第3話 椿は大きくなっていた
インターホンを押して数秒後、ガチャっとカギが外れる音がして扉が開き、中から椿が現れた。
「お姉ちゃん、道に迷ったでしょー?」
開口一番、椿は僕にそう言い放った。
「いや、とりあえずインターホン出ようよ」
少しだけにやりとした笑みを浮かべる椿に、僕はジト目を返しつつインターホンを指差した。
「しかも、ひとこと目が『道に迷った?』って……」
普通ここは、『久しぶり』とか『元気だった?』とか、もっと再会を喜ぶような言葉が来るところだと思うけど……まあ、電話でよくお互いのことを話していたから、そんな気分にもならないか。おかげで緊張も解けたし、これはこれでよしとしよう。
「だって来るの遅かったから」
「うっ……」
椿の言葉にたじろぎ、こっそりと腕時計を盗み見る。時刻は17時半前。予定より30分過ぎていた。
「やっぱり道迷ったでしょ?」
「い、いや。ほら、こんなに暑いからコンビニで飲み物買って涼んでたら遅れたんだよ」
「バス停からここまでにコンビニなんてないけど?」
「え? だってうろうろしてる時に見かけ――あっ……」
……しまった。
「やっぱり迷ってたんだ」
「……」
椿の視線が痛くて目を逸らすと、椿はグッと顔を寄せてきて僕の視線に割り込んできた。
「す、すこーしだけ道に迷った……かも?」
「かもじゃなくて、間違いなく迷子になってたんだよね?」
「えっと……それは……あーもー!」
僕は一歩後退して椿の両腕を掴み、力いっぱい押し返した。
「道に迷ったとか迷子になったとかどうでもいいじゃないかっ。こうやってたどり着けてるんだし。それより早く中に入れてよ。いつまで玄関先で話するつもり?」
「ぷっ……はいはい。じゃ、中にどうぞ」
まくしたてる僕を見て椿が小さく笑い、玄関を大きく開いて招き入れた。
「ったく。……おじゃましまーす」
椿の家だからと間延びした口調で靴を脱ぎ家に上がる。
「お姉ちゃん」
「ん?」
椿は片目を閉じて右手人差し指をピンと立てた。
「ここはわたしとお姉ちゃんの家なんだから、『おじゃまします』は変だよ?」
少しだけ考え、はっと気づいた僕は言い直す。
「……そうだね。『ただいま』」
「『おかえり』」
満面の笑みで挨拶を返す椿の瞳に、少しだけ光るものが見えた気がした。
◇◆◇◆
「……広いね」
人二人が並んで通れる広い廊下を進み、突き当たりの扉を開くと、そこはキッチンとダイニングが一体化した広々としたリビングだった。このマンションは南向きのようで、一面ガラス張りのベランダからは太陽の光が差し込み、扉の近くに立つ僕の足元まで入り込んでいた。
「わたしもここ来た時はびっくりしちゃった。ここって絶対学生用のマンションじゃないよね」
「学生用のマンションにあんな綺麗な大理石のエントランスなんてないよ」
椿が後ろ手に扉を閉め、僕の脇を通ってキッチンへと向かう。外の暑さでバテた僕は、すぐにバッグを床に置いてソファーに腰を下ろした。
「はあ……暑かった」
「はいどうぞ。ただの水だけど」
椿はそう言って氷の入ったグラスを僕に手渡して隣に座った。喉の渇いてた僕はすぐそれに口をつけた。思っていたよりよく冷えていて、暑さでぼーっとしていた頭がすっきりした。
改めて部屋を見回しながら椿に話しかけた。
「こんな広いところに椿一人で住んでたんだ」
「ううん。ここはお姉ちゃんが来るからってことで、夏休み入ってすぐに引っ越して来たばかり。だから……まだここにはまだ2週間くらいかな。それまではもう少し小さいところに住んでたよ」
「それでも充分広かったけど」と椿は苦笑しながら付け足した。
