第五話 真実に触れる時
昨夜帰ってきてから日付が土曜日へと変わり、それから朝のニュース番組が始まる時間まで、クリスティンは一睡もできなかった。
相変わらず、ノアからの連絡は無い。
クリスティンからメールを送っても、電話をしても反応の一つだって返ってこなかった。
寝室からはルームウェアが無くなっていて、おまけにチェストやクローゼットの中に入っていたノアの服もごっそり無くなっている。
しかし、ランドリーシュートに洗濯物は一つも入っていない。
仕事のために着替えを持って行っているのなら必ず洗濯物は出るはずだ。少なくとも、以前はそうだった。
ノアが連続殺人事件の捜査で市中を駆け回っていたとき、大量の洗濯物を持ち帰って来たことに辟易としながらも、彼のワイシャツについた血液に青褪め、泣きながらノアを抱き締めたことだってクリスティンは昨日のことのように思い出せる。
そこまで思い起こして、クリスティンは首を横に振った。
思い出だなんて言いたくなかった。
ノアと別れたわけでもないのに、どうしてこれほどまでに距離を感じてしまうのか。
思えば三日前からだった。
ノアは三日前から急にクリスティンを避けるようになった。
会話を持ったとしても、ほんの二言三言が限界だった。言葉が途切れるとすぐにどこかへ行ってしまう。三日前まではクリスティンを愛してやまなかったはずのノアが、今では一瞥もくれない。
三日前に一体何が起きたのか。
クリスティンは、自分に非が無かったのか三日前からずっと、堂々巡りの思考を繰り返している。
そして、その度に苦しみ巡っているのだった。
最後にまともな会話をしたあの交流会でのことを、クリスティンは何度も思い返している。
しかし、どうしてもノアに嫌われる要因が、クリスティンには思い至らなかった。
デジタル時計が、平日のクリスティンの出勤時間を示している。
最近のノアは、朝のこの時間を狙ったようにして帰って来ていた。
もしかしたら今日も帰ってきて、会話する時間が取れるかもしれない。期待と不安に胸が押しつぶされそうになりながら、クリスティンはノアの帰宅を待つ。
それから一時間が経過しただろうか。急にセルフォンが鳴る。イニャーツィオからのメールだった。
そこに書かれていた内容に、クリスティンは昨日彼から貰っていたチケットとバイクの鍵を掴み、家を飛び出した。
『警備に当たってるヤツから、ノアがツレと一緒にパーティーに参加してるって聞いた。仲直りしたなら言えよな。後で顔出すから、ノアにも言っとけよ』
イニャーツィオは仕事をしていたため、ノアとその”ツレ”の姿は確認していない。
そのため、ノアの連れている相手をクリスティンだと思ってメールしてきたのだろう。
当然のことだ。
ノアの恋人は自分であって、他にはいない。
そのはずだ。
「ノア……誰といるの……?」
チケットを握りしめたまま、ハンドルを握る手が震える。
何もかも、わけが分からなかった。
とにかく、パーティーが開催されているらしい、第一PP庁舎前のメインストリートであるクイーンズ付近までバイクで乗り込めるところまで向かい、専用パーキングとは名ばかりの道路の真ん中へとバイクを停めると、そばにいた眠そうな顔をしている、横に大きな警備担当の男性警察官へと声を掛ける。
「フッカー刑事の知り合いなんだけど、どこにいるか分かりますか?」
イニャーツィオの紹介でチケットを手に入れたのは正解だったらしい。
ノアの相棒のイニャーツィオのサインが入ったゲスト用チケットを持っているおかげで、ノアの所在を聞いても疑われずに済んだらしい。
警察官は指で「アレ、あそこにいるだろ、時計台のとこ」と教えてくれた。
金髪で顎のところに深い傷痕の残る青年だった。見た目は怖いが、軽く屈んでクリスティンと目を合わせてくれる、優しいところがある男性だった。
軽く礼を言って、クリスティンはその時計台の下まで急ぐ。
デトロイト市の中で、最も大きい時計台だった。
人混みが邪魔で進行方向が定まっているクリスティンにとっては、巨大な波のようなものだった。
迷惑そうに犇めく人間の波を掻い潜って、ようやく時計台へ到着したクリスティンは、心の準備という名の緊張を味わう間もなく、それを見てしまった。
制服姿のノアの隣にいた”ツレ”……カミラの姿を。
デトロイト一美人なキャビン・アテンダントとして有名なカミラが、タイムズ紙のカメラマンに撮られているらしく、それをノアが腰を抱き引き寄せてカメラマンから離している。
カミラの方もノアに抱き寄せられることを喜んでいるのか嬉しそうに笑って、彼の褐色の腕へと白い腕を絡ませて快活に笑っていた。
カメラマンがカミラを撮ることを諦めて去っていった後、クリスティンは二人を見て言葉を失った。
キスをしたのだ。
時計台の周りには人がそういない。
それを利用して、台の後へ隠れたつもりだったのだろう。彼らは何度も唇を重ねている。
クリスティンの位置からはそれだけでなく、ノアの手がカミラのシャツの中へ入っていくのも克明に見えてしまった。
流石に人目が多すぎたのか、カミラがノアの腕からすり抜けて特設のビュッフェ会場へと逃げていく。互いに笑っているその姿はまるで少し前の自分達を見ているようで、傍から見れば恋人の様相そのものだった。
パーティーの存在すら知らされず、チケットも渡されなかった。
挙げ句恋人は今、自分の目の前で他の人間と口づけを交わしたのだ。
押し寄せる冷酷なまでの現実に、クリスティンは突き動かされるかのようにノアの方へと歩みを寄せる。一メートルほど手前まで近づいた辺りで、向こうもクリスティンの姿に気が付く。
ノアは至極驚いた表情で万次郎を見ている。
「は……? クリス、お前、どうやって入ってきたんだ」
当惑するノアに対し、クリスティンは妙に落ち着き払っていた。心が凪いでいることが自分にも分かる。
「ナッツォがくれた。……大事な用事って、これ?」
これから修羅場を迎えるために少しでも心を諌めておこうと考えたのだろう。
しかし、クリスティンのその先見は大きく外れることになる。
「仕事なんだから仕方ねぇだろうが。ああ、そうだ。しばらく家には帰らねぇから。じゃ、また連絡する」
「は? え、ノア!?」
ほとんどまくしたてるように自分の伝えたいことだけを伝えて、ノアは呼びかけに応じることもなく、カミラが消えていった簡易ビュッフェ会場へと姿を消した。




