第一三話 探りと動揺
「クリス、どうする? お前がこのまま何も食わないなら、オレは仕事行くけど」
イニャーツィオの口から仕事に行くという言葉が出た途端、クリスティンの表情が変わった。
イニャーツィオの仕事は刑事であり、ノアとも会うことになる。
ノアが自分を迎えに来る。
一気にそこまで思考が回り、クリスティンは大きく目を見開いたまま首を激しく横に振る。
「い、嫌だ……行かないで、行かないでよ……」
手錠で拘束された両手で、イニャーツィオのシャツを握り締め懇願を繰り返す。
呼吸は浅く、速い。
過呼吸になりかけてすらいた。
「落ち着けって。とにかく、今日はノアにもこのことは伏せとくから」
「やだ、行かないで……行かないで、ナッツォ……お願い……」
再び興奮し、安定しなくなってしまったクリスティンの精神状態に、イニャーツィオはそれを諫めようと手っ取り早い条件を提示した。
「じゃあ何でも良いからさ、何か食えよ。仕事に行かせたくないなら、それくらいできんだろ?」
クリスティンの口からしきりに繰り返される「行かないで」は、決して自分に向けられているものではないとイニャーツィオは理解している。
全てはノアに、クリスティン自身が殺人犯である事実を知られたくないがためだった。
それでも、必死に縋ってくるクリスティンを、イニャーツィオ自身無碍に振りほどくことができないでいた。
憫笑を買ったものだと自嘲していると、おもむろにクリスティンが掴んでいたシャツを離してある一点を指さす。
「そのゼリーなら、食べれるかも」
クリスティンが指さした先には、先ほどイニャーツィオが朝食と共に持ってきたエナジーゼリーが転がっている。
どうあってもイニャーツィオに出勤させたくないらしい。
イニャーツィオが「ノアには言わない」と言及しているにも関わらず、信用されていないことを多少残念に思いながらも、イニャーツィオはゼリーを取り、クリスティンへと手渡してやった。
片手で飲める手軽なゼリーを、クリスティンは拘束された両手で持って、少しずつ嚥下していく。
半分まで飲んだところでクリスティンは飲み口から唇を離す。
未だクリスティンの上体を支えているため至近距離に見える、クリスティンの濡れた唇がイニャーツィオの視線を奪う。
仕方がない状況だったと言え、一度知ってしまった温もりと柔らかさをもう一度味わいたいと強い衝動となって首を振る。
自分をごまかすためにイニャーツィオは、クリスティンの眦に残る涙を泣き腫らして赤く染まる目元へ触れて拭ってやる。
再びクリスティンがゼリーの飲み口へと唇を付けた時だった。
その両手からゼリーのパックが落ちる。体はゆっくりと傾ぎ、頭すらイニャーツィオの肩に凭れている状態になっていた。
突然押し寄せてきた眠気に、クリスティンは自分の体を支えることもできず、イニャーツィオへ全てを委ねてしまった。
「……ぅ、……すごく、ねむい……」
「クリス、ごめんな。体に負担はかからねぇ薬だから」
そう告げたイニャーツィオは、クリスティンを何とか抱えるとベッドへ寝かせ、上から布団をかける。
水を口移しで飲ませる際に、経口の睡眠導入剤を含んで口内へ流し込んでいたのだ。
自分が仕事へ行っている間に逃げないようにという思惑とは別に、クリスティンの身の安全のために拘留しておける方法を模索した結果のことだった。
「い、やだ……いかないで、……ノア、ノアにいわな、で……」
暴力的なまでに強制的な眠気に襲われ、クリスティンは立ち上がるイニャーツィオへと手を伸ばして追い縋ろうとする。
そんなクリスティンの手を取り、イニャーツィオは一度ベッドの傍へ屈んで彼女の頭を優しく撫でる。
「ノアには絶対言わねぇって約束する。オレを信じろ。夜には必ず戻るから、だから大人しくしとけよ」
クリスティンの目は既に閉じられてしまっていた。
