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ゴミ袋に詰めた恋  作者: 田中
第四章 転落と愛憎
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第一六話 覚悟

 もう八回目になるだろうか。

 クリスティンの電話番号へ電話を掛けるものの、全く繋がらない。

 およそ二日ほど前から続くこの状況に、カミラはコールを切りながら不安と不思議を綯交ぜにした表情を浮かべる。


「クリス、どうしたんだろ?」


 セルフォンを手にしたままベッドから抜け出し、裸の体へ衣服を身に着けていく。

 時刻は午前七時。

 明け方の二時頃に、ノアが残業から帰宅して、そのままベッドへと縺れ込んだのだった。

 こんな時間まで愛し合っていたため、ノアもカミラも互いに疲労感から眠気を通り越して、逆に目が冴えてしまっていた。


 カミラが疲れているノアのためにバスタブへ湯を張りに行ってから、再びベッドルームへ戻るとノアが気だるげに上体を起こしていた。


「一緒に風呂入って寝るか、今日は夜勤だし」


 ノアがグッと伸びをして欠伸を漏らす。

 そんな恋人の姿から、先ほどから手に持ったままのセルフォンへと視線を落とし心配そうな表情を浮かべたままカミラは言葉を漏らした。


「ねえ、ノア。クリスに電話通じないの。もう、二日前からずっと」


 カミラの口から出たクリスティンの名前に、ノアはバツの悪そうな表情を浮かべる。


「あ? アレじゃねぇの、番号変えたとか、そんなモンだろ」


「そんなことない! クリスは、ノアと違って番号変えたらすぐ教えてくれるし、それに……ちょっとおかしいんだ。クリスの仕事先の保育センターにかけてもクリスは来てないって言われたし。なんか、三日も無断欠勤で家にもいなくて連絡取れないって、おかしいでしょ? ねえノア、クリスの家知ってるんだよね? 住所教えてよ。私、心配だからちょっと行ってくる」


 セルフォンを握り締め連絡のつかないクリスティンを心配するカミラと、シリアスな表情こそ同調していたもののノアは全く違うことを考えていた。

 自分が別れも告げずに捨てたことが原因で失踪したのではないかと。


 カミラの話の内容からすると十分にあり得ることだった。

 ノアは苦々しく表情を歪めベッドから起き上がった。クリスティンのことは、もう愛していない。

 しかし、自分のことが起因で死なれても困る。

 不安そうな表情で窺ってくる恋人の姿に折れて、ノアはカミラの唇へ一度キスを落とすと硝子細工を愛でるように頭を撫でる。


「風呂から出たらクリスのとこ、行ってくるわ」


「……え、でも私も……」


「カミラはここで待ってろ、な?」


「……うん、分かった」


 クリスティンの家へ頑なに一人で行くと言い張るノアに、カミラは一度食い下がろうとしたものの押し切られてしまう。

 ノアのことを心から信頼しているカミラはそのやり取りの違和感に気が付くことも無く、もしクリスティンが事件にでも巻き込まれていた場合のことを考えて、敢えて自分を置いていくのだろうとおめでたい方向で恋人の言葉を受け止めていた。

