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ゴミ袋に詰めた恋  作者: 田中
第三章 トラッシュバッグキラー
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第一二話 口付け

 昨夜の修羅場から何一つ状況は変わらないまま、クリスティンとイニャーツィオは朝を迎えた。

 二人共に、一睡もしていなかった。


 昨夜の二二時頃、ただひたすら啜り泣いて俯くクリスティンに、イニャーツィオは「夕飯は?」と問いかけたものの、クリスティンは何も応えなかった。

 事実、クリスティンは昨晩から何も口にしていない。たった一口の水分すら、唇を湿らすことすらなかったのだ。

 そんな状態で延々と泣き咽び、おまけに寝不足と疲労も相俟って、イニャーツィオに対して抗う力は完全に失われていた。


 一晩中泣いていれば流石に涙も枯渇するのか、クリスティンの頬を濡らすものは既に見当たらない。

 イニャーツィオがかつて恋をした、彼のアイスブルーの瞳は憐憫打ちひしがられる想いによって流れ続けた涙のせいで、赤く腫れてしまっている。

 クリスティンの背後にある窓から差し込む朝の日差しが、窮余した彼女の姿を無情にも白日の元へと照らし出す。

 その姿はあまりにも痛々しく見ていられないほどだった。


 自宅で仮眠をとるつもりだったイニャーツィオは、結局バスタブに浸かることはおろか、クリスティンのことが心配で一睡もできなかった。

 自分が目を離したら自死を選んでしまうのでは無いかと思うほどに、いまのクリスティンの存在は希薄に思えたのだ。

 イニャーツィオはただ、クリスティンの傍へいてやりたいという一心で、誰にも連絡をせず彼の隣にいた。

 それは警察官としてでは無く、完全にイニャーツィオ個人の私情であった。


 午前四時三〇分。

 朝刊が投げ込まれる音と共に、一度ベッドルームを離れてイニャーツィオは簡単にシャワーを浴びると、そのままルームウェアでは無く、スーツのタイトスラックスとシャツへと体を通す。

 そのまま出勤するつもりなのだろう。


 いつもなら、朝食は署の近くのカフェで新聞を片手にモーニングを食べているものの、現状ではそうもいかない。

 昨夜から飲まず食わずのクリスティンをベッドルームに抱えているのだ。

 凝った料理こそできないまでも朝食くらいならと、イニャーツィオはどのくらいぶりになるのかも思い出せないほど久々にキッチンへと立った。


 冷蔵庫とフリーザーのありあわせでエッグプレートを作り、ボイルシュリンプへ部下のランスから聞いた、美味いと噂のドレッシングをかけてからクリスティンのいるベッドルームへと戻る。

