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私(ぼく)が君にできること  作者: 本知そら
第三部第二章 楓と楓
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第109話 ありがとう

 十二月二十三日金曜日。


 クリスマスイブを控えた前日。その日は今年の学校納めの日だった。


「クリスマスイブイブだっていうのに、この温かさはなに? 雪が降らないどころかコートもいらないってどういうこと?」


 体育館で終業式が始まるのを待っていると、ふいに綾音さんがそんなことを言った。


「今年は本当に暖冬だね」


 綾音さんの隣にいる葵さんが小さく笑いながらそれに答える。


「今年はおでん業界も大変だな」


 ちょうどこの前、気温が下がらなくておでんの売れ行きが芳しくない、というニュースを見た。


「なんで女子高生ともあろうものがその渋いチョイスなのよ。普通にスキー場とかじゃないの?」


「おでん美味しいじゃないか。それにこの街の近くにスキー場なんてないだろ? 遠くへ行かないと」


「まあたしかに、スキーは縁遠いわよね。テレビでは良く見るけど」


「楓はスキー嫌いだろ?」


「うん」


「えっ、なんでよ?」


「寒いから」


 広大で真っ白な坂道を、足に履いた二枚、もしくは一枚の長細い板で滑り降りていく。テレビだと気持ちよさそうにしているけれど、寒がりの僕としては、ゴーグルにニット帽にマスクにスキーウェアという防寒具フル装備という格好と、周辺のあまりにも寒そうな光景に、見えているだけでも体が震えてくる。


 答えた途端、綾音さんは「あー……」と、とても納得していた。


「面白い面白くない以前に、寒いからノーサンキュー、と」


 どんなにそれが面白くても、体調が優れなければ、その面白さを感じることはない。たとえば東京にある巨大テー

マパークに念願叶って行けたとしても、当日高熱にうなされたら、楽しむことなんてできないと思う。


「たぶん死ぬ。雪が溶けないような極寒の中で風を切り滑り降りるなんて、絶対死ぬ」


「死なないわよ……」


 綾音さんが半眼で僕を見る。


「楓さんはまず、グラススキーがいいかもね」


 グラススキーはたしか、スキー板の代わりにキャタピラ状のローラーブーツを履いて、雪のない芝生の上を滑り降りるスポーツだ。元々はシーズンオフ中でもスキーの練習ができるようにと開発されたという経緯からも分かるように、夏でもできるのでスキーみたいに寒くないのだ。


「うん。それならできそう」


「それ、スキーの面白さを半分以上失ってる気がするんだけど」


「楽しみ方は人それぞれじゃないか?」


 遥の言うとおり。


 目の前の大きな舞台の横に掛けられた時計を見る。もうすぐで式の始まりだ。徐々に体育館が人で埋まっていく。


「うちのクラス、ちょっと早く来すぎたわね」


「今日寒かったら楓が凍えてたな」


 うんうん。体育館は床から冷たい冷気が上がってくるから余計に寒い。今は気温も高いし、窓から日が差しているので暖かい。


 体育館が人で埋め尽くされたところで、終業式が始まった。とは言え、校長と理事長から有難いお言葉をもらって、そのあと校歌を歌って終わりだ。まだ校歌は覚えていないから口パクだけど。


 三十分程度で終業式は終わり、ホームルームのために教室へと戻る。


 その道中、


「そういや、綾音の母親の理事長って、家で会ったときとは全然違うな」


 僕もそれは思っていた。登壇した綾音さんのお母さんは、スーツが似合うキャリアウーマン然としていて、とても凜々しかった。泊りに行った時はそんな風にはまったく見えず、とにかく笑顔で優しい家庭的なお母さん、という感じだった。


「オンオフが激しすぎるのよ。いつも見ていて疲れないのかって心配になるわ」


「へー。そういうタイプの人間か」


 他人事のように言ってるけど、桜花の頃の遥を知っている僕としては、あの人とまではいかないまでも、遥も結構オンオフが出来ていたと思う。まあ、遥の両親がまさに理事長と同じタイプの人なので、血は争えない、ということだ。


