第101話 世界は今日も変わらない ◆
『私は君。正確には、あの時の君が不要だと切り捨てた感情、その心の一部と、柊との思い出で作った、不完全で不格好な、柊の真似事をしている君だよ』
『君は四条楓。私も四条楓。同じ四条楓。でも、まったく同じというわけでもない。私は君の一部で作られた代用品であり、欠陥品。君一人の代わりもできないほどの脆い存在なんだ』
『例えるなら……そう、霧かな。時々霧で君を覆い隠し、霧に君を映して、君の代わりに君の真似をしていた』
『霧は霧だから、風が吹けばふわっと消える。柊の真似事をしなくて良くなった私は、君を霧で隠す必要がなくなった。ううん。風が吹いて、君を隠すことが出来なくなった。風が吹いてながされた私は、どこまでも流されていって、広がっていって、いつか消える』
『私はもうじき消える。でも悲しむことはないよ。私は元々そういうものだったんだから。私が消えれば、君がいらないと捨ててしまったものが返ってくる。むしろ私は君のために消えるべきなんだよ』
『だから、決して悲しまないで。みんなが心配してしまうから。……よろしくね』
『……私が君にできることは、ここまで』
◇◆◇◆
――期末考査最終日。最後の終了を知らせるチャイムが鳴った。
「燃え尽きたわ……」
「ああ。色々使い果たしたって感じだな……」
絞り出すような声と共に、綾音さんと遥が机に突っ伏した。二人とも、まさに精も根も使い果たしたような、力の抜けた顔をしている。体勢を変えず、答案用紙だけ器用にまとめて前の席に回していた。
出入り口のドアが開き、試験中に退出した人々が戻ってくる。その中に葵さんもいて席につきながら「楓ちゃんはどうだった?」と尋ねた。
「いつも通りかな」
「そう。良かった」
葵ちゃんが微笑む。
「遥、アンタはどうだったのよ……」
「まあまあ。綾音は?」
「あたしもまあまあね……」
「まあまあってどれくらいだよ」
遥と綾音さんが机に突っ伏したまま、顔も合わせず言葉を交わしている。
「先に言ったアンタがそれ言う? ……んー、まー、クラス平均ぐらいじゃないの?」
「へー。アタシはクラス平均ちょい上だな」
「なにそれ自慢?」
「どのあたりが自慢なんだよ」
「同じまあまあなのに、アンタはクラス平均ちょい上ってところ」
「お互い、いつもの順位だってそんなもんだろ」
「そうなんだけど……はあ~」
綾音さんが大きくため息を吐いた。きっと遥に負けたことが多少悔しかったんだと思う。
「葵さんは?」
聞くまでもないけど、一応聞いてみた。
「私もいつも通りかな」
葵さんのいつも通り。つまり全教科満点付近。もし全部満点だったら葵さんはなんて言うんだろう。普通だったら「今回は調子良かった」って自慢するんだろうけど、葵さんだったらきっと「いつもより少し出来たと思う」ぐらいなんだろうな。点数の上昇だけで見れば僅かだし。
「……あの二人、いつも通りだそうよ。遥」
「さすが楓だな」
「違う。それは期待した反応と違う。アンタってほんと楓には親馬鹿よね。そこはほら、『アイツらとアタシ達じゃ住む次元が違うんだよ』って僻むところでしょ?」
「しょうがないだろ嬉しいんだから。だったら綾音が葵に僻めばいいだろ」
「……葵の何を煎じて飲めば、葵みたいになれるのかしらね」
「そこは爪ってことにしとけよ。ホラーに聞こえるぞ」
遥が体を起こす。伸びをして、コリをほぐすように両肩と首を回した。
「……はあ。とにかく、今年の山もなんとか越えられたな」
「うん」
遥がニカッと歯を見せて笑う。それに答えるように、微笑み返す。
……うまくできたかな。……あれ? 僕の顔を見たまま、眉間に皺を寄せて首を傾げてしまった。
「……楓。なにかあったか?」
心臓が跳ねる。いつも通りに振る舞っているはずなのに、遥には何か感じたのかもしれない。
「ん? なにも。どうしたの?」
さらに意識して平静を装う。
「……いや。なんでもない。気のせいだ」
そう言うと遥は僕から視線を外し、再び綾音さんと話し始めた。……良かった。