 消費期限は間近だったものの、匂いは問題無い。

 少量ずつであっても口にできるものが残っていて助かったと、イニャーツィオは内心胸を撫で下ろす。

 自分が食べるには自己責任だが、それをクリスティンへ振る舞うのだから、そこは重要事項だった。


 朝食と共にミネラルウォーターやプレーンバンズ、エナジーゼリーなどを多様に用意してクリスティンの前へそれらを置いた。

 何が何でも食べさせるつもりらしい。


「おはよう、クリス」


 木目のフローリングへ直に座り込んだまま俯き、クリスティンはひたすら自分の靴を見つめていた。

 よく見ると、グレーの踵部分が赤茶色に染まっている。

 返り血だ。


 沈黙を守る相変わらずの様子に、イニャーツィオは一度嘆息する。

 エッグプレートを持ち上げ、フォークで刺してからクリスティンの口元へ当てた。

 無論、食べない。

 そもそも唇を真一文字に引き結んで開こうとしないのだ。


「食えよ、昨日から何も食ってねぇだろ」


 イニャーツィオの言葉にも首を横に振って拒絶する。

 単純に空腹でないというだけでなく、クリスティンの意図することは他にあった。

 食べるということは、彼女にとって生きるということに他ならない。そう完全に認識したうえで、彼女はいままさに生きることを放棄しているのだ。


 クリスティンは、たしかに死を願っていた。

 昨夜イニャーツィオに見つかり、ゴミ袋の中の死体を見られたうえに、彼を消すことにも失敗した。

 挙句の果てに、その目撃者によって自分は囚われているのだ。


 イニャーツィオは刑事であり、そしてノアの相棒だ。

 イニャーツィオは、確実にノアへクリスティンのことを伝えるだろう。

 そうなればクリスティンは殺人犯としてノアの前へ晒されることになる。

 世間の目は、どうだって良かった。クリスティンにとって最も恐れることは、他でもない恋人であったノアに、自分の犯した殺人を知られてしまうことだった。

 たとえ、その殺人の原因がノアへの想いだったとしても。


 あまりにも悲壮な考え方だったがいまのクリスティンにしてみれば、このやり方がいまできる中で最良だったのだ。

 恋人に捨てられ、想いは捨てきれず、懊悩した末に殺人で手を汚した。

 そして、計画の途中で想い人の相棒に捕まっている。


 クリスティンにとって、あまりにも選択肢が狭窄すぎた。

 数少ない中で唯一自分をこれ以上みじめに貶さない方法が自殺しかなかったのだ。

 だから、クリスティンはどうしても死にたかった。


 幾度かクリスティンの口元へフォークを運び、すべて門前払いを受けたイニャーツィオは、仕方なくそれをすべて自分の口へ運んでいた。

 しかし、自身がこのまま仕事へ行っても彼は自発的に水分も食事も摂らないだろうことは想像に難くない。


 朝食を作っているときにそれは一番に思いついたものの、極力行いたくない、行わないよう努めたいと思っていた。

 そのため、イニャーツィオは言葉を発するまでに少し躊躇った。

 しかし、これを実行に移さなければクリスティンはいずれ、自分の家の中で自死してしまうだろう。

 匿いながらも想いを寄せる相手を自宅で死なせるなど、イニャーツィオにとってはありえないことだった。

 フォークとプレートを一度床へ置き、今度はミネラルウォーターのペットボトルを掴む。


「いまから、お前に酷いことをするから先に謝っとく」


 そうイニャーツィオへ断っておいてから彼の顎を掴み上を向かせると、ミネラルウォーターを口に含み互いの唇を重ね彼の口へと無理矢理流し込む。


「……っ!? ん、ぅ……」


 完全に不意を突かれた形で水分を口内から体内へと流し込まれたクリスティンは、イニャーツィオの唇が離れたと同時に、酷く噎せ返った。


「悪い、流石に強引すぎたよな。でも、やっと水飲んでくれてスゲェ安心した」


 頭では食べたくないと思っていても一度枯渇した体内へ水分を受け入れれば次に襲ってくるのは空腹だった。

 先ほどまで何とも無かった内臓が空腹を訴えて空の腸内を蠕動させようとするため、クリスティンは軽度の痛みを覚える。


 イニャーツィオは昨夜からずっと拘束し続けていたクリスティンの両腕をブラインドから外してやった。

 依然、手錠は掛けたままに。

 強制的に挙げさせられていた両腕は、同じ体制を取らされていたことで痺れてしまっており、腕が解放されたのと同時に、クリスティンは床へと前のめりに倒れてしまった。


「クリス!」


「……お腹、空いてるとホントに力入らないんだね」


 なんとか自力で体を起こそうと藻掻くクリスティンの体を、イニャーツィオが支え起こしてやる。

 イニャーツィオに甲斐甲斐しく支えられたまま、クリスティンは不思議そうな表情でイニャーツィオを見つめる。

 顔の距離が近かった。度重なる徹夜で荒れた肌も見えるほどに。


 クリスティンの顔を見るイニャーツィオの表情が、クリスティンから見てもいままでと違って見えた。

 どれほど惨憺な状況であっても、普段から溢れる熱意をどうしても奥底へ押し込めようと、冷静であろうとするイニャーツィオの見たことのない表情を、これだけ近くで見ていれば流石に気が付くらしい。


 実際、イニャーツィオはクリスティンへの想いを匿いきれなくなっていた。

 ノアのものであると理解はしていても、自分の前で腕の中でボロボロになって苦しむクリスティンの姿を見てしまえば、手を出してしまうのも仕方がなかった。


 むしろ、見て見ぬふりをしろというほうが無理な話だった。

 水を飲ませるために触れた、乾燥して硬くなった皮膚の触れる唇の感触ですらイニャーツィオは愛しいと感じていた。

 それらの想いが、普段真剣な表情を浮かべていれば怜悧な雰囲気すら纏って見える彼の表情を柔和にさせたのだろう。


 クリスティンへ向けているイニャーツィオの表情は優しい。

 まるで、子を想う母もかくやといった眼差しだ。

 クリスティンと目が合ったことで何かに気が付いたのか、イニャーツィオはベッドサイドに飾ってある時計へ目を向けた。

 午前六時丁度。

 予定していた出勤時間だ。

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