第108話 前に進む
――昼休み。雲一つない空は大陽で煌めき、目の前の木々を照らしている。
先日から続く気温の上昇で、今日も外はコートがなくても出られるくらいに暖かい。
そんな冬とは思えない陽気の中、僕はまた中庭に来ていた。また蓮君に呼ばれたわけじゃない。蓮君と話をしたここに、なんとなく来たくなったんだ。
周囲を見渡すと、僕のように外へ出てきた人がちらほらいる。中には上着を脱いで袖を捲っている人もいる。体感温度は人それぞれといっても、こうも違うのかなと思ってしまう。暖かいと言っても季節は冬。上着を着ていないと僕は寒い。
暖かいおかげか、いまだ頭は鈍痛がするけど、それも少し邪魔というぐらいで酷くはなく、他に症状もない。伯父さんの病院で処方された薬がよく効いているというのもあると思う。市販の薬は僕にはあまり効かない。
正直。ここには逃げてきた。いつ遥にバレるんじゃないかとヒヤヒヤしていたからだ。遥は誰よりも、勘が鋭いから。
そうしてぼーっとしていると、ふと遠くの草むらに光る物を見つけた。なんだろうと目を凝らすと、ガサガサと枝が揺れて、人が姿をあらわした。
「見つかっちゃったかぁー」
出て来たのは西条さんだった。首からぶら下げたカメラを片手に持って、もう肩の手で頭を掻いていた。
「一応断わっとくけど、別に追っかけてたわけじゃないよ? むしろうちが追っかけられてて、なりゆきでここに隠れてたら四条さんを見かけたからついカメラを向けたくなっちゃって……」
言いながら、西条さんはこちらに歩いてきて、隣に腰を下ろした。
「追いかけられてたって、また何かしたの?」
「またって……まあその認識であってるか。一応自分でも結構やらしてるのは自覚してるし。やめないけど。それが記者たる者だしね」
何故か誇らしげに両腕を組む西条さん。心なしか口角も上がっている。
「ちなみに今は誰を追いかけてたの?」
「追いかけられてたんだってば。彩花に」
「彩花さんに」
西条さんが頷く。そして大きくため息を吐いた。
「なんか、うちが変な情報を教えたから大変なことになったって。ラブホがどうとか。うち、何か教えたかな……?」
……あれだ。この前の試験終わりに寄ったプラナスでの話だ。ああもう。せっかく忘れていたのに思い出してしまった。忘れよう忘れよう……。
「おっ。四条さん、今の表情いいね。一枚いいかな?」
尋ねながらもすでに立ち上がり、僕の正面に移動してカメラを構えた。
どうしよう。ここは顔を隠して断わった方がいいかな。
「……うーん。やっぱりナシ」
しかし、僕が断わるより前に、西条さんはカメラを下ろした。
「よくわかんないけど、四条さん。ちょっと暗い?」
「えっ……」
びっくりした。気が緩んでいたとは言え、遥しか気付かない僕の変化を読み取るなんて。
「うち、それなりに人を撮ってきたからさ、カメラ越しだと結構そういうの分かっちゃうんだよね。まっ、だからといってそれ以上はさっぱりなんだけど」
西条さんがニシシと笑う。
「そういう憂いを秘めた表情もいいんだけどさ、うちとしては四条さんには笑ってほしいんだよね。やっぱカメラマンはさ、その人の一番いい表情を撮るべきだと思うのよ。……たまに記事にあわせたのもほしいけどね」
可愛らしく、悪戯を見られた子供みたいにペロッと舌を出す。
「だからまあ、うちからは助言なんて高尚なことはできないし、むしろいっつも余計なことばかりしてるイメージだと思うんだけど……うーん……」
眉をハの字して目を瞑り唸る。すぐに目を開くと今度は笑って、
「元気だしてね。ねっ? ……む、危険な予感っ。そろそろうちは行くね。そんじゃ!」
そう言うと西条さんは片手を上げて、慌ただしく中庭の奥へと走って行った。
「あれ。楓さん? こんなところでどうしたの?」
入れ替えるように、彩花さんが校舎の方から走って現われた。肩で息をしていて、それなりの距離を走ってきたのがわかる。
西条さんに『暗い』と言われたばかりなので、努めて笑顔を作る。
「ちょっと風に当たりたくなってね」
「――っ」
当たり障りのない返事をしたつもりだった。なのに、彩花さんは表情を強張らせて大きく目を見開いた。
「……そんな顔、しないでよ」
ボソッと、彩花さんが何かを呟いた。
「彩花さん、何か言った?」
