第一七話 発覚
午後一時〇〇分。
ノアは久しぶりに、クイーンズから郊外へとバイクを走らせていた。
その道を使わなくなってからまだ一か月程度にも関わらず、酷く懐かしさを感じた。
カミラがクリスティンのことが心配だと騒いで仕方がないためこうして出てきたが、もし前の家にクリスティンがいれば、顔を合わさずすぐに帰るだろう。
実際、ノア自身クリスティンの家へは好んで行きたくないのだ。
ただ、カミラが心配しているから出てきただけで、それ以上の理由は一切無い。
クリスティンが家にいればそのまま取って返し、もしいなければ取りに戻れていなかった残りの私物を持ち出して、それで終わりにするつもりだった。
ノアにとってクリスティンの様子など、もはやどうでも良かった。
彼の頭の中にあるのは、仕事の合間に発生する僅かな安寧をカミラと共に過ごしたいという、ただそれだけだった。
むしろ、クリスティンのことはいらない世話をかけさせやがって、程度の思いしかなかったのだ。
ノアの運転するバイクが以前の家……いまはクリスティンが一人で暮らす家へと到着した。
ガレージに車は無く、クリスティンのバイクだけが残っている。クリスティンがいないことをそこで確認し、ノアは空のガレージへバイクを停めると、ガレージ側のドアから家へ入る。
不用心なことに鍵は開けっ放しになっていた。
久しぶりの家へ入ってすぐ、ノアは鼻と口元を押さえる。
目が痛くなるほどの異臭が室内に立ち込めていたのだ。
リビングルームの窓を開け、そこで外の空気を吸ってノアは数度咳き込む。
「げほ、ォエ……何だこのニオイ、どっかで嗅いだような、気分悪ぃ」
室内には荒らされた形跡も、クリスティンの手で荒れたような様子も見られない。
ノアが出ていく寸前のまま何も変わっていなかった。
ノアは、今いるリビングルームからベッドルームへと足を進める。
ニオイは多少なりとマシになった。ニオイの元はここでは無いらしい。
リビングルームへと戻りながら、ノアの脳裏には最悪の事態が思い浮かぶ。
それは、クリスティンの自殺だった。もし、クリスティンの遺体がこの家の中から見つかれば、自分が原因で死んだことが確実となる。
そうなってしまえば、ノアがクリスティンを殺したも同然となるのだ。
──そんな胸糞悪いことがあって堪るか。
そんな悪態を心中で呟きながら、ノアは鼻と口を腕で覆いつつニオイの発生源を探す。
リビングルームを抜けてすぐ、バスルームの方からより強いニオイが流れてくる。
「……ここか」
覆っている腕をより強く押し当て、最も最悪の状況を覚悟しながらバスルーム内へと足を踏み入れる。
ニオイの原因はすぐに知れた。
排水溝に、凄まじい量の脂肪の塊がこびり付いているのだ。
それが腐敗し、凄まじいニオイを放っている。おまけにクリスティンがそのまま被害者の血を流していたため排水溝周りはボロボロに錆付き虫が湧いて蠢いていた。
「……っオエェ」
ニオイの原因を突き止めたノアは、職業上その物質を調べるため顔を覆っていた腕を離してしまいその腐敗臭を思い切り吸い込み、凄まじい吐き気を催す。
肺の中に異臭を伴った空気が一気になだれ込んでくるのがありありとイメージできてしまい気分が悪くなってくる。
慌ててバスルームを出て、レストルームで酷く噎せ返る。
口の中に酸っぱく粘液質な唾液が滲み出てくる。
その時だった。派手な音を立てて足元へぶつかった大きな袋を見つけ、ノアはその傍にしゃがみ込む。
大きな袋は、以前クリスティンとたまに足を運んでいた大型ショッピングモールのものだ。
手袋を嵌めた手で硬く結ばれた口を解き中を見ると、その中には錆びたマチューテと家庭用水圧カッターが納められていた。
その二つ共に、ノアは見覚えがあった。
「……は? これ、オレのじゃねぇの」
水圧カッターは何ともなっていなかったものの、マチューテの刃先は長らく放置されたことで血錆ができており、とてもでは無いが使い物にはならないだろうことがうかがい知れる。
それはまるで、ホラー映画の中で犯人が振りかざす凶器に、よく似ている。
バスルームに残された凄まじい量のどす黒く変色した脂肪、錆付き虫の湧いた排水溝、そしてマチューテの血錆、共に纏めて置かれた水圧カッター。
これら全てを合わせ見て、ノアはふとイニャーツィオとの会話を思い出す。
『凶器は水圧カッターだ』
彼は、そう言っていなかっただろうか。
「……犯人は、クリスティン……?」
驚愕したノアは、すぐさま署へ応援の連絡を入れようとして、その途中でセルフォンを操作しようとした手を止めた。
クリスティンが疑わしいのは明白だ。
しかし、ここで応援要請をしてしまえば、何故自分がクリスティンの家の鍵を持っているのか、彼女の家に自分の持ち物であるマチューテと水圧カッターがあるのかの説明をしなければならなくなる。
