眠るたびに帰る街
最初にその世界へ行った夜のことを、私は今でもはっきり覚えている。
仕事で疲れ果て、ベッドに倒れ込むように眠ったはずだった。
目を開けると、そこは見知らぬ石畳の広場だった。
空には二つの月。風に揺れる街灯は青白く光り、まるで夢の中の景色のようだった。
「ようこそ」
不意に声が聞こえた。
辺りを見回しても誰もいない。
「ここです。あなたのすぐ隣ですよ」
やはり姿は見えない。
「私は案内人。この街を案内する役目です」
少し怖かったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
私は案内人に連れられて街を歩いた。
通りには長い耳を持つエルフたちが果物を売り、狼の耳を持つ獣人たちが屋台で肉を焼いている。
角の生えた魔人は鍛冶屋で剣を打ち、人間の子供たちは噴水の周りを走り回っていた。
種族は違っても、みな当たり前のように暮らしている。
「ここはどこなんですか?」
「あなた方の世界では異世界と呼ぶのでしょうね」
案内人は楽しそうに答えた。
私は夢だと思った。
だから遠慮なく歩き回った。
その時だった。
ふと手を前に出すと、青い光が指先からこぼれた。
驚いていると案内人が言った。
「この世界では眠る者に魔法が宿ります」
試しに念じると、小さな光の鳥が生まれた。
鳥は空を一周して消えていく。
胸が高鳴った。
子供の頃に夢見た魔法が、本当に使えたのだ。
その夜は街を見て回るだけで終わった。
そして宿で眠った。
次に目を開けると、自分の部屋だった。
朝日が差し込み、スマートフォンのアラームが鳴っている。
夢だったのかと思った。
だが翌晩、眠ると再びあの街に立っていた。
案内人の声が聞こえる。
「お帰りなさい」
それから私の生活は二つになった。
昼は現実世界。
仕事をして、買い物をして、テレビを見て過ごす。
夜に眠ると異世界へ行く。
そこで魔法を学び、人々と交流した。
エルフの薬師から薬草を教わった。
獣人のパン屋では焼き立てのパンをご馳走になった。
無口な魔人の鍛冶師とは、何度も将棋のような遊びをした。
最初は夢だと思っていたが、彼らには昨日の記憶がある。
私が来ない夜を心配されることもあった。
まるで本当に生きている人々だった。
魔法も少しずつ上達した。
火を灯し、水を生み、風に乗って短い距離を飛べるようになった。
だが不思議なことに、異世界で眠ると必ず現実世界で目覚める。
そして現実で眠ると異世界へ戻る。
二つの世界は眠りによって繋がっていた。
そんな生活が一ヶ月続いた。
私は昼間の仕事中でさえ、異世界のことを考えるようになっていた。
現実の生活が嫌だったわけではない。
だが異世界には、自分が必要とされている感覚があった。
魔法を使える喜びもあった。
そして何より、友人がいた。
一ヶ月目の夜。
案内人が私を街外れの丘へ連れて行った。
二つの月が並んで浮かんでいる。
静かな夜だった。
「約束の日です」
案内人が言った。
「約束?」
「あなたは一ヶ月、この街で過ごしました。選択の資格を得たのです」
私は黙って続きを待った。
「あなたはどちらの世界で生きますか?」
風が吹いた。
草原が波のように揺れる。
「現実の世界に残るなら、今夜が最後です。明日からはこの街へ来られません」
胸が締め付けられた。
「逆にこちらを選べば、現実世界では二度と目覚めません」
私は空を見上げた。
二つの月。
その下には、出会った人々の暮らす街。
一方で、現実世界には家族がいて、積み重ねてきた人生がある。
どちらも本物だった。
「案内人は、どちらを選んだ方がいいと思いますか?」
そう尋ねると、初めて案内人は少し困ったように笑った気配を見せた。
「私は案内人です。道は示せますが、選ぶことはできません」
遠くで街の鐘が鳴る。
静かな夜だった。
「時間です」
案内人が言う。
私は目を閉じた。
二つの世界。
二つの人生。
どちらも失いたくないと願いながら。
そして最後に聞こえたのは、姿の見えない案内人の優しい声だった。
「さあ、あなたはどちらへ帰りますか?」
その問いに答える前に、私の意識はゆっくりと闇の中へ沈んでいった。