 カミラを言いくるめたノアは、心中面倒臭い気持ちを何とか押さえ込んで行動に移すため、恋人の腕を引きバスルームへと向かう。


 決してクリスティンのためでは無く、あくまで恋人……カミラのためにクリスティン“の”家へ行ってやるのだと、そう納得させることでこの後の予定は固まった。



────


 朝目が覚めてすぐ、イニャーツィオはクリスティンの腕に残る傷を手当てし始めた。

 クリスティンの方も手錠が外される感覚で目を覚まし、暴れることも無く大人しく包帯を巻いてもらう。


「おはよ、ナッツォ」


「おはよう。起こしたか? 悪い。すぐ終わらせるから、我慢しろよ」


 昨夜自分自身で噛みついたせいでできた手首の怪我を見て、クリスティンはゆっくりと瞬きをした。

 痛々しい傷口が、薬と共に包帯で巻かれて消えていく。

 包帯を巻くイニャーツィオの指先は公安職とは思えないほど細く、長く、そして繊細に映った。

 その綺麗な指先から上に続く腕には、日差しを受け、昨夜見た時よりもより克明に照らし出された痛々しい痣が窺い見れる。


 もう二度と自殺は考えない。

 クリスティンはもう一度ゆっくりと瞬きを繰り返した後拳を握り締めた。

 もう、イニャーツィオを傷つけたくない。内心で固く自分自身に言い聞かせる。

 クリスティンにとってイニャーツィオは、昨夜の一件以来信じられる人間の位置付けになっていた。

 イニャーツィオに対する警戒は、もう全く無い。

 むしろ自分の命を拾ってくれた彼へ感謝すらしていた。


「もう楽にして良いぜ」


「うん、ありがとう」


 包帯を巻き終え片付けを始めるイニャーツィオに、クリスティンは慌てて彼の手へと触れ、「待って」と声を掛ける。


「その、手錠をかける前にナッツォの傷の手当てをしたくて……それは、私が付けた傷でしょ?」


 クリスティンの突然の申し出に、イニャーツィオも予想をしていなかったらしい。

 クリスティンに言われて初めて自分の腕の状態に気が付いたのだ。

 一通り腕の痣を確認した後、イニャーツィオはクリスティンへと視線を戻し、少し照れ臭そうに含羞を見せつつ、腕を差し出した。


「全然気づいてなかった。頼んで良いか?」


「当たり前でしょ!」


 クリスティンは意気揚々とイニャーツィオの痣へ湿布を貼り付け始める。


「クリス、朝飯だけど、昨日買って冷蔵庫に入れたままのターキーサンドがあるんだけど、食うか?」


 空いた方の手でクリスティンの髪を整えるイニャーツィオに、彼女の方も全く悪い気はしない。

 むしろ、その手が心地よいとすら思っていた。


「食べる! すっごくお腹、空いてるんだ」


 昨夜、イニャーツィオから突然の告白を受けたものの、状況が状況だったために返答をしないまま、こうして夜が明けてしまった。

 実際クリスティン自身ですら、自分の気持ちが良く分かっていなかった。


 はっきりと分かるのは、ノアの想いは完全に消えてしまったということ。

 そしてもう一つ、自分を愛さなくて良いと言ったイニャーツィオの言葉が、酷く胸を抉ったということ。その二つだった。


 イニャーツィオの両腕へ湿布薬を貼り終え、クリスティンが救急箱を片付けている間にイニャーツィオは腕を隠すように、捲っていたシャツを元に戻した。

 昨日は首に絆創膏を貼っていてあれだけ騒がれたのだ。両腕に包帯なんて巻いて通勤しては何を言われたものか分からない。

 訝しまれないためにもイニャーツィオは自身の傷を隠したのだった。


 湿布を片付け終えたクリスティンは、包帯で巻かれた腕を後ろに回し、イニャーツィオによって手錠が掛けられるのを待った。

 しかし、イニャーツィオは手錠をかけることなくクリスティンの腕を引き、ベッドルームから出てリビングルームへと向かって歩き出した。

 それに面食らったのはクリスティンだ。


「えっ、ナッツォ? 手錠は?」


 リビングまでクリスティンを引いてソファへ座らせると彼はその向かい側に落ち着く。


「クリスはもう暴れねぇだろ? なら必要ないから大丈夫だ。それに……オレは好きなヤツに手錠かけて興奮するタイプじゃねぇから。何か不満でもあんの?」


 笑みを深ませてそう尋ねるイニャーツィオにクリスティンは胸が熱くなるが、それをごまかすように首を横に振った。

 手錠をかけない。

 それは、イニャーツィオもまた、クリスティンを信じていることに他ならなかった。

 殺人犯としてでは無く、あくまでイニャーツィオが愛する人間として見ていることの現れでもあったのだ。


 優しく温かなイニャーツィオからの信頼を伴う行動に、クリスティンは堪らなくなり彼へ頭を下げる。

 許されるならこの暖かな場所にずっといたかった。

 優しいイニャーツィオの傍で傷を癒し、世間が自分の行った犯罪を忘れ去るまでこの場所に……。


「ナッツォ、もし君が許してくれるなら、私が逮捕されるまでの間、ここにいても良いかな?」


 頭を下げたまま、ほとんどお願いする形でイニャーツィオへそう尋ねる。

 突然頭を下げたクリスティンに面食らったイニャーツィオだったが、その願いを聞いて苦笑を浮かべ緩く首を振る。


「オレはお前のこと好きだっつったんだぜ、クリス。だから、オレからお前のこと手放すわけねぇだろ? むしろクリスがここにいたいって思ってくれてて安心したくらいだ」


 膝の上に乗せられていたクリスティンの手を取って、イニャーツィオは普段通りの笑みを浮かべる。

 その手のぬくもりにクリスティンもまた、安心した笑みを浮かべた。

 クリスティンがイニャーツィオの家へと来てから初めての二人での朝食は、ひどく穏やかなものになった。


 イニャーツィオはクリスティンへ世間話や愛こそ囁けど、クリスティンの犯行動機や犯行経緯のことについては一切尋ねようとしなかった。


 ようやくクリスティンの精神状態が落ち着いたことで無理をさせないために尋ねないようにしているというのも勿論あるのだろうが、それ以上にイニャーツィオはクリスティンのことを恋人として扱いたかった。

