第六話 生誕の日
家までどうやって帰ったのかもあまり覚えていないまま、玄関へ入るなりクリスティンはその場に崩れ落ちる。
そして、電気をつけることも無く、一人しかいない広い部屋の中で声を上げて、子供のように泣きじゃくり続けた。
ノアが浮気をしていたこと。
その相手が、親友のカミラだったこと。
圧倒的に自分には不利な状況であること……もう、ノアは二度と自分のことを愛してはくれないかもしれないこと。
あらゆることが胸に押し寄せて、痛みで体が膨らんでいくような気すらした。
また連絡するとは言っていた。
それに、クリスティンは縋るしかなかった。またとはいつなのか、どのくらい待てばノアは自分のもとへ帰ってくるのか。
本当に、戻ってくるのか。
「……っ、ふ、ぅ……ノア、ノ、ノア……なんで……っ!」
玄関から這うようにしてリビングにまで進み、テーブルへ突っ伏してまた涙を流す。
一体何がだめだったのか。
どうしてこうなってしまったのか。
少なくとも、四日前では幸せなはずだった。
確かに、幸せだったのだ。
失ったぬくもりを示唆するように肩が、体が、ガタガタと震える。
もちろん寒さからでは無い。いまのクリスティンの姿は、残酷な現実と寂寥とを同時に突きつけられた痛々しいものだった。
彼女の華奢で小さな体では、とてもすべてを受け入れることなどできるはずもない。
あまりにも惨い仕打ちだった。
しばらくそうしてテーブルへ突っ伏して、いつの間にか泣き疲れて眠っていたらしい。
どのくらい眠っていたのか。セルフォンには、メールの通知のみが示されていた。
時刻は二三時。
知らず知らずのうちに、時間ばかりが過ぎていた。
無理もない。
信じていた恋人に眼の前で浮気され、しばらく家に帰らないとまで言われたのだ。
泣き疲れてボロボロの顔を洗い、再びリビングへ戻りセルフォンに届いていたメールを確認する。
カミラからだった。
クリスティンは思わず身構える。
ノアに次いで、今一番目にしたくない名前だった。
メールを開くと、そこには意外なことが打ち込まれていた。
この間のディナーのことや軽い雑談を挟んだ後に続く言葉。
『今日はデトロイト市クイーンズのパーティーに行ったよ! すっごく楽しかった! 最近資格試験に受かってからなーんにもいいこと無くてヘコんでたんだけどさ、こっち戻ってからクリス達に会って、元気になれたんだ。恋人もできたんだけどね、紹介はまだダメらしいんだ。いつか、クリスに一番に紹介したいな!』
文面を見て、クリスティンはしたたかに頭を殴打されたような衝撃に見舞われた。
カミラは、何も知らない。
ノアの恋人が自分だと知らないまま、ノアと付き合っているのだ。
ノアはもちろん、自分にとって都合の悪い事実は一つも教えていないのだろう。
つまり、カミラには全く落ち度が無い計算になる。
何も知らず、フリーだと思い込まされたままノアと付き合っているカミラを、クリスティンはとてもではないが、責めることはできなかった。
責めるべきはノアで、けれど彼はもはや自分に見向きもしない。
カミラを責めることすらできない。
クリスティンは懊悩に転々とした。
諦めてしまえたのなら、どんなにか楽だっただろう。諦められるはずがなかった。
諦められるはずが、無かったのだ。
一方的に蔑ろに扱われて、理由も、別れの言葉すらも曖昧に流された中で、諦念なんて浮かぶはずもなかった。
ノアもカミラも許せない。
しかし、憎むことはできない。
ノアに会いたいという想いだけが、クリスティンの体の中で膨らんでいく。
ノアとカミラが笑い合っている姿を想像するだけで、嘔吐感がこみ上げてくる。
二人を会わせたくない。お願いだから、会わないで……。
涙を流しながら胸中で叫んだ言葉に、不意にクリスティンは目を見開く。
自身の懊悩から光を、活路を得たらしい。
泣いてボロボロの顔はそのままに、視線だけは遠くを向いたまま、酷く幼い顔で万次郎は笑う。