「これからどうする? ボーリングでもいく?」
「なんで試験終わりにボーリングなんだよ」
「ストレス発散にいいでしょ?」
「アタシと綾音はよくても、こっちはダメだろ。とくに楓」
「あはは……」
根を詰めて勉強したわけじゃないけど、試験はそれなりに疲れる。ボーリングはあのボールがとても重いから、体力が必要だ。ちょっと今はキツイかも。
「というか綾音もさっきまで死にそうな顔してただろ」
「それとこれとは別よ。アンタもそうじゃないの」
「まあそうだが」
「でしょ?」
二人の体力が心配だ。あり過ぎる方向で。
「そうなるとカラオケもしんどいわよね? まっ、試験明けで喉の調子も微妙だからあたしもあんまりって感じだけど。あとはプラナスでお昼ご飯ついでにパフェを食べるぐらいしかないわよ?」
「それでいいだろ」
「それでいいんじゃない?」
遥、葵さんに合わせて、うんうんと頷く。頭を使ったときは甘い物が食べたい。糖分補給だ。
「満場一致? じゃあプラナスいきましょうか」
善は急げという風に、綾音さんが誰よりも早く立ち上がる。
「何食べようかしら」
鞄を持ち、もう一方の手を顎に当てて思案顔をする。
「デラックス的なパフェでいいだろ?」
「カロリー的にちょっとね」
「綾音がカロリー気にしてどうするんだよ」
「一応あたしも女なんだし、気にするわよ。とくにテスト期間中は部活してないんだし」
言いながらお腹を撫でる。
「……なんか付いてる気がするわ」
「そうか? 気のせいだろ」
「葵はどう思う?」
「うーん。変わってる風には見えないかなあ」
葵さんが立ち上がりながら答える。僕もいそいそと机に広げていた筆記用具を鞄の中に入れる。
「……ん? あそこにいるのって彩花じゃないか?」
彩花さん? 鞄を閉じながら、教室の出入り口の方を見る。
たしかにそこに彩花さんがいた。トレードマークである金髪を揺らしながらこちらに向かって大きく手を振っていた。よく見ればその傍らに困り顔の湊さんもいる。
「あれってアタシ達を呼んでるよな?」
「うん。今私と目が合った」
遥が彩花さんの方を指差し、葵さんが頷く。
「彩花のわりに控えめね」
「湊に注意されたんだろ」
湊さんの困り顔からして、たぶん正解。
「なんとなく想像つくけど、いきましょうか」
そう言って綾音さんが先に歩き出す。それに僕達も続き、教室の外へと出た。
「楓さん。お疲れ様っ。試験どうだった?」
「いつも通りだよ。彩花さんは?」
「シケン? なにそれ食べれるの?」
「いや聞いたのそっちだろ……」
笑顔で出迎えた彩花さんは、聞き返された途端にスッと真顔になり、それを見た遥が呆れていた。
「お姉さんはボロボロだったみたい」
「ちょっと湊っ。答えなくていいでしょ!?」
ため息と共に暴露され、慌てた様子で彩花さんが湊さんの口に手を伸ばす。
「彩花はいっつもボロボロだな。ちゃんと勉強してるのか?」
遥がニヤリと口元に笑みを浮かべて彩花さんを見下ろす。悪気はないのかもしれないけど、彩花さんと遥では身長差であるから、笑っているのもあって凄く煽っているように見える。……あ、でもたぶんこれはわざと煽ってる。自分の出来が良かったから、ちょっとだけ調子に乗っている……というよりかは、気分がいいんだと思う。
「むっ。人を勉強できないみたいにいうのやめてくれる?」
「少なくともこの中で一番出来ないんじゃないか?」
「そんなことは……」
彩花さんが集まった僕達に視線を巡らせる。
「……この集まり。ちょっとレベルが高すぎじゃない?」
「そうでもないだろ……」
平均が三人に上位が二人。高すぎるというほどでもない。
「平均以下がボクだけなんですけど!?」
「だったら平均以上取るよう勉強したらいいだろ?」
「むっ。人が勉強してないみたいな言い方。これでもちゃんと――」
「湊、どうだった?」
「昨日も十時までテレビ見てた」
「湊ぉ!?」
……勉強会に彩花さんも招いた方がいいかもしれない。僕達とはクラスが別だから、試験問題も違うけど、彩花さんはそれ以前に、勉強をしないといけないという空間が必要そうだ。
