第三話 違和感
丁度二二時にクリスティンはカミラと別れ、自宅へと帰ってきた。
しかし、解錠し扉を開けた万次郎は再び煩悶に頭をしたたかと殴りつけられる。
真っ暗だった。電気は付いていない。
ノアが二二時に寝ることなんてまず有り得ない。暗闇の中には、人の気配も無い。
内心に痛みを抱えながら、スイッチへ指を掛け押し上げる。数度蛍光灯が瞬き、一気に室内が明るくなる。
暗闇に慣らされていたクリスティンの目に蛍光灯の光は強く、何度か瞬きをして目頭を揉み視界を慣らす。
照らし出されたリビングには、無論ノアの姿があるわけもない。
テーブルの上、寝室のベッド、サイドボード、チェスト上のコルクボード。書き置きらしきメモはどこにも残されていない。
セルフォンを開きメールの問い合わせをしても、留守番メッセージを確認してもノアからのメッセージは何も無かった。荒い息を吐き出しながらディスプレイへ映るノアの名前を選択して何度も決定ボタンを押し込み立て続けに三度、四度と電話を掛けても全く出る気配も無い。
「……ノア」
セルフォンを握りしめたまま、今までに無かった恋人の不可解な行動にクリスティンの煩悶は転々と巡り、じわじわとその心を黒い衝動に蝕ませていく。
ソファへ鞄を投げ置いたままドアを開け放していた寝室へ再度向かう。そこにはノアのルームウェアが脱ぎっぱなしにされていた。
少なくとも、今朝ここで会ってから彼がこの部屋で眠っていたことは確かだった。
惨憺たる表情を浮かべたままに何かを懸命に乞うかのような瞳でそれを見つめたクリスティンは、上下揃って脱ぎ捨てられたルームウェアの内トップを取り上げ、今にも泣きそうな表情で顔を埋めた。
ノアの香りが、何故か懐かしく感じる。たった二日、ろくに会えていないだけなのに。
クリスティンは恋人のルームウェアに顔を埋めたまま、チェストボードの前へ行き、それと同時にセルフォンのディスプレイへイニャーツィオの番号を呼び出す。
確か、ノアは今日非番だと言っていた。突如呼び出しを掛けられたのなら、ツーマンセルで常に一緒に勤務している彼も共に署へいるはずだと考えたからだった。
事実を、探ろうと思ったのだ。
発信ボタンを押す指が震える。
もし、ナッツォが休暇のままだったら……そこまで考えて、クリスティンはその先の考えを巡らせることをやめた。知らなければ、このまま思い悩んでこの先も苦しい夜を過ごさなければならなくなる。
それなら、自分の今できることをやってはっきりさせようと、そう決めてイニャーツィオへコールを掛ける。
コールが鳴り始めて三回目。
悲しくもイニャーツィオは恋人のノアとは違いすぐに電話へ出た。
『どうしたぁ、クリス? オレの方に連絡してくるって、珍しいな』
イニャーツィオの声に伴って聞こえてくる喧騒は、かなり騒々しい。電話の着信音がけたたましく、それも何台も聞こえてくる辺り、彼が署内で仕事中なのは明らかだった。
クリスティンは、一気に安堵の色を浮かべる。
「え、ナッツォ、今日は何か……呼び出しがあったの?」
『ああ、せっかく休みだったんだけどな。盛大に呼び出し食らったわ。ノアにはまだ会ってねぇけど、見かけたら連絡入れるように伝えるか?』
イニャーツィオがそう言ったのとほぼ同時に、クリスティンはチェストの上段からノアの服がごっそりと無くなっているのを見つける。
彼が着替えを持って職場へ行くのは何も珍しいことではない。
何日も泊まり込みで捜査をすることもあるのだ。仮眠室のベッドは硬くて寝にくいと零していたことだって、一度や二度ではなかった。それで確信を得る。ノアも呼び出しを受けて署にいると。
「ううん、ごめん、大丈夫。ノアも仕事だろうし。邪魔してごめんね」
仕事の邪魔をするようなことだけはしたくなかった。だからクリスティンはイニャーツィオの好意をあえて断った。
『おー、わかった。明日は金曜日だし、ちょっと気は早いけど良い週末過ごせよ』
そう言って電話を切ったイニャーツィオの言葉に、クリスティンは思い出したようにカレンダーへ目をやる。
今日の隣に、青く色が付けられた土曜日にはクリスティンの手によって丸印が付いている。
「……ノア、信じてるから」
決して返ってくることのない返答に、それでもクリスティンは抱きしめていたノアのルームウェアに再び顔を埋め、一人で広いベッドへと寝転んだ。
翌朝、昨日とほとんど同じタイミングでクリスティンが出勤する時間と入れ違いにノアが帰ってくる。
昨日と同様、軽く見送られて流されかけていた手前、クリスティンは寝室へ急ぐノアの袖をつかんで食い下がる。
「ノア・レーノルド・フッカー。最近夜に家空けてるけど、忙しいの?」
声色こそ遠慮がちではあるものの、その表情は明らかにノアを訝しんでいる。
浮気を疑われていると、傍から見ても分かる雰囲気に流石にノアもクリスティンに向き直る。
「何、寂しい? 埋め合わせはするから、機嫌直せよ」
「……なら、明日は……絶対」
「あ? 明日は無理。大事な用事あるから。オマエも大人なんだから分かるだろ? そんなことより早く行かねぇと遅刻すんぞ」
みなまで言う暇も無く遮られた言葉を胸中に留めたままクリスティンはさっさと寝室へ入っていくノアの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
去年も、“そう”だった。仕事が入ったからと言ってその日の予定を蹴ったように見せておきながらその晩、ノアは仕事に都合を付けて早めに帰宅し、結局はその日一緒に過ごしたのだ。
だから今年もそのつもりなのかもしれない。
仕事で忙しい彼に、去年と違ったサプライズを求めても、それは難しい相談だろう。去年と全く同じでも良い、明日という日を覚えていてくれるのなら、それだけで良かった。
クリスティンは、まるで自分を拒絶するかのように閉じられた寝室の扉を見つめてから家を出た。
たとえ、見送ってくれなくても、行ってらっしゃいのキスをしてくれなくなっても、……一度だって目を合わせてくれなくたって、それでも恋人を信じることしかできなかった。
それしか、クリスティンには残されていなかった。