たとえそれがクリスティンの持ち物であると嘘を吐いても、元は自分の持ち物だ、それらにはノアの指紋がべったりと付着している。
それを調べてしまえば、ノアの指紋であることはすぐに分かってしまう。
そして、それによって自分とクリスティンが恋人であった“過去”が、カミラにも明白になってしまうだろう。
クリスティンの身辺への疑いは掛けたい。
しかし、それと比例してノア自身の幸福をも崩しかねないリスクがあった。
これほどの疑わしい決定打が目の前にあるというのに、王手をかけることができない自身の後ろめたさを今更後悔し、仕方なくイニャーツィオのセルフォンナンバーを呼び出した。
いつも通り三コール目で出たイニャーツィオへノアはなるべく気持ちを落ち着けるよう努め、話しを切り出す。
『どうした、ノア。お前、今日夜勤だろ?』
「ナッツォ、人がいない場所に移動しろ」
『? リョーカイ、ちょっと待ってろ』
内容が内容だけに、ノアは相棒のイニャーツィオにしかこの目の前の惨状を話せないと踏んだのだろう。
依頼して数秒、イニャーツィオの物と思しき靴音がセルフォンの向こう側から聞こえて、再び彼の声が電話口から聞こえてくる。
『移動したけど、どうした?』
「いま、前の家にいるんだよ」
『前の家? クリスと同棲してた家か? 何でまた』
これから話す事実に、ノア自身多少気が昂っていたために気が付かなかったが、前の家と口に出した後のイニャーツィオの返答に不自然な間があった。
イニャーツィオとしては「何で今更クリスのとこに?」という疑問が湧いたのだろう。
そんな真意を汲み取るほどの余裕すら無いノアは構わず内容を話し始める。
「いまのオレの恋人とクリスティンがダチの関係なんだよ。それで、最近連絡が取れねぇからって心配してたからオレが様子見に来たわけだ。そしたら家の中にヤバいくらいの腐敗臭が蔓延しててな、ニオイを辿ったら、バスルームに人間の物らしい大量の組織が真っ黒に腐って排水口に詰まってた」
『……!』
圭介が声を詰まらせるその息遣いがノアの状況的興奮を更に煽る。
自分はとんでもない物を見つけてしまったのだと。余計な反応は挟まず黙したまま話の先を求める相棒の様子に、ノアも自分の得た結論を急ぐ。
「それだけじゃねぇ。明らかに使用した形跡のある水圧カッターとマチューテも見つけた。この二つは前にオレがホームセンターで買ったモンだ。マチューテには、見たことない血錆ができてる」
『……水圧カッター、トラッシュバッグキラーの凶器と一致すんな』
ノアは水圧カッターとマチューテの入った袋を持ち上げてリビングへ向かいながら、ついに自分の出した結論をイニャーツィオへと語る。
「オレはクリスティンがあの事件の犯人なんじゃねぇかと思ってる」
『……』
腐敗臭の濃度が変わり、開け放った窓の近くで大きく深呼吸をしてからイニャーツィオの返答を待つ。
セルフォン越しでは流石に彼の息遣いまでは聞こえてこず、思考は読めない。
数秒してから、イニャーツィオの言葉が返ってくる。
『クリスが犯罪に巻き込まれた可能性もあるだろ? 頭ごなしにクリスを疑うのはちょっと早いんじゃねぇの』
イニャーツィオの考えはクリスティンを擁護するものであったが、もちろん捜査の進め方としてみれば、その線で憶測を進めていくのは間違いでは無い。
しかし、目の前にこれほどの証拠が揃っているノアにしてみれば彼のその考えは無駄に思えて仕方がなかった。
「落ち着いて考えてみろよ。家の中に被害者のモンと思しき人間の脂肪の塊が残ってて、その付近には凶器がセットになってる。クリスティンの姿は無いし、車も無い。いまリビングでクリスティンの充電が死んだ携帯も見つけた。……どう考えてもクリスティンは殺人犯で逃亡してるとしか思えないだろぉが」
ノアの推理は、一般的に見てもほとんど筋が通っている。むしろこの状況ではそう組み立てるのが自然の流れだろう。
この現場考察を聞いてイニャーツィオは自身の考えを吐露し始める。
『オレは直接見てねぇから断定すんのは避けるけどよ、ノアがクリスティンのことを犯人として挙げるなら、お前の持ち物だった水圧カッターとマチューテの提出と、お前等の過去も暴かれるだろ。
で、凶器として使ったモンにお前が使った形跡が無いかまで調べられるし今の恋人にまで聴取の手は伸びるだろ? それについても、お前はちゃんと理解してんのか?』
「!?」
まるで牽制でも掛けているかのようなイニャーツィオの言葉に、ノアの方も多少は思うところがあったため不満はありつつも、何も言い返すことができないでいた。
つまり、クリスティンを犯人として検挙するのであれば、ノア自身も覚悟をしろとイニャーツィオはそう言っているのだ。
ノアは心底バツが悪そうな表情を浮かべると「まだそこまで言ってねぇだろ、ただ相談したかっただけだし」と不機嫌も隠さずに言うと電話を切った。