個性の価値は
美大に行きたかった俺は見事受験に失敗してしまい浪人するかどうかも迷ったのだけど結局浪人はせずにその時たまたま目に留まったファッションの専門学校へ行くことに決める。最終的にファッションの専門学校を選んだ理由はいくつかあるけどそれなりにファッションが好きだし美術もファッションも似たようなところがあると思ったからだ。
ファッションの専門学校に進学して驚いたのは色んな人がいるということで俺みたいに高校を卒業してすぐに進学する人もいれば大学を卒業した後にやってくる人もいるしさらに社会人を数年経験してから学び直しとしてやってくる人もいる。それでも基本的に若い人が多く前述のとおり色んな人がいるから俺は学校に行くのが楽しくなる。
けどファッションの勉強は難しい。洋服を作るためにはデザインしなければならないしデザインするのがデザイナーの仕事でさらにデザイナーがデザインした洋服を型紙に起こす作業が必要になる。型紙というのは早い話が服の設計図みたいなものでそしてその洋服の型紙に起こすのがパタンナーという職種だ。俺はファッションの専門学校に進んだというのにこのパタンナーという職種を全く知らなかった。俺はパタンナー志望というわけじゃないけどファッションの専門学校に入ったというのに卒業後の進路を全く考えていないのだ。俺ってどんな職種が適してるんだろう?デザイナーは?パタンナーは?とにかくどんな職種を目指すべきか迷ってる。
俺がこの学校で最初に友達になった美沙さんという女性はパタンナー志望だった。彼女は俺の四つ上で二十二歳。ペット系ユーチューバーのもちまる日記のもち様みたいな瞳をしていて美大を卒業してからファッションの専門学校に再び進学したという人で美大時代は主に日本画を描いていたらしいのだけど元々ファッションも好きでその勉強がしたくなったらしい。彼女は洋服をデザインするというよりもデザイン画を形にするための型紙に起こすパタンナーに憧れてるみたいだ。
パタンナーになるためにはファッションの専門学校に通って洋服のパターンの勉強をして就職試験でパターンをキレイに引かなければならないみたいで今はどこの企業もCADを使って製図するようだけど就職試験は手書きだからしっかり勉強しないとまず試験に受からないらしい。
すごいな。入学したばかりだというのにもう確固たる目標があるのだから。
俺は再び自分のしたいことを考えるけど答えは出ない。あれこれ模索してみるけど何がしたいんだろう?とりあえずファッションの専門学校に進学したのはいいけど早くも目標を失いつつあるし俺はあまりにもファッションの世界に対して無知だ。コミックマーケットでカタログを持たずにお目当てのサークルを探すみたいな感じだし何しろパタンナーというファッションの世界にいるなら当然知ってるべきである職種を全く知らなかったのだからもっとそれについて知る必要があるだろう。
そんな中、ある日俺は学校の休憩所で美沙さんと出会い話し始める。
「蒼くんは絵を描くの好き?」
と美沙さんが聞いてくる。美沙さんはヨウジヤマモトのベージュのトレンチコートにほっそりとしたブラックデニムを合わせてる。肩まで伸びるライトブラウンの髪の毛が春の風をまといしなやかに揺れている。おまけに彼女はどんな時もしっかりメイクをしてるから女子力は高いんだろう。スタイリッシュなその格好はファッション業界の業界人みたいだ。絵を描くのが好きか?と聞かれたけどどうなんだろう?
