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九枚目 忘れ物

昼下がりのサウナ。

ジュワァァ……とロウリュの音が静かに響く。

紅はストーブの前でタオルを整えていた。

受付では葵がロッカーの鍵を並べている。

 

「紅さん」

 

「なんだ」

 

「忘れ物って結構ありますね」

 

葵は箱を持ち上げる。

 

タオル。

サウナハット。

腕時計。

 

「整うと人って色々忘れるんですね」

 

紅は言う。

 

「余計なものを忘れる場所だからな」

 

葵は少し考えた。

 

「じゃあテストの点数とかも忘れられます?」

 

「それは無理だ」

 

葵は「ですよね」とうなずいた。

 

そのとき。

 

カラン。

 

入口のベルが鳴る。

 

葵が顔を上げた。

 

入ってきたのは一人の老人だった。

 

白いサウナハット。

少し曲がった背中。


この前の全身白の老人。


白蝶。

 

前回と違い歩き方は妙に落ち着いていた。

 

葵が言う。

 

「いらっしゃいませ」

 

老人は受付の前で止まった。

 

そして静かに言う。

 

「ここに忘れ物はないか」

 

葵は箱を見る。

 

「どんな物ですか?」

 

老人は少し間を置いた。

 

「……ナイフだ」

 

葵の手がほんの少し止まる。

 

紅も静かに視線を向けた。

 

葵は箱の中を探す。

 

そして。

 

箱の底から一本のナイフを取り出した。

 

黒い鞘の古いナイフ。

 

葵はそれを見つめる。

 

ほんの一瞬だけ表情が止まる。

 

だがすぐにいつもの顔に戻った。

 

「……これですか?」

 

老人の目が細くなる。

 

「それだ」

 

葵はナイフをカウンターに置いた。

 

老人はそれを手に取る。

 

鞘を指でなぞる。

 

しばらく沈黙。

 

そして小さく言った。

 

「懐かしいな」

 

葵は何気なく聞く。

 

「大事な物なんですか?」

 

老人は少しだけ笑った。

 

「昔の知り合いの物だ」

 

「ここで預けていった」

 

葵は首をかしげる。

 

「忘れ物じゃないんですか?」

 

老人は答える。

 

「……そうだな」

 

「忘れ物じゃない」

 

「置いていった物だ」

 

そのとき。

 

紅がゆっくり近づく。

 

老人と目が合う。

 

ほんの短い沈黙。

 

老人が言う。

 

「腕を上げたな」

 

紅は短く答える。

 

「あなたほどじゃない」

 

葵は二人を見て首をかしげた。

 

「知り合いですか?」

 

紅は答えない。

 

老人も何も言わない。

 

代わりに老人が葵を見る。

 

少しだけ優しい目だった。

 

「いい店だ」

 

「落ち着く」

 

葵は笑う。

 

「ありがとうございます」

 

白蝶はナイフを懐にしまう。

 

そして出口へ向かった。

 

カラン。

 

ベルの音。

 

扉が閉まる。

 

静かな午後が戻った。

 

葵は少し考えてから言う。

 

「紅さん」

 

「なんだ」

 

「さっきのおじいちゃん」

 

「なんか……」

 

少し言葉を探してから続ける。

 

「懐かしそうでしたね」

 

紅はロウリュの水をストーブにかける。

 

ジュワァァ……

 

蒸気がゆっくり広がる。

 

紅は短く言った。

 

「そうかもな」

 

葵は忘れ物の箱を閉じる。

 

そして小さくつぶやく。

 

「サウナって」

 

「たまに、懐かしさも連れてくるんですね」

 

蒸気が静かにサウナ室へ広がっていった。

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