 教室に戻るとすぐにホームルームが始まった。まず通知表を配り、その後長期休暇中の注意事項と書かれた紙を担任が音読、その後新学期に元気な顔を見せてほしい云々という話をして終わった。


 これで二学期も無事終了。成績も点数以上に良かったし、晴れ晴れとした気持ちで休みに入れそうだ。


 ……近くにそうでない人もいるみたいだけど。


「……これは怒られるわね」


 そう言いながら、綾音さんが成績表を睨み付けていた。


「ご愁傷様だな」


 対して遥はまったく気にしていない様子。さっきチラッと見せてもらったけど、悪くない成績だった。とくに体育や美術の成績が最高評価で、担任もコメント欄で褒め称えている。


「見せて」


「はい」


 葵さんが綾音さんの成績表を受け取る。


「……一学期よりはちょっと上がった?」


「上がったけど、これぐらいじゃたぶん許してくれないわ……」


 綾音さんに了解を得て、僕も見せてもらう。……ううん。中間、期末考査の結果が並だから、成績にもそれが反映されている。ただし、体育の評価だけはとても高い。


「まっ、悩んだところでどうにもならないし。帰りましょうか」


 そうしてロッカーや机に置いていた荷物を鞄に詰め込んで教室を出た。それぞれ用事があるとのことで、校門でみんなと別れた。


 僕はそのまま校門で人を待った。待ち人はすぐにやってきた。


「ごめん、お姉ちゃん。先生の話が長くてホームルームが長引いちゃった」


 急いできたらしく、椿は肩で息をしていた。


「全然待ってないから大丈夫。そんなに急いで来なくても良かったのに」


「ダメだよ! だってお姉ちゃん、今から大事な用があるんでしょ?」


「そうだけど」


 急いだところで相手が逃げることもないし、時間もたっぷりある。焦ることは何もない。


「じゃあ早く行こうっ」


 椿が僕の手を取り引っ張って、さっさと歩きはじめる。


「はいはい」


 早足で椿に追いつき、隣に並ぶ。


「今日はどうやって行くの?」


 椿がポケットからスマホを取り出した。


「学校からだと路面電車がいいかな。先にお花も買っていきたいし」


 正確な道順を調べるため、僕も鞄からスマホを――


「お姉ちゃんは地図見るの下手だからダメ」


 椿からNGが出たので、鞄に突っ込んだ手を戻す。


「……下手でも、慣れていかないと治らないと思うんだよね」


「方向音痴って治るのかな?」


「……どうだろ」


 そもそも方向音痴は病気とかそういうものなのだろうか。冷静に考えると、ただ地図を見るのが下手なだけだから、もっとアプリの使い方を熟知するとかすれば治りそうに思うけど。


「お姉ちゃんの場合、地図とか関係なく、進んだ先がだいたい間違ってるから重症だよね。方向に関してはほんと運がないよね」


 運のことを言われるとどうしようもない。


「まあ治らなくても、遠いところに行くときは私や遥さんと一緒に行けばいいよ」


「それ、一人で行くなってこと?」


「うん」


 はっきり頷かれた。姉としてショック。


「あのお店でいい?」


 椿が近くのお花屋さんを指差す。


「いいよ」


 とくにこだわりはない。そのお店でお花を買い、それから大通りの車道中央にある駅から路面電車に乗り、十分揺られて下車した。横断歩道を渡って歩道にたどり着くと、何故かそこに見知った顔があった。