来月から僕が通うことになっている学園にひと足先に通う椿は僕の一つ下の高校1年生。叔母さんの家から学園に通うのは遠いということで、4月から学校近くのマンションを借りて一人暮らしをしていたそうだ。学園的には一人暮らしを許可していないけど、保護者である叔母さんもここに住んでいるってことで学校には通しているとか。実際そうやって一人暮らしをしているのはそれなりにいるらしい。
「お姉ちゃんも2学期から学園に通うんだよね?」
「うん。もう少し早ければ切りよく2年生の1学期から転校できたんだけどね」
「お母さん達にも都合があったんだろうし、仕方ないよ」
『お母さん』ね……。
僕と違って椿はちゃんと叔母さんのことを『お母さん』って呼ぶのか。僕なんて最後まで『伯父さん』『伯母さん』だったのに。最後くらい『お父さん』って勇気を出して呼ぶべきだった、と少し後悔の念に駆られた。
僕が叔母さんに引き取られることになったのは今年の4月に入って少し経った頃。『あの事故』のあとに親戚同士が揉めて、母方の親戚には椿、父方の親戚には僕が引き取られた。それから6年経って、やっと双方が和解したらしく、あれだけ僕達を取り合い引き離したというのに、今度は『兄妹は一緒がいいだろう』ということで話がまとまったらしく、僕も椿と同じ親戚に引き取られることになった。その頃には椿はもう一人暮らしを始め、学園に通っていたから、僕は叔母さんの薦めもあり、椿と同じ学園へ通うことにし、一緒に暮らすことになった。
「それより、ね、お姉ちゃん」
突然目を輝かせて僕を見つめる椿。
「ん?」
「同じ学校なんだし、帰りは無理でも、朝は一緒に登校しようね」
何を言ってくるのかと思えばそんなことか。
「それくらい別に。元々そうするつもりだったし」
「やった! 絶対だからね! 約束したからね!」
椿は嬉しそうにガッツポーズをした。何がそんなに嬉しいのだろう。あ、一人で登校するのは寂しい、とか?
「あ、お姉ちゃんのお部屋まだ案内してなかったよね? こっちだよ」
妙にテンションの上がった椿はそう言いながら立ち上がると、勢いよく扉を開け放ってリビングを出ていった。僕はそれを見て首を傾げながら椿についていった。
◇◆◇◆
「はい、ここがお姉ちゃんのお部屋ね」
案内されて入ったのは10畳くらいのフローリング張りの部屋。ここが僕の部屋らしく、その証拠に見慣れた参考書や小説が本棚にきちんと並んでいた。引っ越し業者を使って送ったはずの荷物がほとんど片付けられているのを不思議に思いつつ備え付けのクローゼットを開くと、中にはダンボールに詰めて送った洋服が全てハンガーに吊されていた。
「これ全部椿がやってくれたの?」
「ううん、わたしは見てただけ。なんか引っ越し業者の人が全部やってくれたよ」
「……ああ、そういうプランだったっけ」
道理で綺麗に片づけられているわけだ。僕が引っ越しで使ったのは『おまかせパック』というもので、お客の僕や椿はほとんど何もしないで見ているだけ、引っ越し業者が全て荷造りから荷解きまでしてくれるというプランだった。おかげで寮での荷造りは楽だったし、あとは部屋の中央に積まれたダンボール3箱だけで引っ越しは全て終わりそうだ。
「叔母さんに悪いことしたかな……」
こういうのって、自分で荷造り荷解きするプランと比べると高かったはずだ。
「気にすることないんじゃない? どうせこれもお母さんが選んだんでしょ?」
「そうだけど……」
椿の言う通り、このプランを実際に選んだのは叔母さんだ。先日叔母さんに引っ越しについて電話で相談したら、翌日には引っ越し業者から電話がかかってきて、このプラン前提で日時や荷物の量などを聞いてきた。あとで叔母さんに間違いじゃないかと確認したところ、叔母さんは優しい声で間違いないと答えた。
「これからはお姉ちゃんの『お母さん』にもなるんだから、遠慮なんてしたらお母さんが心配しちゃうよ?」
「……うん。そうだね」
僕を引き取ってくれた伯父さん同様に、昔から僕達に優しかった叔母さんのことだ。遠慮なんてしてたら余計な心配をかけそうだ。