「まぁ好きですかね。事実一度は美大を目指したわけですし」と俺。
すると美沙さんは
「じゃあずっと絵を描いてたの?」
「漫画とかアニメっぽい女の子の絵とかは描いてきましたけどいわゆる美大生が描くような本格的な絵は描いてきてないですかね」
「そうなんだ。じゃあこの学校に入って何がしたいの?」
「えっととりあえずやりたいことを見つけるっていうか、ファッションの世界のことよく知らないですし」
「絵が好きならデザイナーがいいかもしれないけどいっそのこと自分の好きな洋服を作っちゃったらいいんじゃない?蒼くんはどんなファッションが好きなの?」
「好きなファッションですか…う〜んなんだろう。よく判らないです」
「そう、ならまずは自分を知ることから始めないとね。大丈夫、君はまだ若いんだから色々やってみたまえ」
美沙さんだってまだ若いのに…そう言って彼女は俺の前から消えていく。一人残された俺は休憩所のベンチから空を見上げる。空にはだいぶ前のワンピースに出てきた空島みたいな形の雲がいくつか広がっている。空なんて見ていても何がしたいのか見つかるわけじゃないけど美沙さんが言ったとおり色々やってみるのは大切なのかもしれない。
ファッションの専門学校に入りデザインやパターンや縫製などを学んでいくうちに俺はある難問にぶつかる。その難問とは個性とは何かというものだ。人はそれぞれだし百人いれば百通りの考え方があるようにどんな人もみな違ってる。自分と同じ人間は一人としていないだろうししつこくこびりついた鉄製フライパンの焦げみたいに先生たちから個性個性と言われる。同時にファッションに限らず何かを創る仕事ではこの個性がとても重要なものになってるみたいだ。
そのためなのか先生たちからは自分の好きなものを写真に撮って集めておくようにも言われるし自分だけの世界観や個性が必要になるのだけどこの個性というものが難しい。個性って形があるわけじゃないし気づけばそこに存在してるものだからどうしたって捉えようがない。でもその人だけが持つ個性を伸ばしてそれを自分のクリエーションに昇華させられなければきっと物作りの仕事はできないんだろう。
俺の個性ってなんだろう?俺はただひたすらにひたすらにひたすらに考える。俺だけが持つ個性。でも荒木飛呂彦の「ジョジョリオン」を読んだ時みたいによく判らない。きっと多分個性というものは言葉にして説明するものではないんだろう。
それから数日経ったある日俺は学校の休憩所で再び美沙さんに会う。美沙さんはアミパリスのゆったりとしたベージュのニットにホワイトのスキニーパンツを合わせていて足元はコンバースのスニーカーだ。彼女は朝早く学校にきていてパターンの勉強をしてるらしい。俺はというと遅刻しない程度に学校にやってきてそれで授業を受けて終わったら帰るという生活パターンだ。何かどんどん差がついてるような気がする。俺はぼんやりと生きてるのに美沙さんはどんどん先に進んでいってしまってる感じだ。
「あの突然変なこと聞きますけどいいですか?」と俺は言う。すると美沙さんは「なになに?あらたまって」「個性ってなんだと思います?」「個性?」「そう、ほらよく授業とかで個性を大切にしなさいって言われるでしょ?だから個性ってなんだろうって思って」「蒼くんはなんだと思うの?」「う〜ん、奇抜な格好をするとかですかね??」と俺は答える。よく個性的な人っていうと奇抜な格好をしてるような気がするから。多分コムデギャルソンとかヨウジヤマモトとか好きなんじゃないかって勝手に思ってる。すると美沙さんはフンと鼻を鳴らし「多分それ違うよ。個性の意味を間違えてると思う。目立ってればそれが個性みたいに考える人は多いけど違うよ」「じゃあなんなんですか?」「一言で言えば『自分らしさ』だよ」「そもそもその自分らしさってものが判らないんですよ」「無理に考えることないよ。蒼くんだって持ってるから。自分に特有の性質であって性格なんだと思う」「確かにどんなに人にも個性はあるかもしれないですけど。…ってことはこんな俺にも個性はあるんですよね?」「あるよ、無理に演じたりするのが個性ではなくてありのままを表現するんだよ。その人の中から自然と湧き出てくるものが個性なんだと思うよ」