「よう」


 大きく膨らませた鞄を背負った遥が、僕達に向かって手を上げた。


「遥? どうしたのこんなところで」


「椿に頼まれてな」


 椿に? 振り返り椿を見る。椿は顔の前で両手を合わせていた。


「ごめんなさい! 言うと迷惑を掛けるからとか言われそうで、黙ってたんだ」


 うっ……。言い返せない。椿の言うとおり、たぶん言うと思う。だって椿に頼むのだって、結構悩んだんだから。


「……椿が謝ることはないよ。どちらかというと、そんなこと何も言わずにさっき別れて、ここで待ってた遥が悪い」


「そうそう。椿はアタシを頼って呼んだだけ、来るかどうか決めたのはアタシだ」


 言いながら、遥が椿の頭をそっと撫でる。


「うんうん。遥が悪い」


「いや、そうだけど、二回も言わなくていいだろ」


 口では非難めいたことを言う遥だけど、その顔は笑っていた。


「……ありがとう。遥がいてくれると心強いよ」


「ああ。なんせアタシは楓の親友だからな」


 ……あとで椿にもありがとうと言おう。やっぱりこういうとき、遥がいてくれると安心する。


 遥と合流した後、徒歩で住宅街を歩く。しばらくすると田んぼや畑が多くなり、目の前に小高い山が現われた。その山には正面からまっすぐ天に昇るかのように、長い長い階段があった。


「……試されてる」


「ここを選んだのはお姉ちゃんでしょ?」


 そうなんだけど、いつ見てもこの階段は時代を逆行している気がする。バリアフリーもユニバーサルデザインもあったもんじゃない。……今の凄いデジャブ。


 荷物を置く場所もなく、仕方なく中身の詰まった鞄を持ったまま、階段を上り始める。すぐに僕は息を切らし始めたというのに、遥はと言えば、一番重そうな鞄を背負っているのに、涼しい顔でヒョイヒョイと上って行ってしまう。


「二人とも、荷物持とうか?」


「私は大丈夫なので、お姉ちゃんのを――」


「僕も、大丈夫……」


 二人がそのままなのに、自分だけ楽をするわけにいかない。……本当にキツくなったら遥に助けを求めよう。


 上りはじめてどれくらい経ったか。やがて頂上が見えてきた。最後の力を振り絞って力強く駆け上がり、最後の段をようやっとの思いで登り切った。


「はあ、はあ、やっと、ついた……っ」


 さすがにもう力が尽きて、足がふらついていた。目の前に椿がいたので、その胸に飛び込んだ。


「ちょっとこのまま、休ませて……」


「大丈夫お姉ちゃん?」


 僕が倒れないように、椿が抱き締める。顔が胸にうずまり、少し息苦しい。でも、心臓の音が聞こえて、なんだか心地良かった。


「お姉ちゃん、バラの香りがする」


 いつの間にか椿が僕の頭に鼻をくっつけていた。


「だから人の匂いを嗅ぐなって……」


 これもデジャブ。


 息を整えたところで椿から離れ、視線を奥へと向ける。


 ずらりと並ぶ墓石。僕達以外に人のいないその景色は、少し寂しさを感じた。


「アタシはここで待ってるから、二人は荷物を置いて行ってこい」


「うん。ありがとう」


「……頑張れ」


 遥の気遣いに礼を言い、荷物を預け、お花だけを持って奧へと進んだ。


 綺麗に区画整理された墓地を奥へ奥へと進んでいく。やがて目的の場所にたどり着くと、買ってきたお花を二つに分けて、花瓶に挿す。そしてお墓の前で椿と共に手を合わせた。


『依岡』


 墓石に彫られた文字に触れる。


 ここへ来るのは初めてじゃない。なのに、初めてのような気分。でも実際そうなのかもしれない。今まで、僕がここに来ることの意味は、両親のお墓としてだった。今回は違う。両親と、そして柊のお墓としてやってきた。


「お姉ちゃん……」


 椿と目が合う。手をギュッと握る。


 ……ここへは一人で来ても良かった。たぶん、これまでの僕なら一人だった。でも、そうじゃないなと思った。これは僕の問題だ。それは間違いない。けど、だからと一人で抱え込まなきゃいけない、なんてことはない。僕と椿は家族だ。家族なら、家族である僕のことを助けてもらってもいいんじゃないかって思った。甘えることは、決して悪いことじゃない。