けれど、木々の揺れる音でボクの耳までは届かなかった。
「――えっ。いや、なんでもないよ。そ、そうなんだ。ボクは西条さんの気配がしたから来たんだけど、逃げられたみたいだね。あはは」
笑いがぎこちない。視線も安定せず、彷徨っている。
「逃げられたのならしかたない。……楓さん、隣いい?」
「え、うん」
彩花さんが少し離れてベンチに腰を下ろす。斜め下に俯いて、地面を見つめた。顔からは笑顔が消え、何かを考えているかのように、無言だった。
しばらくして、彩花さんが口を開いた。
「……先に謝っとくね。傷つけたならごめんなさい」
彩花さんが深々と頭を下げた。
「な、なんで謝るの?」
突然のことで動揺してしまう。
ゆっくりと彩花さんが頭を上げる。
「ボクにとってはとてもいい話なんだけど、たぶん楓さんには辛いことだと思うから。……でも、今の楓さんを見て、話しておくべきだって思ったんだ。それで嫌われてもボクは……泣いちゃうかもしれないけど、楓さんのためになるなら……。きっと、恩返しになると思うんだ」
恩返し? 彩花さんが僕に? されるようなことをした覚えはない。
「あの、彩花さん、何の話をしてるの?」
「……昔の話、かな。楓さんは気付いてないだろうけど、ボクは昔、楓さんに何度も会ったことがあるんだ。いや、正確には、何度も会いに行ったことがある、かな。…………あの病院の病室で」
――病院。病室。記憶にあるのは『あの時』のこと。僕達家族が事故に遭って、両親が、柊が亡くなって……僕が今の僕になったときのこと。
あの病院に彩花さんがいたのだという。どうして? 誰かのお見舞い? それとも――
「えっと。楓さんも知ってるよね。ボクがみんなに、ボクは男だって言ってるの」
頷く。
聞いたことがある。彩花さんは、今は女の子だけど、昔は男だったって。だから女の子が好きだとか……。
「あれ、本当なんだ。ボクは昔男だった。正確には元から女だったけど、男と勘違いされて育てられて、女だと気付いたのが小学校高学年の頃だった、かな」
そうして彩花さんが自分の生い立ちを語る。彼女は生まれつき、外見上は女性に見える病気を患っていたのだという。生物学上の性別は女性なのに、形だけ真似た生殖器等のせいで、男性だと誤認されたらしい。彩花さんはそのまま男として育てられた。外見上はなんらおかしくないので、誰も彼女が女性だとは思わなかった。
しかしある事故により、入院。その時の精密検査により、女性であることが発覚した。急遽追加で女性となるべく手術を行い、そして彼女は今の性別になった。
「あ、ちなみに湊といつもジャンケンしてどっちが姉かってやってるのは、このときの事故のせいだよ。その事故が、ボクとの喧嘩中に車道に飛び出た湊を庇ったことが原因だからね。その責任を感じて『これからは私がお姉ちゃんを守る!』って言って聞かなくて……。しかたないからジャンケンで勝ったらその日は妹になってあげるって言ったらずっと続けちゃって、今の状況に落ち着いちゃった。まっ、もともと双子なんだから、どっちが姉とかあんまりないんだけどね」
ずっと不思議だったけど、あれにそんな意味があったんだ。そしてこの話でようやく、彩花さんが本当の姉だということがわかった。
「ボクは元々男だったってことは信じてくれたかな? 一応証拠もあるよ。はい」
彩花さんが胸ポケットから一枚の写真を撮りだした。そこに写っていたのは、小さかった頃の湊さんと……男の子の格好をした彩花さんだった。金髪に、今の面影のある顔。だけどたしかに、この子は男だ。双子で、この時は背丈も似ているのに、一方には女の子らしいワンピースを着せて、もう一方にはTシャツとハーフパンツという男の子らしい格好をさせるなんて、親からすれば普通しないだろう。単純に、洋服代が倍になるのだから。もちろん彩花さんの好みでこの服を買って貰ったという可能性もあるけど……メイド服を躊躇わず着るような人だから、それはないような気がする。……まあ、それ以前に、彩花さんに嘘を付く理由がない。そして嘘だという理由もない。これらは全て、真実だ。
彩花さんに写真を返す。
「信じてくれたってことで話を続けるね。事故と女の子になるための手術をするために、ボクはとある病院に入院してた。その病院に、楓さんもいたんだ」
