第1話 妹は心配性 ◆
季節は夏の8月10日。時刻はまだ太陽が天高く輝く16時。僕は駅前のバスターミナルに立ち、額から滲み出る汗をハンカチでおさえながら空を見上げていた。
「あづい……」
遠くに見えるビルの屋上に大きな電光掲示板を見つけた。眩しさに細めた目をさらに細くして見ると、そこには37度という数値が刻まれていた。
「……ぢぬ」
真夏に相応しい問答無用の猛暑日だ。のろのろとした動きでハンドバッグから携帯電話を取り出してインターネットに繋ぐ。表示されたメニューから『今日の天気予報』をクリックする。今日の天気、曇り時々雨 降水確率30パーセント。今日は全国的に曇り、だそうだ。
「うーん……」
携帯電話を仕舞いながらもう一度空を見上げる。
「騙された」
ぽつりと愚痴を零す。空は雲ひとつない日本晴れ。風もほとんど吹いていない。ジッと立っているだけで肌に突き刺さるような直射日光と、アスファルト舗装された地面からの照り返し熱で、汗がプツプツと噴き出してくる。
天気予報を信じたばかりに今日は日傘なんて持ってきていない。昨日見たテレビでは、天気予報が当たる確率は年々上がっていると言ってたのに、昨日の今日で早くも裏切られるとは……。
「やっぱりこの時期は折りたたみの傘を常備するべきなのかな……?」
とは言うものの、『折りたたみ』でも傘は傘。結構な大きさだ。手持ちのハンドバッグに入れると場所を大きく取られるし、なにより重い。出かける際は手持ちの荷物を極力なくしたい僕としては遠慮したいところだ。
右手にぶら下げた必要最低限の物だけ詰めたハンドバッグに目を向けた。
『楓は肌が弱いのだから、ちゃんと傘は持っていきなさいよ』
数時間前に別れた友人の奈菜に言われた言葉を思い出す。あの時、奈菜の見透かしたような、突き刺すような視線に、僕は目をそらしながら「うん」と頷いたけど、ご覧の通りバッグの中には傘なんて入っていない。おかげでこの有様だ。
『まったくあなたは……。少しは自分のことを理解しなさい』
奈菜の小さいながらも力のこもった怒声が聞こえたような気がした。それは幻聴に違いないけど、きっとこの現状を伝えると寸分違わぬ言葉を告げられる自信がある。
「……日傘、持っとこう」
すこーしだけ寒気を感じて、そう心に決めた。……ま、まあ、遥からもらった日傘ならそんなに重くないし、きっと邪魔にならないはず。
奈菜同様に中学の頃からの友人である遥からもらったその日傘は、以前誕生日プレゼントとしてもらった物で、見た目はちょっと骨組みが太く、取っ手部分が曲がってないだけの普通の日傘なのに、傘をたたむと布部分が奥に収まって竹刀のように使える特殊な構造のものだ。遥が言うには、中軸や骨組にガラス繊維の入った強化プラスチックを使っていて軽いのに硬い優れもの(?)なのだとか。もちろんそんな変な傘が一般に販売されているはずもなく、オーダーメイド品らしい。高価なものだろうと思い、いくらしたのか聞いてみたけど、遥は教えてくれなかった。
もらったときは「傘を竹刀に、だなんてそんな子供じゃあるまいし……」と困惑したものだけど、既に傘以外の用途で二、三回どころじゃなく使用しているので、今じゃなんとも言えない。
『二つの意味で護身用ってことで。楓は体弱いんだから、どうせ使うならアタシの傘を使いなよ』
残念。あの日傘は昨日引っ越しトラックに積んでしまって、もう椿の元に届いてる頃だ。僕の手元に日傘なんてない。とは言え、それが失敗だった。
「……日焼け止め塗っておいて正解だったな」
その証拠とばかりに、露出した腕を見ると、常人より白い(らしい)肌の色が少し赤みがかっていた。かなりきつめの日焼け止めを塗っておいたはずなのにこれだ。以前日焼け止めを塗らず小一時間ほど外に出ただけで、その夜に高熱で寝込んだことがあるけど、あれはもう御免被りたい。
自分の体が人よりも病弱だということは理解しているつもりだけど、どこまでがセーフでどこからがアウトなのかという線引きが未だに出来ていない。きっと奈菜や遥の方が僕以上に分かっている。だから二人とも僕のことを気にかけてくれるのだろうけど。
