第97話 冬は寒い
修学旅行から三週間が経過した。
暦が進み、カレンダーが最後のページを示す。師走と書いて十二月。一年の最後の月だ。
最近はめっきりと寒くなってきた。とくに朝。ベッドから出るときがとても億劫になってしまった。もともと僕は寒さに弱い。痺れるような寒さは拷問にも等しい……と思う。
「お姉ちゃん。そろそろ起きてね」
「うー……ん」
椿の声がして曖昧に返事をすると、彼女は「ちょっと急いでね」と言って忙しそうに部屋を出て行った。
僕も起きたい。起きたいのだけど、この寒さで布団を剥がすことはなかなかに難しい。例えるなら、せっかく温かい部屋にいるのに、自ら極寒の海に飛ぶ込むようなもの。……例えというか、状況的にそのままな気がするけど……まあ、そんな感じ。
しかし、このままここにいると学校に遅れてしまう。遅刻は正当な理由がない限り、何があっても許されない。それが「寒くてベッドから出られず遅刻しました」なんて理由だったら、なんて遥に言ったらいいか。……たぶん家まで迎えに来るとか言い出すに違いない。遥の家は逆方向なのに……。それはダメだ。
「よし……」
気合を入れ、一気に布団を剥がす。寒い冷気が体を包み、思わずぶるっと震える。すぐに布団にくるまりたくなる衝動を抑えてベッドから出ると、今度はフローリングの冷たさに震えた。
「……床暖房がほしい」
あったところでたぶん使わないけど。床暖房は電気代が凄いのだ。遥の家はいいよね。冬になると廊下も含めた全ての部屋に空調が効いていて、さらに床暖房付きだし。
ないものを強請ってもしかたないので早々に諦め、制服に着替える。部屋を出て洗面所を経由し、リビングに行くと、すでに準備を終えた椿が食器を洗っていた。
「おはよう。お姉ちゃん」
「……おはよう」
眠い目を擦りながら、椿から野菜ジュースを受け取り、椅子に座る。
「今日は先に着替えたんだね」
「パジャマでウロウロするのは寒いから」
この寒い中を薄着で歩き回るなんて僕にはできない。
紙パックに付属のストローを伸ばして突き刺す。飲んでみるともちろん冷たかった。温かい野菜ジュースはないものかと思ったけど、変な味がしそうだったので考えるのを止めた。
「お姉ちゃんって寒がりだよね」
椿が隣の椅子にコート、耳当て、マフラーを掛け、テーブルに眼鏡を置く。それらは全て僕の防寒対策グッズだ。
「まだ十二月の上旬で、そこまで寒くないし、自転車に乗るわけでもないから耳当てまでは必要ないんじゃない?」
「いる」
寒さの度合にかかわらず、耳は体温の下がりやすいところだから守らないと。
「眼鏡は? これって度は入ってないよね?」
「うん」
僕の目は視力が良く、とても健康だ。
「じゃあなんでするの?」
「風よけ」
本当なら顔全体を覆うフルフェイス的なものをしたいところだけど、それは周囲の人に怪しまれるし、遥に強く止められたので断念した。眼鏡を選んだ理由は、これだったらギリギリ許すと言われたからだ。
「風よけ……?」
椿が眼鏡を見て首を傾げている。
目のあたりに風が来なくなるだけでも少しは違うのでお勧めだ。問題があるとすれば、外見上の印象が大きく変わるというところ。でも、一般的に眼鏡を掛けると知的に見えるらしいから、いいことだと思う。遥に言わせると「楓が掛けるとガリ勉に見える」みたいだけど、気にしない。奈菜も沙枝も似合っているって言ってくれたし。
ためしに掛けてみて、椿にその姿を見せる。
「どう?」
「おー。印象が全然違うね。かっこいい」
……かっこいい?
始めて言われたのでピンと来ない。褒められことに変わりはないので、素直に「ありがとう」と返した。
「インテリ女子高生って感じ? 凄く頭良さそう……って、お姉ちゃん頭いいもんね」
インテリ女子高生はかっこいいってこと? ……あー、たしかにインテリ女子高生の代表とも言える奈菜が格好良かった。とくに剣道しているときとか……あれ、インテリ関係あるかな?
椿から僕の後ろに回り、髪を梳かし始める。
「今日はお姉ちゃん、放課後どうするの?」
「うーん……」
何か予定があったか思い出す。約束しているわけじゃないけど、来週の月曜日には期末考査が始まる。たぶん放課後は遥達と勉強することになりそうだ。
「たぶん図書館で勉強すると思う」
「遥先輩達と?」
「うん」
「毎回そうしてるけど、向こうでもそうだったの?」
「うん」
テストがある度に、僕と遥、そして奈々と沙枝を加えた四人でよく勉強会を開いていた。勉強会、というよりは、みんなで遥に勉強させる会って言った方がいいかもしれない。沙枝も奈菜も、誰かが教えるような成績じゃなかったから。
「遥先輩、いいなあ~……」
ぼそっと椿が呟いた。何か言ったみたいだけど、聞き直すほどの内容とも思えなかったのでそのまま流した。
「はいできた」
椿から鏡を受け取る。信じているから、確認なんてする必要ないと思うんだけど、「信じる信じないじゃなくて、お姉ちゃんも女の子なんだから、ちゃんと見なきゃダメ」と窘められたので毎回出来映えをチェックしている。もちろん今日も申し分なし。
「いいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
椿が軽く会釈して微笑む。
立ち上がり、防寒セットを着こみながら一度自室に戻って鞄を取ってくる。戻ってくるのは僕の方が早かったみたいで、先に靴を履いて玄関先で待った。
すぐに鞄を持ってきた椿が現われ、下駄箱から靴を取り出して履いた……けど、焦っていたようで、片方の靴が上手くはまらず、体勢を崩して尻餅をついてしまった。
「いったぁ~」
椿が涙目で腰を擦る。
「大丈夫?」
僕の力じゃ引っ張られてしまうかもしれないから、鞄を足元に置いて、椿に手を差し伸べる。
「お姉ちゃん……」
椿が僕を見上げてポカンと口を開ける。
「ん? どうしたの?」
「う、ううん」
勢い良く首を横に振ってから、椿は僕の手を取った。
「今のお姉ちゃん。凄く格好良かった」
そう言った椿は照れ笑いを浮かべていた。
「そう? まっ、お姉さんだからね」
ちょっと嬉しい。
椿は靴を履き直し、鞄を持つと玄関を出た。
スマホを取り出して時間を見る。充分に余裕があった。
「じゃっ、いこっか」
「うん」
玄関の鍵を閉め、椿と並んで歩く。エレベーターに乗ると一回を押し、壁に背中を預ける。エレベーターの中は空調が効いているのでとても温かい。
エレベーターを出て、エントランスを抜け、自動ドアを抜けた先には強い風と切り裂くような冷たさが僕達を待っていた。
「寒い……」
「寒いけど……そんなに?」
口元が隠れるようにマフラーをまき直す。
「完全防備だね」
「完全ならフルフェイスのマスクをしたい」
「それはちょっと……」
温かいのに。
ちょうど風は僕達に向かっている。ビュゥと吹き付け、僕の髪をなびかせ、体温を奪っていく。
今日も一日この寒さと戦うのか。
げんなりしつつ、学校へと続く道を歩いた。