第2話 初対面の人は緊張する
バスに乗る数時間前――
「昨日送別会してもらったから、見送りはいいって言ったのに」
「あら。あたしには『来てください』って聞こえたのだけど?」
バス停でバスの到着を待っていると、奈菜が見送りに来てくれた。昨日夏休み中だというのに、友人みんなが寮に集まって盛大な送別会をしてもらったから、今日の見送りは必要ないと伝えたにも関わらずにだ。
「そんなはずはないと思うけど……」
少しからかい気味に言った奈菜の言葉に、僕は曖昧に答えた。間違いなく「来てほしい」とは言っていない。ただ、目でそう訴えていた可能性はある。あまり表情に変化のない僕だけど、奈菜や遥は僕のわずかな変化を読み取り、僕の気持ちを見抜いてしまうことがよくあった。もしかしたら、僕はあの時奈菜に見送ってほしいと心のどこかで思っていたのかもしれない。
「ふふっ。冗談よ。あたしが楓と話がしたかっただけ」
「なんだよかった。でも、奈菜が冗談言うなんて珍しいね」
「あたしも冗談くらいは言うわよ。ま、どこかの馬鹿みたいにいつも冗談を言うわけじゃないけれど」
「どっかの馬鹿って間違いなく遥のことだよね?」
「他にいる?」
『いない』と首を振る僕を見て、奈菜が上品に口元に手を当てながら笑った。
「あ、そうだ」
僕はバッグをベンチに置き、奈菜に右手を差し出した。
「奈菜。今までありがとう」
これからも週末は会って遊ぶだろうし、完全に別れてしまうわけじゃないけど、二学期からは一緒に登校できなくなるわけだから、一応の区切りをつけたかった。
「こちらこそ」
奈菜が僕の手を握り締める。
「……って、どうせ来月辺りにはまた顔合わせそうだけど」
照れくさくなって、目を逸らした。
「こういうのは様式美よ。それに、これで来月からは楓とは休みの日くらいにしか会えなくなるんだから」
そう言った奈菜は、少しだけ寂しげに見えた。
「そっか。そうだね」
もうこれまでのように、学校や寮で毎日いつでも会えるってわけじゃないんだよね……。
改めて考えると、違う学校になるということはやっぱり寂しい。
「楓には感謝しているわ。あなたのおかげで今も部活続けられているようなものだから。勉強もよく教えてもらったし。ありがとう」
「そんなまた大袈裟な……」
それぐらいのこと、僕が奈菜にしてもらったことと比べるとたいしたことじゃない。奈菜は僕が転校生としてやってきた中学2年生の頃、クラスに馴染めず、また馴染もうとせず、一人ポツンとしていた僕に何度も声をかけてくれて、しかも自分達の輪の中に入れてくれた。奈菜のおかげで、僕は僕が思っていた以上に楽しい学校生活を送れたし、他にもいろいろと知り得なかったことも教えてもらうことができた。
だから、勉強を教えることや部活のことくらい奈菜が僕にしてくれたことに比べればたいしたことじゃない。そう言おうとしたけど、奈菜は僕の口元に人差し指を当てて制した。
「あなたはいつも謙遜しすぎなのよ」
「謙遜なんて別にしてないよ」
僕がそう言うと、奈菜はゆっくりと首を振った。
「いいえ。あなたには十二分に感謝しているわ。あたしも、もちろん遥もね」
「遥も?」
遥が僕に感謝? 僕が遥に感謝することならいくらでもあるけど、遥が僕に感謝って。僕は何もした覚えないんだけど…?
「またそんな『まったく分からない』って顔をして」
「だって全然思い当たらないから」
「はあ……ま、そのうち分かると思うわ」
よく分からないけど、とにかく頷いておくことにした。
「……まだバス来ないわね。遅れてるのかしら」
「あ、ほんとだ」
奈菜の言葉に腕時計を見ると、予定の時刻を過ぎていた。
「僕の時計が早いわけじゃないよね?」
「ええ。あってるわ。……それにしても、結局その言葉遣い直らなかったわね」
「ん? ああ、言葉遣いね。まあ、生まれたときからずっとこれで、中学から直せといわれてもなかなか……ね。それに僕が女の子のような言葉遣いってのもおかしいと思うけど?」
僕がそう言うと、奈菜は苦笑した。
「むしろ男っぽい言葉遣いのほうが違和感あるのだけど」
「なんで?」
「そんな保護欲をかきたてられる女の子、そういないわよ?」
「ほ、保護欲って……。そう……はぁ」
真顔でそんなことを言う奈菜に何も言えず、僕はこっそりため息を吐いた。
よかったね柊。褒められてるよ。たぶん……。
背後から聞こえた空気の抜けるような音に気づいて後ろを向くと、目的のバスがドアを開けて止まっていた。急いでバッグを持って乗り込み、ドアに一番近いに椅子に座って窓を開けた。
「楓! 向こうの学校で遥に会ったら『あとは任せた』って伝えておいて!」
口元に両手でメガホンを作って奈菜が大声を出す。中学の頃僕達と同じ学校だった遥は、何故だか分からないけど高校は別の私立の学校へ進学した。その学校が、来月から僕が通う学校なのだ。
「『あとは任せた』ってどういう意味?」
「いいから、そう伝えておいて!」
「う、うん。わかった!」
『出発します』
返事すると同時に車内にアナウンスが流れバスが動き始める。
「奈菜見送りありがとう! またね!」
「ええ。また」
遠ざかっていく奈菜の姿が見えなくなるまで、僕は手を振り続けた。
◇◆◇◆
そして現在――
「うーん…」
僕は地図を見て呻っていた。バスを降りてから地図を頼りに椿が待つマンションに向かったはずなのに……。
『バス降りて5分くらいで着くから』
昨日電話で話した椿はそう言っていた。けれど、バスを下りてからすでに30分近く経っている。
「これってまさか……」
いやいや、そんなはずはない。まさかそんな……。ブンブンと勢い良く頭を振る。