「ちょっと行ってくる」


「うん。頑張って」


 繋いだ手から、椿の温かさが伝わってくる。


 ――この温かさを、彼女にも伝えてあげなきゃ。


 ◇◆◇◆


 真っ白い部屋。そこには何もなかった。


『まさか、君から会いに来るとは思わなかったな』


 唯一、笑顔の彼女が僕を出迎えた。


 やっぱり。彼女はまだ消えていなかった。彼女自身もしくは僕が、彼女の役割は終わったと判断して、僕の手の届かないところまで深く深く潜っただけだった。そのせいで、これまで何度か彼女と会おうとしたが、一度も会うことはできずにいた。


 でも、柊を強く感じられるここなら、こうして彼女のところに来られると思った。それは正しかった。


『どうして来たの? もしかして、僕を引き留めるつもりなの?』


 彼女がクスリと笑う。『それはできないよ』とでも言うように。


『……最初はそのつもりだった。君から消えてなくなるって聞いて、本当にそれでいいのか、このまま君が消えちゃってもいいのかって、何度も考えた』


 それは蓮君から話を聞いたとき、強く感じた。彼女は蓮君と仲が良かった。その蓮君に、彼女は別れの挨拶をしたんだ。


 それはきっと、未練があったからだ。彼女の中に少しでも、消えたくないという想いがあったはずだ。


『だけど、それもダメなんだ。君は僕の心の弱さから生まれた。弱い僕を助けるために君はいた。……僕は弱いよ? 今もそう。……でも、そんな僕でも、助けられたって言う人がいたんだ』


 遥、そして彩花さん。二人とも、僕が何かをしたわけじゃない。ただ、僕がいたことで、二人は勇気をくれた、前に進めたって言ってくれた。


『あのときの、嫌いだった僕でも、そこにいる意味はあったんだ。僕のこれまでに、無駄だったことはなかったんだ』


 だから、その二人のためにも、そして僕のためにも、ここで立ち止まってるわけにはいかない。弱くても、弱いまま、前に進まなくちゃ。彼女達と一緒に、ちょっとでも前に進むために。彼女達と一緒に、前へ、前へ。


 そうすることでようやく、僕はちゃんと笑えるようになるんだと思う。


『ふふっ。後ろ向きに前向きだね』


『そうそう変われないよ。ちょっと無理して頑張るぐらいがちょうどいいと思う』


『うんうん。それが君だしね』


 彼女がゆっくりと近づいてくる。


『それじゃあ、どうする?』


 僕は彼女に向かって、手を差し出す。


『前に進むなら、もちろん――』


 近づいてきた彼女の手を掴む。離さないように、ぎゅっと強く握り締める。瞬間、彼女の姿が柊になった。僕の記憶の『柊』じゃない。生きていた頃の、小学生の柊だ。


 彼女が自分の姿を見下ろす。そして顔を上げ、クスッと笑う。


『私は柊じゃないよ』


『わかってる』


 忘れていたものを思い出した僕が彼女と繋がることで、柊の全てが反映されたのだろう。……それか単純に、ただもう一度、あの時の柊に会って、こうして手を繋ぎたかっただけなのか。。


 ――視界が揺れる。ガラガラと世界は崩れ去り、現われるのは黒いアスファルトと、壊れた一台の車。横転したその車の後部座席には、僕と柊が乗っていた。


 ……思い出した。そうだ。僕はあのとき、柊を守ろうとして、自分の体を盾にしたんだ。だけど運悪く、柊の頭にコンクリートの塊が当たって、それが致命傷となった。僕も首より下の損傷が激しく、生きているのがやっとという状態だった。


