第91話 それは彼女の話
白い壁、白い廊下、白いベッドに白い服。そして、小さく切り取られた、手の届くことはない色鮮やかな世界。
それがアイツの全てだった。
アタシの日課は、放課後にアイツのお見舞いに行くことだった。
ホームルームが終わるとすぐに荷物をランドセルに詰め込み、友達の誘いを全て断わってアイツのところへと向かった。学校を出て自転車に乗り、駅に着いたら電車に乗り二駅、降りたら丘の上に見える大きな建物まで全力疾走、自動ドアをくぐり、受付を済ませてエレベーターで五階へ。降りて直ぐ右に曲がって五つ目の部屋のドアをノック。返事を待たずにドアを開けて中に入った。
ベッドの上にいたアイツは今日も外を見ていた。窓の外から流れ込んで来る風が、アイツの綺麗な黒髪を揺らす。腰のあたりまで届きそうなそれを見て、そういえば最近髪を切ってなかったなと思い出す。
「あ、お姉ちゃん」
アイツが振り返る。アタシに似た優しげな顔に、アタシに似ても似つかない小さな体。笑顔でアタシを呼ぶ彼女にアタシも笑顔で返す。
「よう、渚。調子はどうだ?」
彼女の名前は水無瀬渚。アタシの二つ違いのかわいい妹だ。
アタシは放課後、毎日ここにきて今日会ったことを話していた。渚はいつもいろいろ表情をしてアタシの話に耳を傾けた。
いつからだっただろう。渚がここにいるようになったのは。小さい頃は渚もアタシと同じ幼稚園に通っていた。それがいつの頃からか、どこにも通うことなく、このベッドの上で一日を過ごすようになっていた。
……いつからだろう、なんて白々しい。本当は知ってるくせに。だってあの日あの時、アタシは渚が倒れるところを見てしまったのだから。アタシはただそれを思い出したくないだけなんだ。何も出来ず立ち尽くし、渚を見下ろしていただけのあの時の自分が、殴りたくなるほどに嫌いだから。
渚は病気だった。病名は知らない。いや、聞いていたけど覚えていない。小さかったアタシには理解ができなかった。ただ、治療ができない病気だということだけは知っていた。それだけで充分だった。だって病名を知ったところで、アタシには何も出来ない。絶望するしかなかった。
渚には笑っていて欲しかった。だからアタシは渚の前ではいつも笑っていた。泣きそうになったら自分の顔を殴ってでも笑った。おかげで渚はいつもアタシの前では笑っていた。そう見えていた。
『お姉ちゃん。学校は楽しい?』
ある日。渚がアタシにそう言った。アタシは散々迷った挙げ句、楽しいと答えた。答えてすぐ後悔した。間違ったかも知れない、と。
渚は学校に通えない。それなのに楽しいと答えて良かったのか?
その日からしばらく、アタシはそのことばかり考えた。
そしてあの日がやってくる。
『お姉ちゃん。もう私のところに来なくて良いよ』
突然の渚からの拒絶だった。すぐに何故だとたずねた。
『毎日来られて迷惑』
『私は外に出られないのに外の話ばかりされてうんざり』
『健康なお姉ちゃんを見ているとイライラする』
『お母さんとお父さんがきてくれればそれでいい。お姉ちゃんは五月蠅いから嫌い』
『もう来ないで』
たぶんそんなことを渚に言われたと思う。思う、というのははっきりと覚えていないからだ。アタシと渚は仲の良い姉妹だった。喧嘩なんてしたことがなかった。だから、嫌われていたなんて思ってもいなかった。
そして初めての大喧嘩。売り言葉に買い言葉で、お互い一歩も引かずヒートアップ。お互いの髪を引っ張り合いながら罵倒し続け、やってきた看護師に止められるまで喧嘩は続いた。
『こんなところ二度と来るか!』
そう吐き捨てて、アタシは二度と渚のところへは行かなくなった。
数日後。渚は静かに息を引き取った。
行事が全て済み、落ち着いた頃だったと思う。部屋に引きこもっていたアタシのところにきた奈菜が、一枚の封筒を持ってきた。
『渚から預かっていたの』
中には便箋が三枚入っていた。汚い字で、ところどころ読めない文字もあるそれは、でもたしかに渚が書いたものだった。
手紙は「ごめんなさい」から始まっていた。
『ごめんなさい』
『お姉ちゃんが、学校の友達のお誘いを全て断わっていると、奈菜さんから聞きました』
『私のことより、自分のことを大切にして下さい』
『あの時の言葉は全て嘘です』
『お姉ちゃんを嫌いだなんて思ったことないし、お姉ちゃんのお話を聞くのは楽しかったです』
『友達を大事にして下さい』
『大好きだよ。お姉ちゃん』