「きっとこの角を曲がれば――」
少し小走りで角を曲がる。……バス停の通りに出てしまった。
『楓は方向音痴なんだから迎えに来てもらった方がいいんじゃない?』
昨日、奈菜に言われた一言が頭の中で響く。今更遅い。椿に昨日からさっきまでずっと迎えはいらないと言っておきながら『やっぱり迷子になったから迎えに来て』なんて口が裂けても言えない。
とは言え、バスを降りてからはや30分。街路樹や塀でできた影の中を歩いているから直射日光を浴びることなく進んでいるけど、これ以上炎天下の中をうろうろしていると本当に今日の夜は熱を出して寝込むことになりそうだ。数年ぶりに再会して早々椿に迷惑をかける訳にはいかない、絶対に。
「どうしたものか……」
「あの――」
顎に手を当てて思案していると、突然背後から声をかけられ、驚いて振り返った。
そこにはどこかの制服を着た男の子が立っていた。身長は180くらいだろうか。かなり高くて見上げてしまう。
「ぼ、僕……ですか?」
初対面の人に一瞬拒否反応が出そうになるが、なんとか押し止め返事をする。
「はい。道に迷っているようだったので……」
そう言って男の子は微笑む。……ナンパ、ではないか。嘘はついてなさそうな優しい笑みに落ち着きを取り戻した僕は、ばれないようにこっそり男の子を観察する。
……へえ。
よくよく見ると整った顔に茶色がかった髪。何かスポーツをしているのだろうか、引き締まった身体にこの身長。僕が普通の女の子であれば、運命の出会い的なときめくを感じるかもしれない美男子(表現が古い気がするけど)ではなかろうか。
でも残念。僕は普通じゃないんだよね……。っと、待ってるから返事しないと。せっかくのチャンスだ。ここは素直に白状して道を聞くことにしよう。
「は、はい。そうなんです。えーっと……」
僕は地図を開いて目的地の住所を確認する。そのとき、ふと目の端に何か光るものが映った。僕はこっそりその正体はなにか目で追う。それは男の子の襟元についた校章だった。これはたしか『学園』の校章。僕が明日から通う学校じゃないか。
正式には『私立千里学園高等学校』。叔母さんからもらった学校案内のパンフレットによると、明治時代に創立したこの町に古くからある学校で、数年前までは女子高だったそうだけど、この少子化のご時勢、生徒数を確保するために共学にした学校だそうだ。元々有名な進学校として評判の良い学校だったので、男子の受験者も年々増えているそうだが、それでもまだ女子の方が多いとか。
その学園の校章を付けているということは、この男の子は学園の生徒。もしかするとこの人とはここだけの付き合いで終わらないかもしれない。いや、最低でも校内で何度かすれ違うことはあるだろう。
「……柳町5丁目の、この公園に行きたいのですが」
目的地を知られるわけにはいかない。そう思った僕は男の子に地図を開いて見せて、目的地のマンション近くにある公園を指差した。
「あぁ。そこだったらここを右に曲がって、5つ目の交差点を左に曲がってちょっと歩くと右手に見えてくると思います。だいたい5分もあればたどり着けますよ」
男の子が親切に教えてくれた。それにしても……まさかこんな近くだったとは……。
「はぁ…」
自分が情けなくてガクッと肩を落とす。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。なんでもないです。ありがとうございました」
顔の前で両手を振ったあとに頭を下げる。
「いえ、それでは僕はこれで」
男の子は笑顔で軽く頭を下げて背を向けると、僕が向かう方角とは真逆の道を歩き出した。
あれ、今の表情どこかで見たような……。
男の子が見えなくなるまで記憶の中からさっきの表情を探すが、結局見つからなかった。
◇◆◇◆
そして5分後。
あの男の子が言っていたように、30分も迷っていたのが嘘のように、ものの5分で公園に着き、それから程なくして椿の待つマンションにたどり着いた。マンションは最近できたばかりのようで、外観もエントランスも傷一つなく、大理石でできた床は光り輝いていた。入り口にはちゃんとオートロックもついていてセキュリティーもしっかりしているようだ。
叔母さん、椿をこんなところに住まわせていたなんて……。
僕同様に可愛がられていたことにほっとすると同時に、少し椿を甘やかしすぎなのでは? と心配にもなってきた。
「カギはこれだったかな」
バッグの中から叔母さんから届いたカードキーを取り出して、玄関ホールの壁に設置されたカードリーダーにかざす。ピッと短く鳴ってロックが外れた。中に入るとエントランスを抜けてエレベーターホールへと向かう。
「えっと…十階の1010号室だったっけ」
ちょうど一階に降りていたエレベーターに乗り込み、10階のボタンを押す。扉が閉まり、ゆっくりとエレベーターが動き出した。
「……気持ち悪い」
エレベーター特有の圧迫感が僕を襲い、気持ち悪さに頭を押さえた。数秒で10階に到着し、扉が開くと同時に外へ出る。少しふらつく頭を抱えつつ、1010号室を探して奥へと進む。
「えっと…ここか」
探していた1010号室は一番奥の角部屋だった。
「すぅ、はぁ……」
玄関前まで来るとさすがに緊張してきた僕は何回か深呼吸を繰り返す。椿とはよく電話したり、メールで写真を交換したりはしていたけれど、こうやって面と向かって会うのはあの事故以来だから、6年振りだ。
「…よし、行くか」
心臓は未だにドキドキしているけど、待っていてもこれは落ち着きそうにないので、僕は意を決してインターホンを押した。