「むっ……コホン」
彩花さんがわざとらしく咳払いする。
「そんなことはいいとして――」
「良くないでしょ。テスト返ってきたらまたお母さんに怒られるんじゃない?」
「……ボクへの慰労と、みんなの祝勝を祝って、プラナスで打ち上げしない?」
「一人残念会だな」
「うっ……」
「遥」
ニヤニヤと残酷な言葉を投げかける遥。彩花さんが言葉を詰まらせるのを見て、こっそり脇腹を突いて睨むと、苦笑して頷いた。
「と、とにかくなんでもいいからいこうよ。ここにいるとついさっきまで見てた悪夢を思い出すから! ストレスは体に悪いってテレビで見た!」
そう言って走り出す彩花さん。
「ちょっとお姉さん。廊下は走らないで。もう……」
湊さんが大きくため息をつく。
「アタシ達もいくか」
「ええ。……あ、でもその前に、芽衣も呼んでいいかしら。ちょっと部活について話したいこともあるし。前に奢ってあげるって約束したのよ」
「アタシはいいぞ。楓もいいよな?」
「うん」
どうせ集まるなら多い方が賑やかでいいかもしれない。
「あたしと葵も大丈夫」
「ありがと」
湊さんがスマホを取り出し、素早い指の動きで操作する。
「部活ってことは康介もか?」
「ええ。康介と蓮は先に場所を確保しにいってもらってるわ。……あ、ごめんなさい。芽衣から友達も一緒で大丈夫かってきたんだけど、いいかしら?」
どうぞどうぞと四人で頷く。またスマホを操作し、しばらく画面を見てからポケットにしまった。
「じゃあいきましょうか。早くしないとあそこにいるお姉さんが拗ねちゃいそうなので」
湊さんが廊下の先を指差す。その方向を見ると、たしかに階段へと繋がる角から、金髪の女の子がむすっとした顔だけを出してこちらを見ていた。
「あの髪じゃ隠れる意味ないだろ」
金髪はこの学校だと彩花さんを含めて二人しかいない。あと一人はもちろん、生徒会長の塚崎先輩さんだ。
僕達が歩き出すと、彩花さんは一瞬にして笑顔になって、壁の向こうに消えてしまった。先に行ってしまったのかと思ったけど、角を曲がってみると、すぐそこで待っていた。
階段に出ると、下から冷たい無意気が吹き付けてきた。たぶん昇降口からのだろう。すぐにコートを着て、ボタンを全て留め、マフラーと耳当て、そして伊達眼鏡をかけた。
「お。もう完全防備か?」
「だって寒いもん」
今日の天気予報の最高気温は八度。順調に暦通りの寒さになっている。でも今年は暖冬になるとの予想も出てたし、それを裏付けるように、明日からは暖かな空気が流れ込んできて、全国的に気温が上がり、十一月上旬頃の気温に戻るとか。僕としてはそれに期待している。
「えっ、楓さん、眼鏡するの?」
あれ。彩花さんの前では初めてだっけ。湊さんも僕の顔を見て少し驚いている風に見える。
「風よけの伊達だよ」
「風よけ……?」
合点がいかないという様子で彩花さんが首を傾げる。マフラーで鼻先まで覆ってみせると「なるほどっ」と呟いて理解していた。
「今日そんなに寒い?」
「寒い」
「楓は寒がりだからな」
充分寒いと思うけど……と、周りを見ると、僕以外の人の防寒具はコートのみ。眼鏡はともかく、マフラーや耳当てを持っている人はいなかった。しかも遥と綾音さんに至ってはコートの生地が薄い。あれで防寒の役割を果たせるのかどうか……あ、でも、カシミヤって暖かいんだっけ。
「……かっこかわいい」
彩花さんが真剣な表情で呟く。
「しかも眼鏡をすると知的さが五割増しされてる感じがする。ボクも眼鏡しようかなあ……」
「その前に、お姉さんはせめて平均点ぐらいは取ろうね」
「うぐっ……。眼鏡へのハードルが高い」
「せめてテスト前ぐらい集中して頑張れば、飛び越せなくはないハードルだと思うけど?」
「周りの誘惑に打ち勝たないといけないところが難しいんだよー」
彩花さんが頭を抱える。遥も同じようなことを昔言っていたような気がする。
そこからは「如何にして彩花を勉強に集中させるか」について議論しつつプラナスへと向かった。