話の途中で薄々気付いていた。彩花さんが事故に遭ったのが小学生の高学年。僕もそのときに事故に遭っている。接点と言えばそこでしかなかった。
それは、僕が椿の前だけではやせ我慢して、いなくなればめそめそと泣いていた、あの病院だ。
見ていたということは、さぞ惨めに見えていたことだろう。だが――
「ボクはその時の楓さんを見て、凄く勇気をもらったんだ」
彼女に瞳に映った僕は、どうやら百八十度違って見えたみたいだ。
「楓さんには悪いけど、看護師の人から、ボクと同じような境遇の人がいるという話は聞いていたんだ。ううん。同じじゃない。ボクなんかよりずっと辛い思いをしている子がいるって。ボクはそれに興味を持って、病室まで行った。ちなみに初めは冷やかしのつもりだったんだ。ボクもその当時はやさぐれちゃってたから」
彩花さんが恥ずかしそうに照れ笑いをする。
「楓さんは椿ちゃんと一緒だった。楽しそうに笑って、話をしていた。これが両親をなくして、双子の妹まで亡くした兄妹なのかって驚いたよ。だけど違ってた。楓さんは椿ちゃんがいなくなると、いつも泣いてた。亡くなったみんなのことを思ってなのか、それとも椿ちゃんのことを思ってなのか、それは分からなかったけど、楓さんはいつも、泣いてた。でも、椿ちゃんが来ると絶対に泣かずに、笑顔だった。ボクはそれを見て素直に、凄いって、強い人だって、感動したんだ。自分が一番辛い思いをしてるのに、それでも妹のために笑ってる。ボクなんかと比べものにならないくらい、凄い強いお兄ちゃんだなって」
ふいに彩花さんが立ち上がる。そして僕の正面に立つと、
「……だからボクも頑張ろうって思えたんだ。性別が変わったぐらいなんだって、取るに足らない些細なことじゃないかって。そうして、今のボクがある」
彩花さんが一歩、もう一歩前に踏み出す。僕と目の鼻の先。見上げる僕の両肩に、彩花さんはそっと手を置いた。
「ボクはそんな楓さんが好きなんだ。一人で頑張り過ぎちゃう、そんな楓さんのことが」
……好き? それって、どういう――
「あの時からずっとボクは楓さんのことが好きなんだと思う。たぶん初恋じゃないかな?」
初恋……えっとそれって、そういうときの好きは、恋愛的な意味でってこと?
「――はっ! ちょっ、待って今のナシ! いやナシじゃないやっぱダメ! でもナシ!」
僕も動揺しているけど、それ以上に彩花さんが酷いせいで、むしろちょっと冷静になれた。
「……ううっ。勢いに任せすぎた……」
顔が凄く真っ赤だ。
「えっと……き、気持ちは本当だけど、それで楓さんにどうにかしてもらおうってことじゃないから。お互い今は女の子だし、ちょっと、ね?」
「う、うん」
なんとなく、言いたいことはわかる。
「でも、ボクが楓さんのことを好きな気持ちはこれからもずっと変わらない。それだけは知っててほしいんだ」
耳まで真っ赤にしながら、彩花さんは満面の笑みを見せてくれた。
「……だから、あの時みたいに、悲しい顔はしないでほしいんだ。あの時と今は違う。今は楓さんの周りには一杯友達がいるんだ。辛いなら、それを誰かに分けてもいいと思うんだ。別にボクがって言ってるんじゃないよ? 助けられた身でそんな出過ぎた真似は言わないよ。でも、それでも、ボクにも何かできるなら喜んで手を貸すよ。……まあでも、きっと遥が全てなんとかしちゃうんだろうけど。ほんとアイツ、楓さんのことになると全力を出すから」
「あはは。そうかもね」
「おっ、否定せず肯定とは。遥め、そこまで楓さんに気に入られてるのか……ずるいっ」
言いながら彩花さんが僕から離れると、ふぅとため息を吐いた。
「……えっと、言いたかったのはそんな感じの話。色々話したけど、まとめると……楓さんに少しでも元気になってほしかったってこと。目的は達成かな?」
「うん。ありがとう。彩花さん」
彩花さんがニシシと歯を見せて笑う。
「じゃっ、ボクは結奈を掴まえて絞り上げないといけないから。またねっ」
そう言うと彩花さんは西条さんを追って木々の中に消えていった。
――本当にありがとう。彩花さん。
あの頃の僕でも、彩花さんに少しでも勇気を与えていた。そのことが知れてとても嬉しかった。
……うん。そうだね。これからだって、そうでありたい。そうじゃなきゃダメだ。誰よりも、何よりも、僕のために。
――勇気を出して、前に進もう。