第107話 それはあまり知らない痛み
――朝。いつもより早い時間に、ふいに目が覚めた。それと同時に違和感を覚えた。記憶にはある、けれど経験はあまりない、気持ち悪く、頭痛を伴う、嫌な感触。
まだ椿が起きるには早い時間だから、起こさないよう、静かにドアを開け、暗い廊下を進み、トイレへと向かう。
スイッチを押して、明かりを点け、トイレに入った。便座に座り、『それ』を確認する。
…………やっぱり。
途端に気持ちとともに、体がズシッと重くなる。当然のこととは言え、それを直視したのは久しぶりだった。以前はたぶん、伯父さんの家にいたころだと思う。もうかなり前のことだ。その時に一度だけ経験した。
はあ……。どうしよう。
深いため息が洩れる。しかし、悩んだところで誰かが手を差し伸べてくれるわけでもない。というより、初めてならともかく、そうでなければこれは誰もが一人で処理するものだ。これは別に病気でもなんでもなく、自然なことなのだから。
経験が浅くとも、どうすればいいかわかってる。彼女のをずっと『見ていた』から、知識としては知っている。簡単なことだ。
そう……簡単なこと。少し辛いけど、それは体の問題。ただ痛いだけなら耐えられる。『あの時』だって、痛みには耐えられたんだから。
……でも、けれど、今もあの時も、心の方はどうにもならなかった。そうして苦しんで、取り繕って、また苦しんで、椿を傷つけて、苦しんで……彼女が現われて、僕は少し楽になった。
『私はもうじき消える』
下腹部の痛みとともに、彼女の言葉が頭の中で繰り返される。彼女がいればこの痛みを感じることはなかった。逆に言えば、この痛みを感じている今、彼女はもう、言葉通りにいなくなったのかもしれない。あれからまだ一週間しか経っていないのに。こんなに早く、彼女の存在を感じられなくなるなんて……。
「柊……」
声にしてみる。それは誰にも届くことなく、小さな空間の中で消えていった。
◇◆◇◆
「お姉ちゃん大丈夫?」
「うん。そんなに心配しないで」
鎮痛剤を飲んだから、朝と比べると幾分マシになっている。それでも頭の痛みを取り去ることは出来なくて、今も鈍痛が続いている。
この状態で彼女は笑っていた。素直に凄いと思う。僕ではせいぜい平静を予装う程度。でもそれもできていなくて、こうして椿に心配されている。まあ、椿がちょっと大袈裟なんだろうけど。
「辛くなったら早退してね?」
「わかった」
校舎の二階に上がったところで、椿に手を振って別れる。一人になって、そっと息を吐く。椿の次は遥だ。彼女は椿以上に、僕の感情に敏感だ。できるだけ普通にしないと。
廊下を歩きながら、頬をペチペチと叩いて気合を入れる。教室に入ってすぐ遥が先に来ていないかチェック。そんなことはほとんどないんだけど。
いたのは綾音さんと葵さんだった。遥はまだ来ていない。少し気を緩ませて席へと向かう。
「おはよう、楓ちゃん」
「楓、おはよう」
「おはよう。葵さん、綾音さん」
挨拶を交わし、席に付く。
「楓は昨日のドラマ見た? 二十二時からのヤツ」
「うん。見たよ」
何気なくテレビをつけたらやっていたので、椿と一緒に見ていた。
「どう? あたしは微妙だったんだけど。とくにヒロイン役の人の芝居。棒過ぎない?」
「んー……たしかに」
お世辞にも上手じゃなかった。結構シリアスな話だったのに、場面によっては、その固い演技で台無しになっていた。椿なんて「これはこれでちょっと面白いね」と笑っていた。ちなみに椿が一番笑っていたのは、番組の終了十分前くらいの『涙溢れる感動のラスト!』と銘打っていたシーンだ。一応ヒロインは泣いていたんだけど、もう完全に涙が目薬で、台詞と表情が噛み合わず、なんともよく分からない絵面になっていた。たぶんあれは、その新人女優のお披露目用ドラマだったんだろうけど、株を下げたようにしか見えなかった。元々はモデルだか歌手だという話なので、そっちで頑張れば良いと思った。ドラマでも、喋らなければ綺麗な人だったし。
「あれはちょっとね……」
葵さんでも擁護できないほどなので、僕の評価は正しかった。
「色々と金の流れを思わせるドラマだったわね……そう言う意味では考えさせられて面白かったわ」
芸能界は暗い話が多いという。あくまでも噂だけど。
でも実際に、演技が上手く、綺麗で、歌が上手でも、まったく売れない子がいて、その逆も然り。難しい世界だ。
そんな話をしていると予鈴が鳴り、次いで遥が駆け込んできた。
心を引き締め、心配されないよう普通を装う。
「おはよう、遥」
「おう。おはよう」
……大丈夫、かな? いくら遥でも、そう酷くない症状を意識して隠せばそうバレることは――
「楓。ちょっと顔色が悪いぞ」
……あれ。
「そうなの? あたしには普通に見えるんだけど」
案の定、綾音さんと葵さんがビックリしている。僕だってビックリだ。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと頭が痛いだけだから」
「ふーん。どれ」
遥が僕の額に手を当てる。もう一方の手で自分の額に触れると目を閉じて「うーん……」と唸った。
「熱はない、か」
「だから大丈夫だって」
「強がるヤツの大丈夫はあまり当てにならないんだよ」
遥が離れる。
「まっ、今回はよさそうだな」
ほっ。深くは詮索してこないようで、胸を撫で下ろす。
「一限目ってなんだっけ?」
「英語よ」
「げっ。朝から一番ダメやヤツかよ……」
「今回の試験難しかったわよね……」
頷く遥の隣で、葵さんが「そう?」と不思議そうな顔をしている。僕も今回は少し難しかったと思う。応用的な問題が多かった気がする。
「まっ、英語なんてそうそう使わないだろ」
大手企業の社長の一人娘がそれでいいのかな……。たぶんこの中で一番英語が必要になりそうなんだけど。
少し遥の将来が不安になった。