そんなことを考えている間にも太陽はその日差しを容赦なく僕に突き刺していた。とにかく今は日陰に入ることが先決だ。肌のことも問題だけど、このまま日に当たっていては日射病で倒れてしまいそうだ。本当に今日は体調が良くて助かった。これで体調が芳しくなかったら間違いなく倒れている。
……涼しくなるまでは出歩かずに家の中でごろごろしよう。
そうこれから数週間の過ごし方を決めて、数百メートル先に見えるバス停まで早足で向かった。
◇◆◇◆
「ふぅ……」
バス停のベンチに座りながら一息吐き、 バッグから取り出した手鏡で自分の顔を映した。
あーぁ……。
お風呂上りのように頬が赤くなっていた。これは今日の夜は濡れタオル必須かもしれない。そう他人事のように考える。
ふと、僕は腕を伸ばして、携帯するには大きめな手鏡で出来る限り全身を映す。そこにはベンチに座ってこちらを見る、白いワンピースを着た女の子がいた。腰の辺りまであるストレートロングの黒い髪と、小さな顔に大きな目。白い肌に華奢な体。そして少しだけ自己主張する胸。
表情というものを僅かに浮かべて僕を見返す、この女の子が僕。六年前にこの体になってから見慣れた、今の僕の姿だ。
その姿はたまに中学生と間違われるほどの小柄で未だ発展途上。とくに身長に至っては予想を大きく下回り伸び悩んでいる。バレーボール選手のように、とはいかないまでも、せめて高校生に見られるくらいにはなりたかった。高校に入学して1年と数ヶ月。一番の悩みは変わらずこれだ。
はあ……と大きなため息をついてから、頭を数回振った。今は身長のことを悩んでる場合じゃなかった。手鏡をバッグに戻してから腕時計で今の時間を確認し、バス停の時刻表を見た。
「えーっと…」
時刻表に人差し指を当てて、なぞっていく。ちょうどよかった。あと5分ほどで目的地を経由するバスがくるみたいだ。
ベンチに座りなおすと同時にバッグから電子音が流れた。音楽からかかってきた相手を特定しつつ、二つ折りの携帯電話を開く。予想通り、画面には僕の一つ下の妹の『四条椿』の名前が表示されていた。左隅のボタンを押して携帯電話を耳にあてると、聞き慣れた声が耳に届いた。
『もしもしー。お姉ちゃんだよね?』
「なんで疑問形……携帯なんだから僕しか出ないって」
『かけ間違いってこともあるでしょ?』
「だったらもう少し誰が出てもいいように丁寧に……まあいいや。で、何の用?」
だいたい予想はつくけど、一応聞いてみる。
『本当に迎えに行かなくて平気?』
「またそれか……」
昨日あれだけ『迎えは不要』と僕が突っぱねたことでけりがついたはずの話題を蒸し返す椿。ちょっとしつこい。
「ちゃんと地図もあるし、携帯のナビもあるから大丈夫だって昨日も言ったよね?」
『だってお姉ちゃん方向音痴だから心配で……』
「うっ……」
痛いところをつかれて返す言葉がない。って、これは昨日と同じ流れじゃないか。
「え、駅からバス乗って、降りて5分なんだよね? それくらいじゃさすがの僕も迷わないよ」
『うーん、そうかなあ…』
「そうそう」
正直100パーセントの自信はないけど、椿を納得させるには嘘も必要だ。
『でも……』
「姉の僕を少しは信じなさいっての」
ほんの少しだけ言葉に力を込めた。あまり聞かない僕の声色に椿は押し黙り、少し間を開けてから渋々といった様子で了承した。
『……わかった。けど、もし迷って道が分からなくなったら電話して。すぐに迎えに行くから』
「りょーかい」
「その必要はない」という言葉を飲み込んでそう返事すると、椿は安心したのか二言三言話してから『ばいばい』と言って電話を切った。
「妹に迷子にならないかと心配される姉、か」
まったく姉としての威厳の欠片もない。これからは身長以上にこっちのほうが大きな悩みになりそうだ。
そのまましばらく考えていると目的のバスが到着したらしく、空気の抜けるような音とともにバス後方のドアが開いた。ベンチから立ち上がりつつドア横に表示された経由地を確認し、整理券を受け取って乗り込む。
バスには数人乗っているだけでガラガラだった。僕は運転席から2つ目の窓側に座る。僕が座るとほぼ同時にドアが閉まり、バスは動き出した。
流れる町並みを眺めていて、ふと窓ガラスにうっすらと映る人の顔に気付いた。
「椿に会うのは何年ぶりだろ。楽しみだね、柊」
語りかけたその顔が嬉しそうに笑っているように見えた。
イラストはねこのしろさんに描いて頂きました。