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ゴミ袋に詰めた恋  作者: 田中
第五章 真実の影

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第二一話 未来の分からぬ関係

 いまはクリスティンをどう守るか。

 イニャーツィオは刑事としての自分を完全に見失ってしまっていた。伏し目がちに気を落とすイニャーツィオに、アンディは軽く溜息を吐いて苦笑を浮かべる。


「元気が無いとは思ってましたが、その様子だと、何かありそうですね。話してみますか? オレは一応ここの署長ですし、部下の悩みは放っておけないですし」


 話してみないかとそう掛けられた言葉に、一瞬抱えていた煩悶が喉元までせり上がる。

 しかし、署長のアンディにはとてもではないが話せる内容では無い。

 何せアンディが指揮する部隊、自分を含める部下達がデトロイト分署の名を背負って探している犯人を、自分は愛して匿っているのだから。


 どうすれば犯人を守ってやれるかなど、到底上司である彼に聞けるはずが無かった。再び黙り込むイニャーツィオに、アンディは苦笑を浮かべたまま彼の手へ手を重ねる。


「ナッツォ君。では、こうしませんか? オレはいま、ナッツォ君のただの友人で、署長でも、ナッツォ君の上司でも無い。いまだけは、何の力も無くてナッツォ君のことが大切なだけのただの友人。どうですか? それでもダメですか?」


 ここへ来てようやくイニャーツィオは気が付いた。

 アンディは立場がどうあれ、本気で自分の力になろうとしてくれているのだということに。

 重ねられた手が暖かい。

 一人では到底決断のできないことを抱えていたイニャーツィオにとって、アンディの抱擁するような言葉は何よりも救いだった。

 アンディに重ねられた手を一度強く握り締めて、イニャーツィオは上司へと目を向けた。


「……アンディ、もしお前の愛する人間が殺人鬼だったら、お前はどうする?」


「……!」


 ようやくイニャーツィオが話し始めたタイミングを見計らったかのように、アンディのセルフォンが鳴る。

 イニャーツィオを一瞥してから、アンディはディスプレイを彼へ向けた。

 “ノア”の名が画面に踊っている。

 一気に不安げな表情を浮かべたイニャーツィオを見て、アンディは微笑むとセルフォンをテーブルの上へ置き、唇へ人差し指を当ててからスピーカーをオンにして受話する。


「ノア君、どうしました?」


『署に戻んの夜になっても良いか? やることが多くて戻れねぇ』


 スピーカーにしているため、圭介にもイザナの声が聞こえている。

 アンディは何でもない体で返答する。


「たまには忙しいのも良いんじゃないですか? 恋人とベッドの上でプロレスばかりしているノア君より、仕事しているノア君の方がオレは好きですよ」


『……な、ばっかりじゃねぇよ! そんなことより鑑識許可! モノごと直接センターに行きてぇから、そっちから申請出してもらって良いか?』


 ノアの口から出てきた“モノ”という単語に、イニャーツィオは当惑を隠せない。

 おそらく、昨日言ってきた“クリスティンの家から見つかった”凶器の水圧カッターとマチューテの二つで間違い無いだろう。

 自身で鑑識へ赴き、指紋を採取して捜査に乗り出そうとしているのかもしれない。

 しかし、それではノア自身のクリスティンとの関係が、現在の恋人であるカミラにまで知られてしまう。

 ノアもこのまま確実に捜査へ乗り出すことはできないだろう。


 だからこそ、指紋からクリスティンを特定して早々に逮捕へ踏み切り、そしてノア自ら取り調べを行い、そこで事実関係の改竄を目論むつもりなのだろう。


 ノアはいま現在、クリスティンがイニャーツィオのことを愛していることを知らない。未だ自身へ未練を残していると思っているのだ。

 クリスティンがノアに捕まってしまえば、彼はもう二度と本当の意味で救われることが無くなってしまう。

 緊張した面持ちのまま、セルフォンの通話時間を見つめるイニャーツィオを尻目に、アンディは淡々と答えた。


「ダメだって前も言いましたよ。鑑識許可が欲しいなら、“モノ”のリストをこちらへ提出してください。それから、オレのサインが必要なことも言いましたよ。ファックスではダメですから必要なら今すぐ戻ってきてください。ファックばかりしているから忘れるんですよ」