しかし、唇だけは必死にうわごとのように「行かないで」を繰り返す。
徐々に言葉が途切れていき、完全に眠りにつく手前でクリスティンは、まさに彼女の本心とも言える言葉を、小さな小さな声で呟いた。
「……のあ、なんで……わたしを、すてたの……」
クリスティンのうわごと、もしくは寝言とも取れるその呟きにイニャーツィオは驚愕し、目を見開く。
よく見ると、薬で強制的に眠らされているにも関わらず、クリスティンの頬には涙が一筋流れていた。
やはりクリスティンとノアの間に何かあったのだとイニャーツィオは思索する。
それも、彼女の言葉の通りであれば、クリスティンはノアに“捨てられた”らしい。
思えば、クイーンズで開かれたあのパーティーの時からすでにクリスティンとノアの仲は不穏だったのかもしれない。
イニャーツィオは、完全に眠りについたクリスティンの手錠で繋がれた両手をゆっくりと布団の上へ下ろすと、彼女の決して穏やかとは言えない寝顔に、せめて良い夢を見られるようにと、その白く丸い額へと口づける。
朝食を片付けた後ネクタイを締め、車の鍵とスーツのジャケットを掴み、助手席へそれらを投げて再びリビングへと戻る。
そして、昨晩クリスティンから押収した、あの死体詰めのゴミ袋を後部座席まで運び込む。
ようやく自身も運転席へと乗り込み、シートベルトを固定する前にノアへと連絡を入れる。
七回目のコールでやっとノアに繋がった。
物臭な彼は二、三回目のコールで出た試しが無い。
『ナッツォか? 珍しいな、まだ出勤してねぇの。クソ真面目に毎日早く出勤してるクセにどうした?』
電話に出て早々、遅刻を指摘してくるノアに、イニャーツィオは先ほどのクリスティンの様子を思い出してしまい、軽く流すことができなかった。
かけたのは自分にも関わらず、出てすぐに黙り込む圭イニャーツィオに、ノアも怪訝そうな声音で問いかける。
『ナッツォ? 聞いてんのか?』
「ああ、悪い悪い。トラッシュバッグキラーのことで頭いっぱいだったわ」
気が引き戻されたらしいイニャーツィオがエンジンをかけながら、今度こそノアへ話し始める。
「フィッツジェラルドのスー医師のとこ寄ってから行く。もうちょい遅くなるからアンディの機嫌取っとけよ」
車内が寒いため、BAMPを押して空調調整するも、結局ゴミ袋の中に納められた生鮮物を考慮し、結局空調を消した。
電話口のノアへ伝えた、“トラッシュバッグキラー”の名前と、新たに制作された死体詰めのゴミ袋を視界に入れ、イニャーツィオは一つの仮説へと辿り着く。
──クリスは、自分を捨てたノアの気を引きたくて殺人を犯したのか?
刑事である恋人の意識を、全く違った感情の切り口ではあるもののひきつける方法はたった一つ、事件しか無かった。
憶測に過ぎないが、もしそうだったなら逆に、クリスティンがそういった考えに陥るほどの懊悩に苦しめられていることになる。
イニャーツィオが巡査時代のTask Forcesで、彼は幾人ものシリアルキラーと対峙してきた。
ナチュラルボーン・キラーである者などほんの一握りでしか無く、みんながみんな、何らかの心の闇をたった一人で抱え過ごしてきた者ばかりだった。
普段も犯人と共に向き合おうとするイニャーツィオである。
それが、今回は彼の懸想の相手、クリスティンが犯人だ。“刑事として正当かつ正義に則った判断を”と頭で分かっていても、イニャーツィオの心はクリスティンが胸中を引き裂かれたであろう煩悶を推し量ってしまってその先を見ることができないでいた。
むしろ、寄り添ってしまっている。
「……なあ、ノア。クリスと何かあったか?」
一度考えだしてしまったら最後、どうしても疑問を解消したくなるのがイニャーツィオという人間だった。
今度は、ノアの方が押し黙ってしまう。
おそらく何かしら動揺しているのだろう。イニャーツィオはその間に片手でシードベルトを締め、ミラーを開く。
