第104話 受け入れるのは難しい
日本の天気予報の的中率は、世界でもトップクラスだということをニュースで見たことがある。意外と外れることが多いかなと思っていたのだけど、他国だとこんなに当たることはないのだという。比べてみて初めて分かることって、多いと思う。
予報通り、今日は比較的気温が暖かかったので、マフラーや耳当て、眼鏡は必要はなかった。ただ、それでも夕方になると冷え込んでくるのは、コートだけは持っていくことにした。
朝。ハンガーからコートを取って何気なくポケットに手を突っ込んだときだった。指先にカサッと何かが当たった。取り出してみるとそれは四つ折りにされた小さな紙片だった。僕はこれを入れた覚えはない。椿も昨日はコートに触れていない。誰かが触ったとしたら、プラナスで脱いで置いたとき。
……一人いた。この紙片をポケットに入れられる人。たぶんあの人だ。
紙片を開く。そこには手書きの文字が書かれていた。
◇◆◇◆
昼休み。食堂で昼食を食べてから、みんなには「用事があるから」と言って一人出て来た。
昇降口で靴を履き替え、中庭へと向かう。木々に覆われたその先にあるベンチに、待ち合わせの人はいた。
「こんなことしなくても、携帯にメッセージを送ってくれたら良いのに」
僕がそう言うと、蓮君は立ち上がり苦笑した。
「そうだね。ごめん。でも、そういう風にして伝えたかったから」
「僕が気付かなかったらどうするつもりだったの?」
「その時は俺がここで待ちぼうけして、後悔するだけだよ」
気にしないで、と言いたげに蓮君が笑う。
「それで、話って?」
「……うん」
蓮君はいつものように優しい微笑みを浮かべている。でもそれが、いつもは少し違って見えた。笑っているのに、悲しげで、泣きそうな、そんな目をしていた。
「……この前、『柊』に会ったんだ」
「――っ」
会った? 彼女と?
内心酷く動揺した。その名前は今一番聞きたくなくて、聞きたくもある、僕の心を震わせる言葉だ。
蓮君がその名前を言うこと自体に違和感はない。彼女と一番遊んだのは蓮君だ。彼女と一番仲が良かったのも、きっと彼だ。だけど、それはもう四年も前のこと。何故今更になってその名前を。それどころか、『会った』というのはどういうことだろう。僕にその記憶はないし、どんな状況で彼女と会ったのだろう。
「俺と柊って、結構遊んでたでしょ?」
「……うん。そうだね」
昔を懐かしむように蓮君が言う。
「だから、挨拶に来たんだ。修学旅行の時に」
修学旅行……。ああ、あの時か。突然いつもとは違うタイミングで彼女と入れ替わったとき。そのときはいつもと違って、彼女が何をしていたのか見えてなかったんだ。
――『挨拶に来た』と、蓮君は今そう言った。この前のことが脳裏をよぎる。あれも言えば『挨拶』だった。僕との『別れの挨拶』だ。
「挨拶ってなんの?」
分かりきっているのに、僕は尋ねた。聞かずとも、彼の目、表情が、それを物語っていた。
「……お別れの」
――だというのに、僕の心は揺れた。あの時、彼女に言われたときのように。激しく揺さぶられた。
「もう私は消えていなくなるから、ありがとうって」
消える。消えてなくなる。僕のときと同じ言葉。知らぬうちに、それを仲の良い蓮君にも伝えていたのだ。
……本気、なんだ。彼女は本気で、本当に、宣言通りに、消えるつもりなんだ。
二度目の宣告。足元がガラガラと崩れていく感じ。蓮君がいなければ、たぶん僕は立っていられなかったと思う。
「そう、なんだ……」
やっと絞り出した言葉はそれだけ。それだけしか言えなかった。今僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。何も考えられない。
ただただ何も言わず、そこに立ち尽くす。地に足をつけているはずなのに、ふわふわと浮いているような変な感覚に襲われる。時折倒れそうになるのを耐えながら、せめてもう一言くらい何か言おうと頭を働かせようとする。
……と、ふいに頭に温かな感触を感じた。
いつの間にか地面を向いていた視線を上げる。蓮君が僕の頭に、大きな手を乗せていた。
「元気出して。楓ちゃんを悲しませるつもりで言ったんじゃないんだ」
蓮君は務め明るく振る舞っているように見えた。
「辛い思いをさせてしまうとは思ってた。でも、悲しませることになっても、伝えなくちゃいけないって思ったんだ」
――彼女はちゃんといた、という証のために。蓮君がそう言っているような気がした。
蓮君の手が優しくゆっくりと動いて、僕の頭を撫でる。
「僕には楓ちゃんの悲しみや苦しみの全てを理解することはできない。けれど、もし柊のことで誰かと話がしたくなったら、いつでも俺が聞くよ。柊は俺の友達だから」
……『一人で抱え込むな』ってことか。
「うん。ありがとう。蓮君」
精一杯笑ってみせる。僕じゃ柊みたいに笑えないし、今の僕は笑えるような状態じゃないけど、それでも笑ってみせた。
「どういたしまして」
蓮君はいつもの笑顔で答えてくれた。
◇◆◇◆
中庭から昇降口に戻ってきたところで、蓮君と別れた。蓮君はそのまま階段を上がっていき、僕はそれを見送った後に廊下の奥へと進んだ。少し一人になりたかった。