 そう言い切ると、アンディはノアの返答を待たずに通話を切ってしまう。

 とりあえず、今すぐにノアが鑑識へモノを回せなくなったことにイニャーツィオは安堵する。

 この調子なら、ノアは自分とクリスティンのことを恋人にバレても構わないと腹をくくらない限り、アンディへ鑑識の申請は出せないだろう。

 とは言え完全に助かったわけではない。


 ノアのやり方の一つが消えただけであって彼が未だクリスティンを容疑にかけようとしている事実は変わらないのだ。

 テーブルの上へ乗せていたセルフォンをスーツのポケットへ仕舞うとアンディはイニャーツィオへ微笑みかける。


「愛する人がもし殺人犯だったら……オレなら必死に匿って、何があっても後悔しないように恋人に寄り添いたいと思うかもしれません。まあオレの愛する人は姉さんしかいないんですが」


「……そうか」


 先ほどのイニャーツィオの質問に、多少のラグはありつつも応える。

 アンディの答えはいま現在、イニャーツィオがクリスティンへ施していることと同じだった。

 しかし、彼は「でも」と続きを口にする。


「そのままだと本当の意味でこの先大切な人を助けることはできないと思います。だから、オレは警察として一人の刑事として大切な人を捕まえます。

 他の誰かに捕まるくらいなら、弟のオレが逮捕して担当について、それこそ死に物狂いで姉さんを助ける方法を探し出すと思います。ちゃんとした表舞台で戦って姉さんを救いたい。……それがオレは本当の愛だと……思います。ナッツォ君はそうじゃないですか?」


 アンディの言葉に、イニャーツィオは俯く。

 全く同じだった。アンディが本当の愛だと思うことが、イニャーツィオが今まで散々拒絶してきた、クリスティンを救うための方法と同じだったのだ。


 何度何回繰り返してもそれにしか辿り着かなかった答えは間違ってなかった。

 常に勝気である榛色の瞳から涙が零れ落ち、頬を伝っていく。

 もう本当に、それでしかクリスティンを救うことはできないのかと。

 離れたくなかった。せっかく通じた想いが崩れ去ることへの恐怖に、イニャーツィオは怯えていた。涙を零し、唇を嚙み締めて泣く部下の姿を見てアンディは優しい笑みのまま、イニャーツィオの眦へハンカチを当てる。


「そんな顔、ナッツォ君には似合いませんよ。どうしたんですか?」


「……オレは、……っ」


 そこから先が続かない。

 でも、アンディには十分伝わっていた。

 あのイニャーツィオが泣くほどのことだ。よほど窮余にさいなまれた状態での決断なのだろうと。

 次々零れ落ちる涙をハンカチに吸わせながら、アンディはゆっくりと言い聞かせるように話す。


「イニャーツィオ・カザマ君、愛する人を助けたいなら、まず自分の立場を考えてください。自分の立場すらままならないのに他人を助けられるはずがない、そうでしょう? ただ共倒れをするだけになります。愛する人と表舞台に出ることを怖がらないでください。

 本当に幸せにしたいのなら一刻も早く連れてきてあげてください」


「……ありがとな、アンディ」


 アンディの言葉に、イニャーツィオの懊悩のほとんどは涙と共に流されていった。重く圧し掛かっていた胸の痛みから、ようやく解放されたのだろう。

 手の甲で涙を拭うとイニャーツィオは控えめながらも笑みを浮かべて見せる。



────


 午後七時。

 昨日、イニャーツィオに買い物を頼んだ際、今日の分まで計算しておいたクリスティンは彼の帰宅に合わせて夕食をテーブルへ並べた。


「おかえりなさい! 今日はもう材料あったからさ、作ってるよ」


 自分が帰ってきただけで嬉しそうに話すクリスティンに、イニャーツィオは帰宅早々、彼の体を後ろから抱き締める。

 そしてクリスティンの華奢な背中へ額を擦り付けた。


「ナッツォ? どうしたの。ご飯の準備、できないよ?」


「……ん」


 口では反応を示すものの中々離れようとしないイニャーツィオの様子に、クリスティンは違和感を覚える。

 不思議に思って振り返ろうとしたところで丁度、イニャーツィオがその身を翻した。

 ネクタイを解いてシャツのボタンを三つ目まで開き袖を折り返す姿は、数日見てきた彼の動作と何ら変わりは無い。


 気のせいだろうと自己解決し、夕食の席へ着いた。

 夕食が始まり、クリスティンは日中に観たテレビの話やイニャーツィオの家の広さ、そして彼の衣服や下着のサイズが自分のものよりもずっと大きいこと、話題はたくさんあった。