 その状況で、それでも僕は覆い被さるようにして、柊を抱き締めていた。朦朧とした意識で、焦点の定まらない目で、それでも力の入らなくなった両腕を使って柊を守っていた。


『ひい、らぎ……』


 血だらけの僕が辛うじて言葉を紡ぐ。柊は震える手で、僕の頬に触れる。


『―、―、―、―、―』


 ゆっくり、一字ずつ、ほとんど声にならない声で、柊が必死に言葉を繋ぐ。


 そうしてニコリと微笑み、やがて目を閉じた。僕も柊も、それ以上動くことはなかった。


『……今度は伝わった?』


『うん。伝わった。思い出した、が正しいのかな』


『事故の後遺症でずっと忘れていたんだもん。伝わった、の方が良くない?』


『そうかもね』


 世界がまた揺れる。けれど今度さっきとは違う。崩れていくんじゃなくて、全てが微細な白い粒になって、空へと浮かび上がっていく。


 ……空?


 見上げた先は、雲一つない真っ青な空があった。空の色は僕の心の色。白く何もなかった世界が、青で光り輝いている。


『こんなに綺麗なのは初めて。これでほんとに、柊のことはいいんだね?』


 少し間を空けて、ゆっくりと頷く。これで良いんだと、自分に言い聞かせながら。


『良いとか良くないとかじゃない。柊はあのときに死んだんだ。死んでしまった柊を、いつまでもずるずると引き摺ってちゃだめだ』


 ――柊はまだ僕の中に生きている。


 それだけのために、彼女はずっと柊の振りをしてきた。彼女の振りをさせ続けてきた。そうして長い間、僕を助けてきてくれた。その彼女が消えてしまうというのなら、せめて最後くらいは綺麗に消えさせてあげたい。彼女は僕だけど、『柊』という、ずっと僕の傍にいてくれた家族だから。


 周りの景色と同じく、彼女の体からも光の粒が溢れた。一際大きく輝き、たくさんの粒子が空へと上がっていくと、そこにいたのはもう一人の『僕』だった。瓜二つの『柊』でもない、間違いなく、今のもう一人の『僕』だ。


『なんだろう。嬉しいかも』


 そう言って『僕』が瞳を潤ませた。いつも笑顔だった彼女の、初めての涙だった。


『今度こそ、お別れだね』


 彼女からも光が溢れ始める。僕をもう一度見て、ゆっくりと視線を下ろすと、握っていた手から力を抜いた。けれど僕は、離れないようにきつく握り返した。ハッと顔を上げ、濡れた瞳で僕を見た。


『あのまま君と別れていても、全ては僕に戻っていたと思う。でも、それだと君が本当の意味で消えてしまう。君は僕だ。だったら、ちゃんと受け止めてあげないとね』


『自分にそんなこと、言う?』


 彼女の頬を涙が伝っていく。


『相手が自分なら、恥ずかしがることもないと思って』


『ふふっ。そうだね』


 一度開いた手で、もう一度僕の手を握る。僕と同じ小さな手。その手が少しずつ、光になって消えていく。


『少し前までは、こんな気持ちで消えるなんて思いもしなかった』


『それは良い意味で?』


『もちろん』


 涙を流しながら、満面の笑みを見せる。そうして眩い光に包まれていって、彼女の姿が見えなくなっていく。光は上へ上へと上がっていき、青い空に飲み込まれた。


『ありがとう』


 いなくなった彼女の声がした。それは凄く近いところから。僕の胸から聞こえた。


 僕はそっと胸を押さえて、言葉を返した。


『――ありがとう。そして、おかえり』


 ◇◆◇◆


 ――ゆっくりと目を開ける。目の前には『依岡』と彫られたお墓がある。


「……お姉ちゃん」


 隣を見る。椿が心配そうにこちらを見つめている。


 ニコリと笑う。それだけで椿はお化けでも見たかのように、酷く驚いた。


「お、お姉ちゃん……だよね?」


「うん」


「えっと……柊の方のお姉ちゃんじゃなくて、楓お姉ちゃん?」


 その言い方からして、やっぱり椿には分かっていたんだ。


「うん。正確には、『私』の中にいるけど」


 そう言って、胸に手を添える。


 すると――


「……楓、お姉ちゃん、なんだ……」


「え、ちょっと椿?」


 唐突に椿の目から涙が溢れ出した。すぐにポケットからハンカチを出して、椿の涙を拭う。


「私だよ。楓だよ? ……ああ、もしかして柊の私がいなくなって悲しくなった? それとも僕って言った方が良かったかな? 柊だった私ならちゃんと私とくっついて、ここに――」