ついでに何か考えよう。そう思ったのに、ただただ歩いているだけ。たまに窓の外を見て、しばらくして視線を戻す。その繰り返し。
そうして歩いていると、こちらに向かって来る女の子の存在に気付く。見ればそれは塚崎先輩だった。今日は珍しく、誰も連れて歩いてはいなかった。
「あら、四条さん。こんにちは」
深々と礼をする生徒会長。塚崎先輩や遥のように、人の上に立つ人は立ち振る舞いもキチンとしている。
「こんにちは、塚崎先輩」
桜花のことを思い出していたせいか、意識せず桜花風にお辞儀していた。あれは少し仰々しいから普段はしないようにしていたのだけど。
顔を上げると、塚崎先輩は少し驚いた表情をしていた。
「さすが遥のお友達ね」
「あ、あはは」
それは褒めているのかな。どっちかというと、この学校だと遥は悪い噂が多いような気がする。
「あ。せっかく会ったのだし、ついでだし伝えておこうかしら」
「なんでしょう?」
塚崎先輩はコホンと咳払いをしてから、
「四条さん。あなた、次の生徒会長に立候補しない?」
「え……?」
一瞬理解できなくて首を傾げて数秒。動き出した頭でようやく意味を飲み込む。
「……そんなに立候補する人いないんですか?」
こうして勧誘に身を乗り出しているということは、成り手がいないのだろう。でも、それはしかたない。ここの生徒会は別名四季会。わざわざ敬称が付けられているほどなので、ここの生徒会長になるということは名誉なことであり、憧れの役職なのだろう。だから、生徒会長になる人は、それに相応しい人でなければならない。自分が条件に合致しているという自信がなければ、立候補なんてできないだろう。
生徒会の役員選挙は来年の二月初旬に行われるはず。立候補の届け出はその一週間前の一月下旬。冬休みが明けて、そう間もなく始まる。あまり時間は残されていない。このままもし成り手がいないと、仕事の引き継ぎが滞ってしまう。塚崎先輩はそれを危惧して、立候補者を募っているのだろう。
……と、色々と理由を考えていたのに、塚崎先輩はポカンとした表情をしたあと、声を殺して笑い出した。
「ふふっ。まあ、そう思うわよね」
「違うんですか?」
塚崎先輩がゆっくりと首を横に振る。
「立候補者は既に、最低でも三人はいるわ。現生徒会の書記と、執行部に二人。みんな二年生よ」
執行部はたぶん、よく塚崎先輩と一緒にいる女子生徒だ。書記は全校集会の時に見たことがある。キリッとして仕事ができそうな男子生徒だった。
高校の役員選挙程度なら、三人も立候補者がいれば充分だと思うけど……。
「人数は関係ない。私はあなたを推薦しているの」
関係ないと言われても……。わざわざライバルを増やすってことは、もしかしてその書記や執行部の人達とは仲が悪いとか? それで当てつけに僕を?
「えっと、仲間割れ、とかではないですよね?」
「もちろん。三人とも仲がいいわよ。でも、それとこれとは別。生徒会は学校のみんなのためにあるの。身内だからって贔屓してはいけないわ。私は私の思う理想的な人がいれば、関係なくスカウトするわよ?」
そう言って塚崎先輩がウィンクする。まるで「あなたがその人よ」とでも言いたげに。
……どうしよう。なんて返事したらいいのかな。僕のことを高く評価してくれるのは嬉しい。だけど、それはそれ、これはこれ。僕は生徒会長なんてやるつもりはこれっぽっちもない。なにより、僕のすぐ近くに、自分より向いている人がいる。
「気持ちはとても嬉しいのですが、今のところ僕にそのつもりはないので……」
「あら残念」
「僕より、葵さんとかどうですか? ぴったりだと思うんですけど」
「葵ねぇ。たしかにそうなんだけど、私としては彼女は性格的に副会長が適任だと思うのよね」
葵さんが副会長。なんとなく言いたいことは分かる。葵さんは自分から表に立つような人じゃない。どちらかというと、そういう人達を補佐する人だろう。
「彩花さんや遥もいいのだけれど、周りを不必要に振り回しそうだし」
納得。
「白水さんは……ちょっとね」
親が経営者だから、根拠のない変な噂が流れるかもしれない。
「それであなたに声をかけたのだけど、唐突すぎたわね。でも私があなたに生徒会を任せたいという気持ちは本当よ。だから、まだ時間はあるから考えてみて」
「……はい」
少し遅れて返事した僕に、塚崎先輩はにこりと笑い、「それでは」と会釈して昇降口の方へ歩いて行った。
生徒会長、か……。
ふと奈菜のことを思い出す。奈菜は中学の頃に生徒会長をしていた。学校が違っても、やることに大差はないだろう。さすがに執行部のアレは別として。
遥が近くにいてくれるなら……なんでもない。
もしもの可能性を思い浮かべ、すぐに頭を振る。
生徒会長になると、奈菜のように度々大勢の前に立たなきゃいけない。……それはちょっと、かなり嫌かも。
塚崎先輩はああ言っていたけど、もし誰か、となった時は葵さんを推薦しよう。副会長向きと言っても、それは僕の勝手なイメージであって、葵さんほどの人であれば会長だって問題なくやっていけると思う。
もしそうなったら、綾音さんと遥と一緒に推薦文を――。
そんなことを考えながら、教室へと戻っていった。