 何よりも恋人と共に食事をしながら話すことができるという、ただそれだけのことが嬉しいようだった。


 クリスティンが話し、イニャーツィオが相槌を打つという終始穏やかな雰囲気ではあったものの、どこかイニャーツィオの笑みが寂寥を背負っているように見えて仕方がない。

 やはり、イニャーツィオの様子がおかしい。そう確信したクリスティンは夕食を終えた後、ぼんやりとテレビを眺めているイニャーツィオの元へ歩み寄った。

 そして自身は彼の傍へ立ったまま声を掛ける。


「ナッツォ」


「ん、……どうした?」


 テレビを観る邪魔をしているというのに、イニャーツィオは全く意に介していない。

 ただ眺めているだけであってその内容には一切の興味が無いのだということが良く分かる。完全に、何かに気を取られている。

 クリスティンはそう確信し、座っているために自身を見上げる形になっているイニャーツィオの額へと口付ける。


「何か悩んでるなら、私にも聞かせてよ。私、ナッツォと同じ気持ちでいたいよ」


 「重いかな?」と僅かな羞恥を滲ませた笑みを伴って漏らされた言葉に、イニャーツィオは抑制していた自身の強い欲望をあえて解放した。


 返事をする代わりにクリスティンの腕を引きソファの上へその体を乗せる。

 驚き揺れる瞳に笑みを送り、クリスティンの薄い唇へ噛みついた。

 いつものイニャーツィオのキスとは違い、荒々しい貪るようなそれにクリスティンは息継ぎのタイミングを見失う。

 角度を変え口内を蹂躙するイニャーツィオの厚い舌は、妙に熱っぽい。その舌に自身の薄く長い舌を絡め、イニャーツィオの緊張に冷たく感じられる口内を探る。

 上あごや舌裏を自身のものとは違う厚い舌で舐られる度に痺れるような刺激が体を巡り万次郎の口から甘い声が漏れ出る。


「ん……、ふ、ぁ……っ」


 舌を絡め存分に吸った後、イニャーツィオはようやく唇を離す。

 クリスティンの唇が先ほどよりも赤く熟れた色を帯び二人分の唾液が光を反射して輝く様が何とも卑猥に映る。

 未だ呼吸の整っていないクリスティンの手を取り、イニャーツィオはベッドルームへと向かう。

 そして、ベッドの上へクリスティンを寝かせるとその上へ自身も覆い被さる。


「……ナッツォ……?」


「クリス、お前が欲しい……頼む、嫌がるなよ」


 何かに追い立てられるかのように余裕の無い表情でクリスティンを窺うイニャーツィオは、この期に及んでも真摯を貫き通す。

 どんなにその身に触れたいという強い衝動に駆られても相手へ窺いを立てる。

 そんな清貧に過ぎるイニャーツィオの頬へ掌を添わせ、クリスティンは返事の代わりに再度彼の唇へ噛みついた。


 想いが通じ合ったのは、まだほんの二日前のことだった。それでも、奇跡の極点とも取れる状況で愛に目覚めた二人には、キスをしてぬくもりを交換することさえ特別なことだった。

 十分幸せでそれ以上は望まないと、そんなことすら思っていたのだ。それが今では体まで重ねようとしている。

 無理だと思っていた、一つになりたいという願いも、今叶う。

 しかし望みを叶えてしまうというのがどういうことなのかを理解していない二人では無い。だから今だけは全てを忘れて互いの熱に集中する。


 次は、いつ体を重ねられるのかすら分からない。

 “次”があるのかすらも、分からない。

 だからこそ、今夜この瞬間を大切に愛し合いたいとイニャーツィオは思っていた。

 きっと、クリスティンと愛し合えるのはこれが最期では無いと。


「あ、あ……っナッツ、ォ……」


「ックリス……」


 まだ達したくない、けれど抗いようの無い快楽が二人を容赦無く絶頂へと導く。

 クリスティンの背が仰け反って達した瞬間搾り取るかのようにきつく締め付けられるクリスティンの内壁に煽られ少し遅れてイニャーツィオもコンドーム越しのクリスティンの中へと吐精する。


 ぐったりとベッドにしなだれかかるクリスティンの汗ばむ額や柔らかい亜麻色の髪に優しく触れながら、イニャーツィオは彼女の顔中へキスの雨を降らす。

 互いに中々揃わない呼吸を笑いあいながらようやく落ち着いた頃、クリスティンを抱き締めたまま、ゆっくりとイニャーツィオが切り出した。


「クリス」


「なあに?」


 イニャーツィオの腕に寄り添いながら、クリスティンは彼の瞳をまっすぐ見つめる。


「明日、オレはクリスを逮捕する」


 イニャーツィオもまた、まっすぐクリスティンの瞳を見つめる。榛色とアイスブルーが溶けてひとつになるほどの長い時間、二人は互いを見つめあった。

 しかし、その間も薄く笑みを浮かべるクリスティンの髪を指で梳かすイニャーツィオの優しい手はそのままだった。

 恋人の迷い無い言葉を受けてクリスティンは「うん、ナッツォに捕まえてもらえるなら、私は幸せ」と、イニャーツィオの家に来てから一番の笑みを浮かべたのだった。

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