軍靴の前に薔薇を
3264年8月末、急ピッチで進められたファルケンハイム州への親征の準備は、ほぼ完了していた。革命軍の規模は日に日に膨れ上がり、その数実に8万人にまで増加していたが、国王アルチュール・フォン・ヴェルナー率いる親征軍は、これを上回る9万7000人の兵力を投入して親征を敢行しようとしていた。
アルチュールは、親征に向かう前に一人の女性と会うことを希望していた。彼女の名はすなわちハウゼン公爵令嬢、アレクサンドラ・フォン・エングフルト=ハウゼンであったが、その機会は意外と簡単に訪れた。親征に出立する前日、数十人の貴族やその奥方・令息・令嬢と共に舞踏会に参加することになったのである。
会場となったのは王宮内の貴族街にあるヴァイスフェルト伯爵の屋敷で、8月29日夜、アルチュールら参加者達は屋敷の大広間を礼装の群で埋め尽くしていた。天井には水晶のシャンデリアが煌めき、壁面には肖像画と金の装飾が施されている。貴族文化の粋を極めた空間にあっても、今夜は一層の華やかさが満ちていた。
華やかな舞踏音楽が流れ、紳士淑女たちは互いに踊る相手を探す。見つかったら手を取って、親征という厳しい現実から解放されようとしていた。アルチュールは濃紺の衣裳に身を包み、一心不乱にアレクサンドラ嬢ただ一人を探して会場を歩き回る。時折他の令嬢に誘われ、少し舞踏を楽しんでも、その後には再びアレクサンドラを探し出す。
やがて、大広間の奥から一段と華やかな笑い声が聞こえてきた。視線を向けると、柔らかな灯のもとに浮かぶ薄桃色のドレスが目に入る。
アレクサンドラはハウゼン公爵夫人と一緒に、穏やかな口調で会話を交わしていた。栗色の髪が艶やかに揺れ、焦茶色の瞳が凛とした光を宿している。
アルチュールは胸の高鳴りを感じながら、アレクサンドラに歩み寄った。
「アレクサンドラ嬢、踊っていただけませんか」
アレクサンドラは微かに驚きながらも、すぐに礼儀正しく頭を下げた。
「陛下のお誘いをお断りする理由などございません」
優雅なワルツの旋律が流れる中、2人は手を取り合い、広間の中央へと進む。
アルチュールの舞踏は、まさしく宮廷に生まれ育った貴公子のそれであった。美しく、洗練された、そして巧みな彼の舞いに、踊らずに舞踏を観る者たちも圧倒されていた。
しかも、アレクサンドラの歩調に細やかに合わせており、そこからアルチュールの心の優しさも窺える。
舞踏が終わると、アルチュールは踊る人々の輪の外で、赤ワインと料理で腹を満たしていた。この後アルチュールは、ともすれば戦場よりも勇気を消費しなければならない計画を実行せねばならない。腹ごしらえは必要だった。
白石灰の壁に飾られた金縁の時計が午後8時を打つ。アルチュールは会場を抜け出して玄関へ向かい、事前に侍従に手配させた馬車に乗り込む。
鼓動の乱れを必死に抑えながら、アルチュールは流れる夜の貴族街の光を見つめていた。これら一つ一つの光にひとりの貴族、ひとつの家族の物語があるのだ。革命戦争によって、このうち幾つもの光が失われるのだろうか。
不意にアルチュールが肩を落とした時、馬車は貴族街の花屋に着いた。アルチュールは琥珀色の髪をかき上げ、道路へ降り立つ。国王が花屋を自らの足で訪問するなど、本来あり得ない事ではあるが、この夜だけは、形式よりも心が勝っていた。
アルチュールが数人の近衛兵を伴って店に足を踏み入れると、店主は突然の深夜の来客に慌てたが、アルチュールの姿を見ると、その慌て具合はさらに増した。
「驚かないでもらいたい。余は花を求めに来たのだ」アルチュールは落ち着き払って言う。
「…こ、これはこれは陛下…何を御所望でしょうか、何なりとお申し付けください」白髪の店主は、アルチュールの放出する冷静の微粒子を吸い込み、何とかそう返答した。
「真紅の薔薇を所望する。一本だけで良い。それも最も美しいものを」
アルチュールの言葉に、店主は花の保管された棚に向かう。丹念に手入れされた赤薔薇の中から、最も鮮やかで大輪のものを選び、国王の象牙色の手に差し出した。
「陛下、こちらで良うございましょうか。最も上質なものをお選び致しました」
その薔薇は、まさに真紅の薔薇であった。花弁は絹のような艶やかさと、紅玉のような鮮やかな色を持ち、真っ直ぐな茎には、凍てついた針のような棘がひそんでいた。
アルチュールは深く頷くと、シューネスラント初代国王・ヨハン1世の肖像の刻まれた金貨を2枚、差し出した。
「感謝する。良い花だ」
アルチュールは馬車へ戻り、会場へ戻るよう運転手に命じる。
数十分後、馬車は再びヴァイスフェルト伯爵の屋敷の前に停まった。夜も深まり、貴族街は静寂に包まれているが、未だに屋敷の中は賑やかさを保っている。アルチュールは馬車を降り、警備の兵士へ低く声をかける。「ハウゼン公爵令嬢へ、こっそりと伝えてくれ—陛下が外でお待ちです、と」
「御意」兵士は屋敷の中へと入っていく。
しばらくして、屋敷の扉がゆっくりと開いた。ドレスを纏ったアレクサンドラが姿を現し、ドレスの裾が夜風に揺れる。
「陛下…急にどうなさったのですか」
「アレクサンドラ嬢、こちらへ」
2人は玄関先の庭園に立った。月光が2人を静かに照らし、包み込む。
「アレクサンドラ嬢、私は初めて貴女と出会った時から、ずっと貴女に惹かれていた。一日として貴女を忘れた日はない。そしてこれからは、ただ王室とハウゼン家の関係というだけでなく…一人の男として、貴女とお付き合いしたいのです」
「陛下…」
「貴女しかいないのです、アレクサンドラ嬢。私は、貴女のことを心から愛しています」アルチュールは胸を高鳴らせながら、アレクサンドラに薔薇を差し出した。
アレクサンドラは、その象牙色の手から薔薇を受け取ると、ほんの一瞬、その指先を花びらに添わせた。
「…なんと、美しい薔薇でしょう」
焦茶色の目と、濃藍色の目とが真っ直ぐに見つめ合う。
「尊敬する陛下に、その言葉を贈って頂き、私は幸せでございます。陛下…私もでございます。私も、一人の女として、陛下をお慕い申し上げます」アレクサンドラは目を潤ませて言った。
「それが聞きたかった、アレクサンドラ嬢」アルチュールも濃藍色の目に涙を浮かべ、アレクサンドラの言葉に答える。
「陛下、どうかご無事で帰ってきてくださいませ。きっと陛下は勝利なさいます。私は王都で、陛下のお帰りをお待ちしております」
その言葉に、アルチュールは深く頷く。
「余は必ず帰ってくる。貴女とまたお会いするために」
アルチュールはアレクサンドラと別れ、静かに馬車へと向かっていく。
2人はこの時、満月は永遠に、自分たちを照らし続けるのだと信じて疑わなかった。月が欠けることを、まだ想像などしていなかった。
翌30日、国王アルチュール・フォン・ヴェルナー率いる親征軍は王都を進発し、革命軍の待ち受けるベーレンバッハへと向かう。シューネスラント史上最大の内乱が、幕を開けようとしていた。
続く