自然と湧き出すものが個性。とはいってもまだまだまだよく判らない。数学のミレニアム懸賞問題であるリーマン予想なみに意味不明だ。それでも濃いめに引かれたアイラインが光る瞳で見つめられるとどこか説得力がある。それにこんな平凡な俺にも個性があるらしい。確かにどんな人にも個性はあるかもしれないけどそれがよく判らないし自分の個性を言葉で説明できる人が本当にいるのかは謎だ。
「俺の個性ってなんですかね?」と俺は漠然と尋ねる。すると美沙さんはハワイの砂浜みたいな光沢のあるジェルネイルが施された指同士を絡ませにこやかな笑みを浮かべながら「蒼くんって少し理論武装するみたいなところがあるでしょ?それも個性だと思うよ。話し方だって立派な個性だからね」「なんだか嫌な個性ですね。俺はもっとピカピカ光るっていうか煌びやかなものを期待してるんですけどね」「性格だって個性だよ。君はどんな性格してる?」「えっと、基本真面目ですかね」「ならそれが蒼くんの個性なんだよ。そしてそれが自分らしさにつながってるんだと思う」「自分らしさっていうものが個性なんですよね?」「そう、ありのままを表現するの。背伸びするわけでもなく奇抜を狙うのでもなく自分の中に流れてる心の声に耳を傾けて正直に従えばいいんだよ」「やっぱり難しいです。あの、ファッションの世界で食っていくためにはやっぱり個性とかそういうものって必要なんでしょうか?」「う〜ん、難しいこと聞くね。私はまだ学生で働いたわけではないから100パーセント正しいことは言えないけど蒼くんが考えてるいわゆる天才的な人間が持つ力みたいなものはいらないと思う。天才的な能力と個性は別物だからね。だけど自分の個性を知っておくのは大切だと思うよ。だから学校の先生も個性とか世界観とかそういうものを大事にして磨きなさいって言うんだよ」「判りました。ありがとうございます」俺はそう言い美沙さんと別れる。
個性を磨くためには自分を知ることから始まるのだと思う。だから俺は以前美沙さんに聞かれた自分がどんなファッションが好きなのかを考える。俺は決して奇抜なファッションが好きというわけじゃない。もちろんコムデギャルソンとかイッセイミヤケとかヨウジヤマモトとか日本を代表するアヴァンギャルドなブランドを否定してるわけじゃない。トップブランドにはトップブランドの世界観や個性があるのだ。ただそれが俺に合わないだけ。改めて考えると俺は基本シンプルなんだけどどこか一点違ってるというか変化があるみたいな洋服が好きかもしれない。そう思い立った理由は高校生の頃に遡る。
高校生の頃俺はひざが破れたデニムを別の布を使って直したことがある。お直し屋さんに持って行けば数千円でキレイに直してくれるけど俺は自分で好きな布を買ってきて適当に切ってそれを布用のボンドでくっつけて直した。シンプルな中に一点だけ変化があるみたいなデニムになり好きになったのだ。ファッションの専門学校では職業用のミシンの使い方を習うけど高校生の頃の俺はそんな知識や技術がなかったからミシンで縫わずボンドでくっつける選択を取ったのだ。
「縫わないで作る洋服」
「ボンドでくっつける洋服」
そういうものがあっても面白い。同時にそれが俺の個性の始まりであるように感じられる。そうだ縫わない洋服を作ってみよう。もしかしたらもうやってる人がいるかもしれないけどミシンで縫うだけが洋服じゃないはずだ。俺はその日近所である溝の口のノクティの中にあるオカダヤへ行き大量のシーチングと布用のボンドを買ってきてそれで縫わない洋服を作ってみようと考える。シンプルだけどどこか変化があるそんな洋服になるような気がする。
人は新しい何かをやる時ついついそれを先延ばしにしがちだけどそれがいけない。やろうと思った時が新しいことを始めるのに一番適した時期なのだ。この時期を逃すとどんどん面倒になってしまって一生やらないかもしれない。永遠に工事が終わらない横浜駅にみたいになってしまう。そうなってはダメだし個性という名の自分らしさを発見するのだ。やれやれやれ!