 そして、その真摯な想いはクリスティンにも当然のように伝わっていた。


 クリスティンを逮捕するために必要な情報をイニャーツィオは何も聞かず、ただひたむきに愛を伝えてくれる。

 それが、クリスティンは何よりも嬉しかった。


 愛されるということはこんなにも特別で幸せなものだったのかと、感情が心を満たしていく。

 クリスティンはようやく、人間になれた心地がした。


 一度全てを失ったからこそ、その特別がどれほど有難いのかを知っている。この素晴らしいまでの感懐は、皮肉にも失った悲しみからでなければ手に入らないものであった。


 朝食を終え、身支度を整えたイニャーツィオがスーツのジャケットと車の鍵を持って玄関まで歩き出す。

 クリスティンは何も言われていないにも関わらず、ごく自然に圭介の後ろを着いて行っていた。


「家の中は好きに使って良いけど、外には出んなよ。悪いけど家の中で大人しくしててくれ」


 申し訳なさそうにそう言うイニャーツィオにクリスティンは首を振ることで答える。


「私は犯罪者だから。ここに置いてもら

えるだけで満足だよ」


 笑みを浮かべてそう返すクリスティンを見て、イニャーツィオも大丈夫そうだと判断をしたらしい。

 ドアポストに挟まっている新聞をクリスティンへ手渡し、その唇へ口付ける。


「夜には帰る」


「うん、待ってる。行ってらっしゃい」


 軽いキスの感触が互いの唇へ名残惜しさを残したまま、軽い音を立てて閉じたドアが二人を隔てる。



 イニャーツィオが仕事へ行った後、クリスティンは朝食の後片付けを済ましてからベッドルームへ向かう。

 ベッドシーツは所々血痕が残っている。

 掛け布団自体はイニャーツィオが運び出していたため、ランドリーシュートから溢れていたが出勤時間とクリスティンの手当てとの兼ね合いで洗濯まで気が回らなかったのだろう。

 血痕の残るシーツが、イニャーツィオへかけた心労を思い起こさせる。


 ここへ置いてもらう代わりに、何でも良かった、何かをしたい。

 そう決心し、まず目の前に残る血で汚れたシーツと掛布を洗濯することにした。洗濯機を回している間にバスタブやキッチンの掃除をしていく。

 室内掃除自体は、金持ちの居住区のステータスとも言える自動掃除ロボットが忙しいイニャーツィオに代わって勤しんでいた。


 イニャーツィオは、元来そう物欲の無い人間であり、貧困層からのし上がってきたということもあり、部屋の中は質素だった。

 片付いているというよりは、本当に物が無いのだということが見て分かる。

 そのため、掃除も片付けもすぐに終わってしまいクリスティンは手持ち無沙汰になった。


 一人、広い部屋の中をあても無く歩いていたクリスティンの足が何か紙のような物を踏んだ。

 足を除けて持ち上げると、それはどうやらクリスティンが起こした四件目のバラバラ殺人事件の検死解剖報告書のようだった。

 先ほどのターキーサンドが入っていた袋の中から落ちたらしい。


 隠し事や嘘が苦手で実直なイニャーツィオの性格からして、重要な書類を提出し忘れるとは考えられなかった。

 それに、このバラバラ殺人事件での四人目の被害者は、警察からもマスコミからも発表は無く、おそらく事件としてすら取り上げられていない可能性もある。


 クリスティンは、もう悟っていた。

 この四人目の被害者の存在を知る者は圭介と万次郎自身。そして、この解剖に関わったスーとエドワードの四人だけだ。

 昨日の日付の検死結果にも関わらず、公で問題になっていないのはイニャーツィオが守秘を貫いているか、もしくはそんなことをしなくても信頼できる“誰か”へ検死を依頼したのか。そのどちらかだろう。


 イニャーツィオは自分を守るために、あえてこの検死解剖報告書を提出していない。

 クリスティンはそのことに思い至り、イニャーツィオが自分をかばうために危ない橋を渡っていることに酷く当惑した。

 このまま、イニャーツィオに甘えていてはいけない。

 自分を庇うことによって、イニャーツィオまで法を犯すことになってしまう。

 クリスティンは報告書を胸に抱き目を閉じた。


──話そう。全てを。


 クリスティンはそう決意する。自分からイニャーツィオへ、クリスティンの知る限り全てを。

 犯行動機、犯行経緯。

 彼になら、……いや、イニャーツィオでなければならない。


「私は、イニャーツィオ・カザマに、捕まえてほしい」


 どうせ同じように冷たい檻の中へ行くのなら、せめてイニャーツィオに逮捕されたい。

 クリスティンは今夜イニャーツィオに全てを話すことを決意すると、冷蔵庫へ向かった。


「……ナッツォに何か作ってあげようと思ったのに、何も入ってないじゃん」


 ミネラルウォーターしか入っていない冷蔵庫を閉めて途方に暮れていた矢先、クリスティンの目に固定電話機が留まる。

 フォンの上には“CALL ME”と書かれたメモと共に、イニャーツィオのセルフォンナンバーが書かれている。

 何かあった時のことを見越してのことだろう。

 イニャーツィオのらしくない気遣いの細やかさに、クリスティンは知らず知らずのうちに彼へと心を傾けていた。

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