「お前には関係ねぇだろ。大体、何でそんなこと聞いてくんの?」
やはり、何かあったのだ。
イニャーツィオはクリスティンが呟いていた「どうして捨てたの」という言葉が、本格的にノアがクリスティンを捨てたことを指すのだと確信を持つ。
それに、ノアの返答も、もし本当に何も無ければいくらでも否定やはぐらかしができるはずだった。
しかし、それもしない。ノアの性格上、嘘を吐くという行為は酷く苦手で壊滅的に下手だった。
言葉を煙にまくということは、ほぼ確実にイニャーツィオの「何かあったのか」という問いを肯定していることになる。
とは言え、自身の方にまで猜疑を掛けられた状態で、これ以上今のノアから何かを聞き出すことは難しい。
どうせ、このまま今すぐには会わないのだ。
ならば、一つ布石を投じてみるかとイニャーツィオは賭けに出た。
「実は、こないだのクイーンズのパーティーあっただろ。それ以来クリスからオマエに対する相談を受けてんだよ。あんま“恋人”を困らせてやんなよ」
そう言ってすぐに通話を切る。
もちろん、相談なんて受けていなかった。ノアがクリスティンを何らかの理由で傷付け、捨てたことも憶測ではあるものの確認はできた。
それらを理解したうえで、敢えて彼等を恋人として並べたのだ。
自分はあくまでも何も知らないという振りをしつつ、ノアがどうしてクリスティンを捨てたのか、クリスティンを殺人犯に至らしめるまでの懊悩へ追い詰めたのは何だったのか。
それらを、探らなければならない。
泣き腫らした顔のまま、ベッドで強制的に眠らせてある惨憺なクリスティンの、ボロ雑巾もかくやという姿はイニャーツィオの正義感と庇護欲を滾らせる。
「クリス……」
イニャーツィオはセルフォンをドライブマナーへと切り替えて助手席へ投げると車を走らせた。
まるで、今の想いを振り払うかのように法定速度をギリギリ守る程度に飛ばして。
一方的に切られた通話に、ノアはデスクの上へとセルフォンを投げ捨てた。
その表情は非常に苦々しい。
相棒の……イニャーツィオの口からクリスティンの名前が挙がったのだ。
それも、クリスティンはイニャーツィオへ何らかの相談を持ち掛けているらしい。
ノアにとってそれは別にどうでも良いことだった。
もとよりボロボロだったカミラに庇護欲をそそられ、気付けばそちらのほうが愛しい存在となっていた。
そのため、自然とクリスティンを捨てる形になっていた。
彼にとっては、ただそれだけのことだった。
クリスティンに対して別れを告げていないのは、ノア自身自分に責任があることは分かっている。落ち度についてもきちんと理解はしていたし享受もしているつもりだった。
ノアが気にかけている部分はそこでは無く、相棒のイニャーツィオにそれらすべてが知られてしまっているか否かだった。
完全に自身のプライベートとは言え、そんなつまらないことで尊敬する相棒から軽蔑の意を向けられるのは避けたかった。
すでに知られていることならば、後々クリスティンとのことをあれこれ言われなくても済むよう、イニャーツィオには全て話しておいても良いかもしれない。
先ほど投げたセルフォンにメールが入ったらしい。
けたたましく受信音を鳴らす端末に、ノアは未処理の書類で溢れかえった机の上を引っ繰り返しながら先ほど投げてしまったセルフォンを探す。
この音はカミラのものだった。
ようやく見つけたセルフォンの決定キーをタップしメールを開くと、カミラの自撮り画像が添付されていた。
画面いっぱいの眩しいばかりの笑顔だった。どうやら一人か、もしくは友人とタピオカを買いに行ったらしい。
ノアの表情が柔らかくなる。
「可愛らしい子ですね、ご友人ですか?」
突然背後から声を掛けられ、ノアは慌ててセルフォンを閉じる。
どうやらカミラの写真を見られたらしい。画面いっぱいに映っている写真だ。後ろから見れば、わざわざ覗かな