ファッションの専門学校や大学ではどの学科に所属するかによって多少の違いはあるかもしれないけど最初は大抵女性のスカート作りから始まる。スカートはパターンの数も少ないしシンプルなAラインのスカートなら作りやすいし縫いやすい。けど俺はミシンを使わずにボンドでくっつけてスカートを作る。今販売されている布用のボンドは意外と強力だからしっかり貼りつきさえすれば結構ひしとくっついてくれる。まずはスカートのパターンを引いてそれからシーチングをパターンどおりに裁断しそれから前後スカートのウエストダーツをボンドでとめて作ってさらに後ろ中心をボンドでとめてくっつける。ミシンだと縫ってしまえばすぐに次の工程に移れるけどボンドで接着する場合接着剤が乾くまで待つ必要がある。これが意外と面倒だけどポンポンポンと中途半端に接着剤が乾く前に次の工程に進むとくっつけた場所が剥がれてしまうかもしれないので俺は焦らずに接着剤が乾くのをじっくり待つ。一応ドライヤーを使ったり手で仰いだりして早く乾いてくれと祈る。乾いたら次は着脱のファスナーをくっつける。今回は左開きのスカートを作るからまずは左脇とファスナー開き部分をボンドでつけそれからスカートの右脇の縫い代にたっぷりとボンドを塗りそれから右脇をくっつける。大体三十分くらい乾くのを待つと結構がっちりくっついてたから俺はさらに次の工程に移る。スカート後ろ中心と両脇とファスナーをくっつけたから次はベルト作りだ。ベルト作りも全てボンドで接着する。通常スカートのベルト部分には形を整えしっかりさせるために芯が入ってる。これはアイロンで接着するタイプもあるけど俺は全てボンドでくっつける。ベルトが出来上がったらスカート部分と合わせてこれもまたボンドで接着する。接着したら乾くのを待ち乾いたら最後にスカートの裾をアイロンで折ってボンドで裾上げして完成だ。今回は試しに作った感じだからポケットを作ったり裏地をつけたり縫い代を始末したりはしない。
多分早い人ならスカートなんて一時間くらいでできてしまうだろうけど俺はボンドを使ったり色々試行錯誤したりしてたから三時間くらいかかってしまう。それでもなんとかやり通す。
完成したスカートをとりあえず自分で穿いてみる。女性サイズだけど課題なんかでよく使われる標準的な九号サイズではなく十三号サイズを作ったから細い俺ならなんとか入る。ただボンドでくっつけたスカートには多々問題があってまず裾や右脇なんかはそれほど力がかからないからくっついたままだったけどウエスト部分や左脇のファスナー部分は力がかかるからすぐに崩壊してしまったのだ。三時間かけて作ったスカートが一瞬にして壊れてしまいショックを受けるけど判ったことも多いからよしとしよう。失敗は成功のもととも言うし色々挑戦しなければ判らないことも多いのだ。俺はこうして縫わない洋服を色々作ってみようと考える。
一応色々候補はある。例えば強力な両面テープでくっつけた洋服、布用ボンドをはじめとする接着剤でくっつけた洋服、アイロン接着でくっつける接着芯でくっつけた洋服、マジックテープでくっつけた洋服。縫わない以外にもくっつける手段は結構あって俺はそれを片っ端から試していく。
これが個性というものなんだろうか?俺にだけ存在する固有の特徴。自分の個性を大切にしなさいと色んな人は言う。だから俺は自分の個性かもしれない縫わない洋服という存在を大切にしたい。
専門学校の課題と並行しながら縫わない洋服を作ってたから俺の毎日は忙しいものに変わる。ファッションの専門学校は基本的に課題が多く眠れない日々を送る学生が多い。でも皆ファッションが好きだからいそいそと課題に取り組む。俺もそうだ。課題をやりつつ空いた休日なんかを利用して縫わない洋服を作る。三ヶ月ほど経つと俺の制作した縫わない洋服は十着程度になり改良に改良に改良を重ねてきたから強度の面も結構クリアになってて一応人が着られるようになってる。