「そっか、ノアとカミラを……会わせなきゃいいんだ」
時計の短針と長針が頂点に重なる。日付が変わった。
ノアとクリスティンが出会って三年目の記念日だった土曜日は、二人の関係と共に終わり、クリスティンのサイコパスとしての新たな一日が日曜日と共に始まった。
────
「あれ、スー。もう帰るの?」
フィッツジェラルド刑務所内にある精神病棟。
かなり大型の附属病院の関係者出入り口で夜勤明けのスー・ヒューストンは、ケリー・コーンウェルに声を掛けられた。
「おはよう、ケリーちゃん。私、夜勤明けだから」
スーは相当眠いらしく、ブルーライトカット眼鏡越しの可愛らしい笑顔にも疲れが滲んでいる。
まだ仕事中らしいケリーは、そんなスーの様子に歩み寄る。
「スー、一緒に朝食でもどう? 夜勤ってことは、食事もそう摂ってないんでしょ」
「えっと……うーん、でも……」
「なんならアンタの犬も呼ぶしさ。どうせこのままジェラルド内のコーヒーショップでモーニング食べて帰るなら、アタシも朝食まだだから一緒に行こうよ」
「い、犬なんて……」
「犬みたいなモンでしょうが」
困ったような笑顔を浮かべたまま歩を進めるスーも、とうとうパーキングまで着いてきたケリーに根負けすると、掛けたまま忘れ去っていた眼鏡を外し、鞄の中へ収めてからケリーの手の中へ鍵を落とす。
「それじゃあ、運転をお願いしても良い?」
フィッツジェラルド区内を抜け、すぐ隣のジェラルドの車道へ入り、ケリーがよく利用しているコーヒーショップへと車を乗り入れる。
ケリーは、運転は上手いもののそれが仇となって運転中に書類関係を片手間に片付けるという荒業をやってのけた。
ケリーにとってはいつもどおりの日常の一コマであったものの、それを目にしたスーは度肝を抜かれた。
いつ事故にあってもおかしくない状態なのだからそれも道理である。彼女の恋人であるエドワード・ヘイル・フーは隣にスーを乗せている限りは、宝物でも乗せているかのように扱うため、こんな危険な運転をされた経験すら無かったのだ。
「うそ、嘘でしょ……! ちょっと、運転……! 運転に集中してってば! 危ないでしょ! 死んじゃう!」
「大丈夫大丈夫。もう着いたでしょ」
危険運転もそこそこに、無事コーヒーショップへ到着した二人は入ってすぐのパーキング出入り口で不可解な車と遭遇した。
出庫側のバーにフロントガラスが直撃したままバッテリーが上がってしまっているらしい。
早朝のため、未だ利用客の往来は無い。
「ちょっと、なに? 誰か乗ってる……? 乗り捨て、では無いみたい」
特別示し合わせたわけではないにも関わらず、二人はほとんど同じタイミングでシートベルトを外し、車を降りると出庫側の車へと駆け寄った。
ケリーがスーの方へと一瞥を向ける。それを受け取ったスーは、ケリーよりも先に車の中を覗き込んだ。
事件の可能性はあるのか? そういう意味だったのだろう。
交通課のケリーよりも解剖医の心得があるスーのほうが僅かに分がある。ケリーは大人しく上司の背中を見守った。
スーは窓を覗いて、数秒もせずに顔を上げるとケリーへ向き直る。
「ケリーちゃん、管轄のデトロイト分署に連絡して、二名共に死んでるわ」
通報から一〇分足らずでデトロイト分署のノアとイニャーツィオコンビが駆けつけた。日曜日の早朝ということもあって道が空いていたためだろう。
二人はケリーとスーの姿を見て驚愕する。
「お前等が第一発見者かよ」
「アンタ等がデトロイト分署のルーキーコンビね、優秀な方の美人の相方は今日も聡明そうじゃん?」
顔を突き合わせるなり突っかかるイニャーツィオとケリーを後目に、ノアは遺体の傍に座り込んでいたスーの方へ歩み寄る。
「カップルが被害者か。……死因は銃殺か?」
男女揃って横たわっている遺体を見つめながら、スーがノアの問いに口を開く。




