第一五話 告白
ベスのデリで、ターキーサンドにアボカドディップの大盛りをオーダーしたノアがイニャーツィオへ「何も買わねぇの」と尋ねる。
「今日は残業しねぇから。でもノアと同じモン貰うわ」
「え? ナッツォもアボカドディップ大盛り? 食べれるか? ノアはこれで大食いだから分かるけど、ナッツォはそうじゃないだろ」
「マジで? 残業しないなら、オレの仕事手伝って行けよ」
「うるせぇうるせぇ。オレは家でも仕事片付けてんだよ、誰かと違ってな? アフター貰ってもデートする相手もいねぇし。今日も家でゆっくりしとくわ」
大盛りをオーダーするノアに、イニャーツィオはまた余った分を全て片付けさせられるだろう、ノアの部下であるエルヴィス・ガネルを思い浮かべ、内心で彼の胃の無事を祈りながら自身は普通サイズのディップをオーダーする。
オーダー品ができあがるまでの間、ノアはショウ・ケースへ目を向けたまま唐突に話を切り出した。
「クリスティンからどこまで聞いた?」
賭けは成功だった。
ノアからクリスティンの話を引き出すチャンスを得たのだ。
こちらへ視線を向けないノアに構わず、イニャーツィオはノアへと視線を向けて答える。
「特に何も。ただ、こないだのクイーンズのパーティーをお前から聞いてねぇとか、チケットすら貰ってねぇとか、そういうすれ違いからお前対して不安と不信感を持ってるって話を聞いただけだ」
「……ナッツォ、オレさぁ、今は別のヤツと付き合ってんだよね」
サンドイッチを包んでいたベスの手が僅かに止まる。
イニャーツィオは無論、別れているだろうことは察していたため無表情のままだった。
ノアはそれに気が付かないまま続ける。
「クリスティンにはちゃんとした別れ言ってねぇけど、いまはクリスティンよりそいつの方が大事なんだよ。アイツがボロボロに傷ついてたところに会ったのも何かの縁だって思ってるし、これからはそいつのことを大事にしてやりてぇと思ってる。これからはアイツを守ってやりてぇし、ずっと傍にいるつもりでいる。だからクリスティンの傍には、もういられねぇ」
おそらくノアの本心なのだろう。
しかし、クリスティンを想うイニャーツィオからすれば、彼の物言いはあまりにも身勝手すぎた。
他に好きな人ができたからクリスティンを捨てた。
クリスティンを凄惨な姿へ追い込んだ理由を理解して、イニャーツィオはノアを遠慮なく睨み付ける。
ノアは変わらずショウ・ケースへ目を向けておりそれに気が付くことは無い。
ボロボロに傷ついているのはクリスティンも同じだった。
いまの恋人に寄り添ったというならば、それならばクリスティンはどうなるのか。
クリスティンは誰にも寄りかかることもできずに一人苦しんで、苦しみぬいた挙句に心を歪ませ殺人鬼としての自分を目覚めさせてしまった。
クリスティンを歪ませたのは、外ならぬノアだったのだ。彼が原因であると断じてしまっても構わないだろうほどの、純然たる根源。
殴りたいほどの衝動に駆られ、険しい表情でノアを睨み付けるイニャーツィオへ、ベスが声を掛ける。
「会計して大丈夫そう?」
その声にふと、二人共にそれぞれの感情から引き戻されたらしい。
ベスはどこか窘めるような表情でイニャーツィオを見つめている。
それに気が付いているのかいないのか、イニャーツィオは会計を済ませるとイザナと共に外へ出た。
まだ春にも差し掛からない、寒い外気温が、エアコンに火照る肌を擽って体温を下げていく。
二人の唇から白く染まった吐息が漏れた。
再び署まで歩き始めたノアへ、イニャーツィオは確認ともとれる声を掛ける。
「ノアは、まだクリスのことを愛してんのか?」
ちょうど背中へ掛けられることになった問いかけに、ノアは立ち止まりはしたものの、イニャーツィオの方を振り返ることは無い。
しばらくの逡巡の後に首だけをイニャーツィオの方へ僅かに傾け、嘘偽りの無い真摯な表情で彼は答えた。
「もう、愛してない」
────
気が付くと、ベッドの上で眠っていた。
窓の外からは人工的な光以外、入ってはこない。
クリスティンは異様な喉の渇きと空腹、そして凄まじい頭痛に一気に襲われた。泣きすぎから来るものと脱水症状による頭痛なのだろう。あまりの痛みに眉を顰め、頭を押さえる。
両手は手錠に拘束されてはいたものの、昨夜に比べて自由は効いた。
一体どれほどの時間眠っていたのか。
イニャーツィオと今朝会ったことは覚えていた。そういえば彼を引き留めようとして眠らされたのだった。自分が置かれている状況を思い出し、クリスティンは大いに慌てた。
イニャーツィオは仕事へ行ってしまった。つまり、ノアにも会っているはずだった。