 椿が首を勢い良く振る。


「そうじゃない。そうじゃなくて……私が泣いたのは、楓お姉ちゃんが昔の楓お兄ちゃんみたいに笑ってたから、嬉しくて……」


 昔のように……。あぁ、そういうことか。柊の私が戻ってきたから、昔みたいに、ちゃんと笑えるようになったんだ。良かった。


 ……でも、


「そのぐらいのことで椿が泣くほど喜ばなくても――」


「それぐらいじゃない! 私にとっては凄いことなんだから!」


「え、そうなの? ごめん……」


 凄い剣幕で怒られてしまった。


 それからしばらくの間、椿は小さな子供のように泣き続けた。「なんでお姉ちゃんは泣かないの?」って聞かれたけど、心の中で柊のほうが充分に泣いたので、間に合っている、ということを椿に伝えると、何故か「ずるいっ!」とまた怒られた。


 椿が泣き止み落ち着いたところで、依岡のお墓にもう一度手を合わせた。


「また来るからね。お父さん、お母さん。……柊」


 今度はちゃんと、柊にも言えた。


「そろそろ行こうか。遥が待ってる」


 椿に手を差し出す。まだ目の赤い椿が、その手に自分の手を重ねる。離れないように優しく握り締め、手を引いて歩き出した。


 別れたときと同じ場所に、遥は立っていた。


「どうだった?」


 私の表情を見て察したのだろう。遥は薄く笑みを浮かべていた。


「ばっちり」


 そう言って、椿の時のように笑ってみせる。やっぱり遥も驚愕に眼を見開いて、椿と同じように「もしかして柊か?」なんて聞いてきた。


 そういえば、遥には詳しいことを説明してないんだった。あとで説明するではあったけど……今、かな。


「ちょっと長い話になるけど、私の話、聞いてくれる?」


 また遥は驚いた。椿も遥も凄い驚きようだけど、そんなに私の表情それとも雰囲気? が、さっきまでとは違うのかな。


 遥は「何時間でも聞くぞ」と言ってくれた。


 それじゃあと、世私は遠慮せずに今までのことを話した。


 柊がいた頃のこと。事故のこと。柊が死んだこと。私の体のこと。私が作り出した『柊』のこと。そして、今の私のこと。


 遥は終始言葉を発さず、ただただ静かに私の話に耳を傾けてくれた。やがて全て話し終えると、遥は私を見て一言、こう言った。


「そっか……。頑張ったな」


 いつものように、ニカッと歯を見せて笑う。私もそれに返事するため、微笑んでみせる。遥に頑張ったと言われて嬉しいことを伝えるために。


 ……なのに、私の視界は滲んでいた。何故か涙が溢れてきて、頬を伝っていく。泣きたいわけじゃないのに次から次へと溢れてきて、拭っても拭っても止まらなかった。


「よく、頑張った」


 遥がもう一度言って、私の頭を優しく撫でた。止めようとしていた涙が、それどころか一層溢れてきた。


 ……なんだそうか。


 唐突に理解する。あのとき、消えていく柊も、今の私と同じように泣いていた。笑顔のまま、たくさん涙を流していた。きっと、あの時の柊と、今の私は気持ちが同じなんだ。


 ――私は、嬉しいんだ。

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[一言] 楓の中の柊さん、墓前で遂にお別れ、全てを受け入れた楓さん、僕っ子から私呼びに変わり、椿さんと遥に驚かれ、頑張りを褒められる。(私まで涙で視界が)
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