第二話 旧友との語らい
夜からつけっぱなしで見ることも無かったテレビの電源を落とし、車の鍵を掴むと玄関へと向かう。クリスティンがドアノブを掴む一瞬前に外側からドアが開かれ、そこからノアが顔を出す。
「……! ノア!」
驚きと安堵を孕んだ表情でノアを見つめるクリスティンとは対照的に、ノアは至極眠そうな様子で恋人をチラとだけ見やる。
「ん、今から出勤か? いってらっしゃい」
一瞥のみを向け、疲労で重くなった脚を引きずるようにしてノアは二人の寝室へと引っ込んでしまう。
クリスティンが昨夜のことを問いただす暇すら無かった。
再び一人になってしまった玄関でクリスティンは何も分からず閉じられてしまった寝室のドアを見つめていたが、とにかくノアが帰ってきたことに対する安堵で心の中にあった鉛が一気に晴れたような気すらした。
昨夜のことは、別に今問いかけなくても、帰ってきてからだって良い。仕事から戻ってきてから聞こう。そう切り替えて、クリスティンはようやく空腹を訴え始めた胃の中へ先程鞄に放り込んだばかりのエナジードリンクを流し込みながら車へと乗り込んだ。
子供達の昼寝の合間を縫って保育士達が交代で昼休みに入り、クリスティンはミッドタウン内でも人気のデリへと急いだ。
一二時を外して来たとは言え、そう広くない店内にはそれなりに客がひしめき合っている。デリがメインの店ということもあって席数は一〇にも満たないのだ。
「あー、ごめんな。ポークビーンズは売り切れてんだ。肉が食いたいならターキーブレストがあるけど。いいか? 何グラムにする?」
店主のベス・オールダムと数人のパートのみで回されている店内は、そうと思えない程次々に客が捌かれていく。
クリスティンも列を形成する一人になると同時、不意にジーンズの尻ポケットへ突っ込んだままだったセルフォンが鳴り、慌てて取り出した。
ノアからかと思い期待して発信者を確認すると、そこには久しく連絡を取っていなかったハイスクール時代の友人の名前が踊っている。
メニューをシーザーバウドに決めて、紙幣を握ってから画面をタップして電話へと出る。
「もしもし?」
「クリスー! 久しぶり! 元気? 今へーき?」
久しぶりに聞く、ノア繋がりで仲良くなった友人のカミラ・ジェネル・ホートンの声に、クリスティンの表情にも自然と笑みが浮かぶ。
カミラは国際線のキャビン・アテンダントとして働いている為、常に世界中を飛び回っており、仕事の都合が付かなければ連絡することすら叶わない。そんな多忙な友人からの連絡は、素直に嬉しかった。
「大丈夫だけど、どうしたの? ノアなら一緒にいないよ」
『ノアと話したいなら直接連絡するっつーの。あのさぁ、実は長期休みが取れたんだよね。で、今デトロイト市に戻ってきてるんだ。それで、突然のことだったし、誰にも連絡してなかったんだけど昨日偶然ノアに会って、それで嬉しいなって思ってたらアンタにも会いたくなったんだよね』
オーダーがクリスティンへ回ってきた。店主のベスは、セルフォンを耳に当てたまま当惑した表情を浮かべているクリスティンを見つめたまま、静かにオーダーを待っている。
すぐにベスが待っていることに気がついたクリスティンは、慌ててセルフォンを支えていないほうの手でメニューを指差しオーダーを伝える。
「そっか、私も久しぶりにカミラに会いたいから、今日会わない?」
カミラの口から出た恋人の名前に、ノアの昨夜の行動が紐解かれていく。
それに心の冷えた思いをしたクリスティンだったが、相手は共通の友人であり、ノアにとっては幼馴染のような存在のカミラだ。懸念していた見知らぬ女性や娼婦ではない。そのことに少しばかり心を撫で下ろす。
