第一八話 二人での食事
ノアが電話を切ったため、イニャーツィオもセルフォンをスーツの胸ポケットへと戻す。
デスクへ戻って書類の整理に追われている姿や表情のみを見れば、彼自身は至極落ち着き払っているようにも見えるものの、その胸中は煩悶に荒れていた。
まさか、ノアがクリスティンの家へ行くなんて予想もしていなかったのだ。
それも、クリスティンが事件に使用したと見られる凶器も、既にノアの手によって回収されてしまっている。
おそらく、クリスティンはあの夜イニャーツィオに見つかることなんて想定もしていなかったのだろう。
クリスティンは殺害した後の処理を満足にしていなかったのかもしれない。それが今になって災いしている。
そういえば一度下水の詰まりで通報があった地域も、彼の住んでいる地区の辺りだった。
後ほど資料を確認することを決めて、再び書類へ向き直る。
ノアは完全にクリスティンを犯人だと疑ってかかっている。
仮にもクリスティンは彼の恋人であるにも関わらず、この状況だ。それがどうしても許せず、イニャーツィオは咄嗟に事実を隠蔽した。
そして、ノアを揺さぶることのできる落ち度を探し出し、試しに篩にかけたのだ。
結果は先ほどの通りだったが、それもいつまで持つかは分からない。
仮にノアが上手くクリスティンとイニャーツィオを切り離して捜査を始めてしまえば、クリスティンの立場は一気に危険へと晒されるだろう。
匿ったイニャーツィオも勿論ただでは済まされない。
いや、イニャーツィオにとって、この際自身の立場への保身などどうでも良かった。彼にとっては最初からクリスティンのことだけが大切であり、悲壮の感懐から殺人鬼へならざるを得なかった彼女を、どのようにして身の安定へ持ち込むか、それだけが全てだったのだ。
一体ここからノアがどのように出てくるのかが見えてこない。
クリスティンへ嫌疑を掛けることは、ノアの身に対してもリスキーなものであることは確かだ。
しかし、このままのんびりとクリスティンを匿い続けるほどの時間はもう無いだろう。
ノアが先にクリスティンへの逮捕状や捜査令状を出してしまえば、クリスティンの身の安全は完全に保証できない。
イニャーツィオの手を離れ、昏く冷たい牢へ囚われることとなるのだ。
そんな中でただ一人、愛していた元恋人のノアから義務故の辛辣残酷な言葉で取り調べを受けるクリスティンの姿を想像し、イニャーツィオは振り切るように首を振った。
とても、耐えられるはずがない。
ようやく落ち着いてきたクリスティンの精神が、ノアと鉢合わせたことで今度こそ決壊してしまうことになり兼ねない。
クリスティンのことは自分が守るのだと改めて胸に刻むと同時に、イニャーツィオは深い懊悩に苛まれ始めた。
クリスティンをノアから守るため、クリスティンにとっての最善を最優先する。
すぐにでも実行へ移せば良いこの考えは、思いついた傍からイニャーツィオ自身を重く苦しめることになる。
胸に錘を抱えたような状態で転々としていると不意にセルフォンが震える。
取り出したセルフォンのディスプレイには、自宅のナンバーが踊っている。
クリスティンからだ。
オフィスにアンディやランス等の顔なじみがいないことを確認してから電話に出る。
「どうした?」
『あ、ナッツォ? いま、大丈夫?』
電話越しに聞こえてくるクリスティンの柔らかく高い声に、それだけで愛しさが募る。
想いを匿っていた頃は自身への抑圧が強すぎて、声を聞くだけでは何とも思わなかったのに想いを解放したいま、クリスティンを形作る全てへ愛しさが込み上げてくる。
『夕ご飯、私が作ろうと思ったんだけど、冷蔵庫の中に何も無くて……帰りに材料買って来てくれない?』
「それは良いけど……お前料理とかできんの?」
『できるよ。昔、妹に教えてもらったし。よく作ってたから。大丈夫! じゃあ、材料言うから、メモしてね?』