いや、会わないはずがない。
彼等は相棒なのだから。
イニャーツィオは、ノアには自分のことを言わないと言っていた。
しかし、刑事であるイニャーツィオが犯罪者であるクリスティンのことを見逃すとは、とてもではないが思えなかった。
今日でなくともいずれ近いうちにノアと共にやってきて自分を捕まえるだろう。
それがイニャーツィオの仕事だからだ。
クリスティンは頭痛も忘れ、再び自殺衝動に駆られた。
仕事も無断欠勤になってしまった。
自宅には誰もいないため、事情すら説明できない。
いや、説明したところで社会的制裁は免れないだろう。自分は殺人鬼なのだから。それより、何よりもクリスティンはノアに自分が罪を犯したということを知られてしまうことが嫌だった。
仕事も、恋人も、自分自身のことが何もかも分からない。
クリスティンは凶器になりそうな物を探したものの、何も見つからなかった。
昨夜からいま現在に至るまでエナジーゼリーしか口にしていないため、窓へ近付く体力すら無かった。
確実に自ら命を絶つ方法すら無いこの部屋で死への欲求のみがただ募っていく。
「死にたい……もう、辛い思いなんかしたくない……、死にたい……っ!」
再び流れ出した涙が不意に手首へと落ちる。手錠で繋がれていながらもこの動けない状況で自殺をする方法。
確実では無かったが、もう一つしか思い浮かばなかった。それに縋るしか無かった。
クリスティンは震える唇を一度強く噛んで落ち着けた後、自身の手首へ思い切り歯を立てて嚙みついた。
死への凄まじい執着が痛みから来る加減を無くし、まるで自分自身を殺しにかかるかのように手首からはボタボタと血が流れ落ちる。
しかし、クリスティンが望む、噴き出すような脈の位置までは到達できなかった。更に角度を変えて歯を立てたところで、幸か不幸かイニャーツィオが帰宅した。
「クリス!? 何してんだ!」
帰宅してコートを脱ぐことも無く、急ぎベッドルームへ様子を伺いに来たイニャーツィオは、部屋に入ったと同時にベッドシーツや服、そして唇から下を血に塗れさせたクリスティンが必死に自分の手首へ噛みついているのを見て驚愕し、慌てて彼女の体を押さえつける。
噛みついていた手首を無理矢理引き離してベッドへ押さえつけるが、クリスティンの方も自殺衝動が膨らみなかなか収まりがつかない。
「邪魔しないで! 死にたい、死なせてよ……! 死なせて、お願いだから、離して!!」
「馬鹿な事言ってんじゃねぇぞ! 大人しくしろ、クリス!」
押さえつけるイニャーツィオの腕を跳ね除け、再度自分の手首へと噛みつこうとするクリスティンの腕を、こちらも息絶え絶えになりながら引き離す。
「ノアにバレるくらいなら死んだ方がずっとマシ……! ノアに殺人犯だって知られるくらいなら自分で死にたいの! 離して!」
いくら押さえ込んだところで、クリスティンは死にたいを繰り返すばかりでこのままでは埒が明かない。
クリスティンの手首の止血も急がなければならないのだ。
イニャーツィオは、彼女の自殺を止めたい一心でつい、例のあの言葉をクリスティン本人へ突き付けてしまった。
「クリス! ノアはもう、お前のことを愛してない」
「……!」
クリスティンの抵抗が止む。
驚愕に見開かれた光を失ったアイスブルーの瞳が、硝子玉のようにイニャーツィオを見つめる。
抵抗が収まったのを見計らって、すかさずイニャーツィオはクリスティンの手首をタオルできつく巻き止血を施した。
「だから、……お前が殺人犯だって知っても、ノアはもう何とも思わねぇよ」
「……」
先ほどまでイニャーツィオを突っぱねていたクリスティンの両手は一気に力を失い、ベッドの上へ沈んだ。
まるで海に浮かぶ白魚のようにも見える、血の気の失せた腕。
しまった。そう思ったのは後の祭りだった。もう全てを話してしまっていた。
確かにノアは既にクリスティンのことを愛していないと、そう言い放った。
そんな残酷な現実に見舞われながらも、ボロボロになってノアのために自身の死生観を賭するクリスティンの姿を、イニャーツィオはもう見ていられなかった。
限界だったのだ。
あまりにも惨憺にすぎる。
衝動から発してしまったとは言え、あまりにも直接的であったためイニャーツィオは緊迫した面持ちでクリスティンを見つめた。
沈んでいた万次郎の顔が僅かに上を向く。
意外なことに、クリスティンの表情はイニャーツィオが懸念していたものとは全く違っていた。
瞳に、イニャーツィオが愛したあの輝きが戻っている。
澱みの無くなった瞳は今、まっすぐにイニャーツィオの姿を捉え自嘲気味に笑って見せた。
まるで、憑き物が落ちたかのような表情だった。これには逆にイニャーツィオのほうが面食らった。