「それに、わたしとお姉ちゃんだけで荷解きしたら、きっと服だけで何時間もかかると思う」
椿がため息をつきながらクローゼットに視線を送る。
「結構大きいクローゼットのはずなのにほとんど一杯だし。お姉ちゃんって服たくさん持ってるんだね」
「そう?」
椿が深く頷く。僕としては、寮のクローゼットもずっとこんな感じだったし、同室の遥も似たようなものだったからこれが普通なんだと思っていた。今思えば、遥基準で考えていたのが間違いだったのかもしれない。
「でもお姉ちゃんって服の好みいろいろなんだね。この左の方にはフリルの付いた、桜花の子が着そうな、いかにも『お嬢様』っていうのが並んでるのに、真ん中あたりには丈の短めのスカートが並んでて左の服とは正反対。右は……右はばらばらだけど、今流行りの服かな?」
そう言いながら椿はクローゼットの前に立つと、いくつか服を取り出しては自分にあてていく。
「別にそれは僕の趣味がどうとかそういうことじゃなくてね……。左のは伯父さんから送られてきた服。真ん中は友達がくれたもの。右が僕が買った服ってだけのこと」
「へー。それでこんなに違うんだ。……そういえば伯父さんって、小さいときにはわたしにも時々服買ってくれたっけ」
「それが親戚同士で喧嘩始めた頃から全て僕にきたってわけ」
僕は大袈裟にため息をついて肩を竦める。
「こんなフリフリしたのは僕の趣味じゃないよ……」
「わたしもこれはちょっと着れないかな……」
やっぱり椿でもこのフリフリはだめか。奈菜も遥も嫌がってたから薄々は感づいていたけど、僕が元々男だったからダメってことじゃないみたいだ。
「伯父さんってこういう趣味なんだ……」
「趣味なのかどうかは知らないけど、問題なのは、せっかく買ってくれたものだから、伯父さんに会う時くらいは着ないとだめってことなんだよね……」
以前これを着て伯父さんに会った際に、伯父さんが凄く嬉しそうにしたのを見てしまった。それからというもの、伯父さんと会う時はこれを着ていかないわけにはいかなくなったというのが現状だ。
「…がんば、お姉ちゃん」
肩をポンと叩いた椿は、少し僕に同情しているようだった。
「真ん中のは友達からもらったんだっけ?」
「うん」
今度はクローゼットの真ん中あたりをゴソゴソと探り出す椿。
「一杯あるね……」
「着なくなったのがたくさんあるからってくれたんだよ」
半分以上は買ってもらったものだけど、なんとなくこれは伏せておこう。
「いいなあ~……あ、これとか着てみたいかも」
「ほしいならあげるけど……って、椿じゃ入らないか」
僕が椿を見上げると、当然椿は僕を見下ろした。
「まさか妹に身長を抜かれるとは。これじゃどっちが姉なんだか……。椿、身長いくつ?」
「えっと……161だったかな」
「うっ……」
10センチ以上も差があるとは……。
僕は上へ下へと視線を動かして椿を観察する。6年ぶりに再開した椿は、早々に成長が停滞した僕とは違い、見事に背も胸も順調に成長していた。また肩にかからない程度に揃えた僕と同じ黒色の髪が椿を年相応に見せていて、きっと他人が僕たちを見ると、椿のことを姉だと思うことだろう。
「はあ……」
僕はこっそりとため息を吐いた。
「お姉ちゃんは?」
「えっ?」
「お姉ちゃんは身長いくつ?」
「えーっと……」
……正直言いたくないけど、椿の身長を聞いているのに自分だけ秘密にするのは不公平だ。渋々、僕は重い口を開いた。
「……センチ」
「え? よく聞こえなかったんだけど」
「142センチ!」
わざとらしく耳に手を当てて聞き返してくる椿に、なかば自棄になって叫ぶようにして答えた。
「ひゃく、よんじゅうに……?」
僕はゆっくりと頷く。
「……」
椿が無言で肩にポンッと手を置いた。
「……どんまい!」
「うっさい!」