多少前より明るくなった声で紡がれる食材名を、ひとつひとつ取りこぼすことなく復唱しながらメモに取る。
自分のために手料理を振舞おうというクリスティンに対しての愛しさは更に募る。
『これだけ! よろしくね』
クリスティンが口にした食材を全てメモに記し、通話を切ったイニャーツィオは、手元のリストを見て再び先ほどの煩悶が重く彼の心へと圧し掛かる。
無理だ。
いくらクリスティンの、先の安全を思慮したものだとしても今の自分にはとてもでは無いが重すぎた。
圭介はデスクへ両肘を突いたままメモを額に当て項垂れる。
──……オレには、できない。
都会であり、人の流れが多いクイーンズでは物価が少し高いため、イニャーツィオは自宅のあるブルックリンの大型マートでクリスティンから頼まれた食材を手に入れていた。
それから自宅へ戻ったのが午後七時三〇分を少し過ぎた頃だった。
帰ってすぐ、玄関でクリスティンが出迎えてくれたことにイニャーツィオは驚きと嬉しさから荷物を持ったまま、彼女へフレンチ・キスを送る。
「おかえりなさい、ナッツォ」
「ただいま。クリス。良い子にしてたか?」
更にキスを強請るように背伸びをするクリスティンへ、イニャーツィオは微笑みで受け流し、玄関マットで靴裏の泥を落として上がる。
荷物を持ったままのイニャーツィオへとクリスティンが手を伸ばし、イニャーツィオはそれに甘えて食材の入った紙袋を渡した。
キスから逃げられたことに拗ねたように唇を尖らせたクリスティンへ小さな笑い声を零すと、その尖った唇を掠めるように口付けをし、二人でキッチンに向かう。
「私の血で汚したシーツは洗濯して干しといたよ。あ、ナッツォは座って待ってて、すぐ作るから!」
キッチンまで着いてきたイニャーツィオへそう言うと、クリスティンは早速夕食の準備へ取り掛かる。
慣れない手つきで食材を刻んでいくクリスティンに不安そうな表情を浮かべながらも、イニャーツィオはネクタイを緩めながらリビングのソファへと座る。
慣れていなさそうな手つきながらも、淀みの無い動きはクリスティンがノアのために作っていたからだろう。
L字キッチンの隅で料理をするクリスティンの姿を見つめながら、イニャーツィオは彼が今自分のためだけに料理をしている事実に浸っていた。
ノアのことはもう関係ない。
そう思い込もうとしても、ノアという存在から連なって昼間のことがどうしても脳裏へと引っかかる。
『オレはクリスティンがあの事件の犯人なんじゃねぇかと思ってる』
イニャーツィオは振り切るようにテレビの電源を付けた。
動物保護団体によるドキュメンタリーが映り、今は丁度手負いの子象を保護している場面だった。
せめてクリスティンと二人でいる間だけは昼間のことを忘れようとしていた。
“刑事”と“殺人鬼”では無く、あくまでイニャーツィオはクリスティンのことを、愛する“恋人”として扱おうとしていた。そう、決めていたのだ。
しかし、ノアに真実を見抜かれたいま、クリスティンに残された時間はそう多くない。
何しろノアがクリスティンを容疑にかけて捜査に入ってしまえば、そこで何もかもが終わってしまうのだ。
だからこそ、それよりも先にイニャーツィオは手を打たなければならない。
その懊悩は敢えてクリスティンへ話すつもりは無い。
イニャーツィオは自身一己の胸中でその煮え湯を飲み干すつもりだった。
やっと笑顔を見せてくれるようになったクリスティンの表情を、再び悲しさに曇らせるようなことはしたくなかった。
そうこうしている内に夕食がテーブルへと並べられ、二人は向かい合って座る。
アボカドとジェノベーゼソースが好きなのか、サラダやペンネにふんだんに使用されている。
基本的に好き嫌いのそう無いイニャーツィオは、メインのジャンバラヤに入っているチキンをフォークで口に運んだ。
クリスティンの心配そうな視線が面白くて、イニャーツィオはわざと表情を作らずに咀嚼した後「美味い!」と満点の笑顔を見せる。