて通せなくて良いんです」
「香奈が不器用なのは知ってるけど、それくらい頑張ろうよ……」
「はい。切った野菜ここに置いとくね。香奈」
「葵先輩、ありがとうございます。よし、点火!」
「まだ火点けてなかったんだ。って普通熱してから油って引くものじゃ……」
「ちゃんと水分を拭き取っていれば先に油でも大丈夫」
「あ、そうなんですか」
「つまりあたしの手順は間違ってな――いっっった!」
「香奈、油が凄い飛んでる!」
「水はちゃんと拭きとらないと……」
「えーい、負けてたまるか! このまま野菜を投入っ!」
「フライパン熱してからだって!」
「もう遅いっ!」
「あーもう。香奈、前となにも変わらないじゃない!」
「主に思い切りが良くなった!」
「それ香奈的にはダメな方に成長してるって!」
「……香奈、お肉は先に炒めたの?」
「え、お肉なんてあるんですか?」
「うん、ほらここ」
「……あ」
「……」
「あーもう! 全部いれてやる!」
「やけになるの早っ!」
「炒める順番も何もあったものじゃない……」
「むむ。やけに混ぜにくい……」
「そんなに全部まとめて入れるからだよ……」
「なるほど、道理で重いわけですねっ」
「いや、それくらい気づこうよ……」
「ほっ、とりゃっ……うわ、フライパンから野菜がダイブしたっ!」
「なんで出来もしないのにフライパンだけで混ぜようとするの……」
「だって家庭科の先生がこうしてたから……。やっぱり見るとやるとじゃ全然違うなぁ……」
「当たり前じゃない……」
「よし、できた!」
「まだ味付けしてないし、全部生焼けじゃない!」
「へ?」
「『へ?』じゃない!」
「……はあ」
香奈さんの動きはどう見ても素人で、あれならまだ私の方が上手にできるんじゃないだろうか。味付け忘れるぐらいだし。
「…全然だめね」
「そ、そうですね」
「はい。もう分かったわ。葵、あとの処理お願い」
小さくため息を吐いてから穂乃花先輩は立ち上がると、手をパンと鳴らしながら香奈さん達のもとへ向かった。
「分かりました。ほら、香奈変わって」
「はーい」
葵さんは香奈さんからフライパンを受け取ると、上手にフライパンを操る。
「うわー。葵先輩さすがですっ」
「ここまで、とは言わなくても、もう少し上手になろうね」
「は、はいっ」
葵さんが優しく諭すと、香奈さんは元気よく頷いた。私も穂乃花先輩のあとを追って、椿の肩をポンと叩く。
「え、お姉ちゃんどうしてここに?」
「楓先輩いつのまに!?」
やけに大袈裟に驚く椿と香奈さん。そんなに私がいたのが意外だったのだろうか。
「ちょっと前くらいから。葵さんからクッキーをもらおうと思って」
「お姉ちゃん、昨日あんなに食べたのにまだ食べるんだ」
「お菓子は別腹なの」
「昨日ご飯食べられなくなってなかった?」
「お腹は一つしか無いからね~」
「さっき別腹って言わなかった……?」
「はい、楓ちゃん」
椿のジト目をかわしていると、葵さんが調理台に置いてあった紙袋を私に渡した。それなりに重量感があって、けっこうな量が入っていることを知る。
「わー。ありがとう。葵さん」
「どういたしまして」
「お姉ちゃん。それ食べてまた今晩ご飯食べられないとか言ったら……怒るからね?」
「はいはい」
椿に手をひらひらさせながら答えて、私はさっそく早めの晩ご飯に取りかかることにした。
ちなみに、あとで椿に怒られました。