きっと、カミラと久しぶりに出会ったことで話も盛り上がっただろうし、酒も入っただろう。その流れで連絡を忘れたって何もおかしいことは無い。
むしろ、カミラで良かった。そう、クリスティンは再び安寧とした雰囲気を取り戻し、カミラの明るい声で紡がれる今夜の待ち合わせ場所を、手前に置いてあったペーパーナフキンへ書き込み、通話を切った。
するとすぐにベスがテイクアウト容器へ入れてくれたシーザーバウドが目の前へ用意され、クリスティンはセルフォンをポケットへ戻しながら手の中に握りこんでいたせいでくしゃくしゃになってしまった紙幣を、センスの良い赤い本革で作られたカルトンの上へと乗せた。
そこでクリスティンは違和感に気が付く。シーザーバウドの上に半熟卵が乗っているのだ。確かボイルドエッグは別料金だったはずだった。
「ごめんなさい、すぐ硬貨出すから待ってくれる?」
電話に気取られていつの間にかトッピングまで頼んでしまっていたのかもしれない。そう思ったクリスティンは、再度財布を取り出すも、その様子にベスはオーダー品を紙袋へ収めながら首を振る。
「これはオマケ。難しい顔してたからさ。リラックスしなよ。それとも、ミディアムボイルが嫌い?」
「ううん、すっごく好き! ありがとね」
ベスから商品を受け取り軽く手を振ってから店を出る。
クリスティンは確かに、カミラの口からノアの名が出た瞬間複雑な思いを抱いていた。
それがまさか全くの他人にすら気取られるほど表情に出てしまっていたということに驚きを隠せないでいた。
おまけという名の気遣いを人から受けるほど自分は寂寥然りと見えたとでも言うのだろうか等と少しばかり気にしながらクリスティンは自分の頬を叩いてみる。
今夜は、数年ぶりに会う友人とのディナーを取る予定なのに、こうも何かを引きずっていてはせっかく誘ってくれたカミラに失礼だろう。そう思って気合を入れ直したのだ。
複雑で鬱々とした気持ちを無理やり払拭するようにクリスティンは口角を無理やり引き上げてみせる。何が何でも今日一日を笑顔で乗り切って見せると、ショウウィンドウへ映る自分へ喝を入れる。
その夜、クリスティンは数年ぶりに会うカミラと、レストランでの夕食を楽しんだ。
デトロイト市でも比較的高級なレストランに、少々気の引けたクリスティンだったが、久々の友人との邂逅ということもありカミラの行きたいところへと思ったのだ。
カミラからは他愛無い話が数多く飛び出し、陰鬱に翳っていたクリスティンの複雑な感情を束の間の時間ではあったが晴らしてくれた。
昨夜、カミラとノアが話した内容もいくつか話題に上がっていた。
それらは、懐かしい学生時代の話や仕事の話ばかりであり、そのことがクリスティンの煩悶を大幅に軽減させてもくれた。
おそらくノアが女性と浮気をしていたとしたならば、必ずカミラの方から「ノア、恋人とかできたの……?」などとこちらへ探りを入れてくるはずだ。
何故なら、カミラはクリスティンとノアが付き合っていることを知らないからだ。
正確には言うことができなかったのだ。
カミラは、クリスティンとノアの共通の友人だった。
クリスティンの記憶の通りであれば、彼女は黒人と白人の恋愛にとやかく言うタイプではない、けれどそれが身近な存在になった時に、どう転ぶかは分からない。
そんな彼女に、友人である自分達が恋人関係であることを伝えてしまえば、混乱を招きかねない。ノアとクリスティンはそう考えて言わないことに決めたのだ。
それを踏まえた上で、クリスティンはあえて、この席でもカミラにはノアとの関係を打ち明けずにいた。
カミラと夕飯を共にしている間にノアへメールを送っていたクリスティンは、彼からの『何時に帰ってくんの』という問い掛けに、二二時頃だと伝えてあった。