とりあえずクリスティンの口元の血液を拭ってやりながら彼女の様子に当惑していると、クリスティンが静かに唇を開く。
「……ホントは最初から知ってたんだ。でも、ノアがはっきり言ってくれなかったから、……そこに執着したのかもしれない。気付いたら、自分でも抑えの効かない化け物になっちゃってたよ」
「クリス……」
クリスティンは一度目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。肺の中に新鮮な空気を取り込んでから再び目を開けた。
瞳がすでに涙の膜に覆われているのを、イニャーツィオは見た。
悲しい自嘲を浮かべたまま、クリスティンは続ける。
「ノアを、浮気相手のカミラに会わせないために殺人を犯したの。それがノアにバレるくらいなら死のうって思ってた。でも……結局私はそこまでやっても、思いつめても何も得られなかったんだね。……ノアから愛される立場を失って、自分で死ぬこともできなかった。浮気相手のカミラを恨むこともできなくて、大事な友達だからって傷付けることもできなくて、結局私の知らない人を両手の数以上に傷付けて、殺したんだ」
イニャーツィオはただ、クリスティンの言葉に耳を傾ける。
余計な口は挟まず、ただ聞くに徹していた。クリスティンの眦から溜まった涙が落ちて頬を伝う。
「ナッツォ、私、どうしたら良かったんだろう。……愛されもしない、自殺もできない、私は……これからどうしたら良い?」
大粒の涙と共に見せられた痛々しいまでの絶望に瀕した笑みに、イニャーツィオは堪らずクリスティンの体を抱き締めた。
「……これからはオレに愛されとけよ」
「……えっ?」
「クリス、お前はオレのことを好きにならなくて良い。ただ、この気持ちをもうオレの中に留めておけねぇ。それくらいお前に対する気持ちはでかくなってんだ。オレは……クリスのことを愛してる」
突如イニャーツィオから告げられた胸中に、クリスティンはただ涙に濡れた目を見開く。
全く予期しないことだった。
驚きが感情を上回り、言葉が出ない。
ただ自分を見つめ返し瞬きを繰り返すクリスティンへ、イニャーツィオは彼から体を離すと再び彼の体を優しくベッドへ横たえる。
未だに理解の及んでいない表情を浮かべるクリスティンの唇へ、自身の唇を重ねる。
性的なものを一切感じさせないその口づけに、クリスティンは嫌悪感を抱かなかった。
むしろ、胸を覆っていた暗雲が一斉に晴れ渡っていく気すらした。
唇を離したイニャーツィオは、その精悍な顔に笑みを浮かべ、自らもクリスティンの血液に塗れたシーツへ横になると、嚙み千切られた手首へと唇を寄せるようにきつく抱き締めた。
「血が止まったら手当てしようぜ。それまでおやすみ、クリス」
自分以外の口から「おやすみ」を聞いたのはいつぶりだろうか。
ノアがカミラに惚れ込んでからずっと、一人で長く苦しい夜を過ごしてきたクリスティンにとって、その言葉は酷く懐かしいもののように思えた。
そして、何より人のぬくもりがこんなにも優しいものだったということにようやく気が付いたクリスティンは感懐に胸を締め付けられる。
不安、恐怖、辛苦といった負の感情と一人で戦ってきたことからの解放と、そこから来る安心感に気が抜けたのだろう、クリスティンはイニャーツィオの腕の中で、彼の体温に縋るように静かに泣いた。
それはノアから別れを受けた悲しみからのものなのか、またはイニャーツィオから素直で真摯な愛を受けた喜びからなのか、それはクリスティン自身にも分からなかった。
昨夜、そして今日とほとんど寝ることのできなかったイニャーツィオはすっかり深い眠りに入ってしまっている。
泣くことに疲れたクリスティンは、いつの間にか規則正しい寝息を立てているイニャーツィオの寝顔を見つめていた。
そうやってイニャーツィオを見つめているうちに、自分を抱き締めるイニャーツィオの腕があざだらけであることに気が付く。
おそらく、いや確実にクリスティンが死にたいと暴れていたのを押さえ込んでいた時についた傷だろう。
ノアとは違う、黄色味がかった白い肌に痛々しい青あざや切り傷がそこかしこについているのが見受けられる。
この傷が物語るのは、自暴自棄になり死を願うクリスティンへ真正面からぶつかり、全力で向き合おうとしたイニャーツィオの想いの深さに他ならない。
「ごめんね、ナッツォ」
クリスティンは手錠で拘束されたままの両手でイニャーツィオの手を握り、目を閉じる。
クリスティンの表情がいつの間にか穏やかな笑みへと変化する。
彼女の眦から新しく流れた涙は、決して悲しさからのものでは無かった。