でもここで俺は再び大きな大きな大きな問題に直面する。それはこんなものを作って一体何になるのか?という問題だ。恐らく物作りをする人間なら誰でも一度は直面する問題なのかもしれないし俺の中ではドラえもんに頼りっぱなしでそのドラえもんが壊れて動かなくなるくらいの大問題でもある。俺は縫わない洋服を色々作ってみたけどそれってなんの意味があるんだろう?人が生きる目的は色々あるけど多分人の役に立てるかどうかってことなんだと思う。人の役に立てれば嬉しいし生き甲斐にもつながる。けど俺が今作ってる縫わない洋服っていうのは一体なんの役に立つんだろう?多分なんの役にも立たない。ただの自己満足の洋服で時間をかけてゴミを作ってるみたいな感じになる。
虚しい。猛烈な虚しさを感じる。ようやく見つけた個性みたいなものが一気に離れていってしまった感じだ。個性なんて意味ないんじゃないか?だって縫わない洋服を作ったところでそれが意味あるものなのかどうか判らないしこれが個性ある洋服ですって言っても誰も納得してくれないだろう。途端張り詰めていたものが切れたような気がする。好きな子がいて学校生活の全てをかけて思い続けて卒業式の日にようやく話せたのに名前すら覚えてもらっていなかった時みたいなやるせなさというか虚無感を覚える。
俺は縫わない洋服を作るのが嫌になってしまった。
ちょうどその頃学校は夏休みになり俺は一人自堕落に生きていた。あれだけ必死になって縫わない洋服を作っていたのにそのやる気は削がれてしまってる。俺は一体何をしてるんだろう?
そんな時美沙さんから連絡がくる。夏休みになり美沙さんとはしばらく会っていないのだけど彼女は俺が縫わない洋服の研究をしてることを知っていて時折その進捗状況を聞いてくれていたのだ。
『元気?』
と美沙さんからのメッセージ。
それを受け俺は
『まずまずです』
『縫わない洋服、最近も作ってるの?』
『いやそれが全然ダメで』
『え?どうして??あんなにやる気だったのに』
『何のためにこんな服を作っているのか判らなくなって』
『なるほど…物作りの暗闇に飛び込んだってわけね』
『は?』
『ねぇ、これから会える?場所はどこでもいいけど』
『じゃあ溝の口でいいですか?俺近いんで』
『それでいいよ。じゃあ二時に溝の口駅の改札で会おう』
今午後一時。俺はシャワーを浴びてヒゲを剃って着替えを済ませそして水を一気に飲んで待ち合わせの二十分くらい前になったら家を出て待ち合わせ場所に向かう。
溝の口駅にはJR線と東急線の二つの路線があって美沙さんは東急線を使ってくるみたいだから俺たちは東急線の方で待ち合わせをする。俺は約束の五分くらい前に到着ししばらく待ち午後二時になると美沙さんが改札の方からやってくる。彼女はコムデギャルソンのプリーツやリボンが多用されたホワイトのブラウスにゆったりとしたブラウンのクロップドパンツを合わせてる。足元はナイキのスニーカーだ。今日は髪の毛をポニーテールにしてシュシュで結んでるし化粧気のある白い肌が今っぽい雰囲気を作り上げてる。その姿はどことなくモンマルトル辺りにいる芸術家みたいだ。
俺たちは溝の口駅のそばにあるノクティの中のカフェに行きそこで話し始める。カフェは平日の昼間ということもあり比較的空いている。お互いにアイスコーヒーを頼み店員がそれを持ってきたら一口飲みのどの渇きを癒す。
「蒼くん久しぶり。悩んでるみたいね」
と美沙さんは言う。
俺は色褪せたグレーのハンカチで汗を拭い答える。
「まぁそんな感じです。洋服作るやる気なくなっちゃって」
「なんで洋服を作っているのか判らなくなったんだよね?」
「そうですかね。こんなことやっても全て無駄なんじゃないかって思って」
俺の言葉を聞くと美沙さんはにっこりと笑みを浮かべる。その笑みはどこか哀愁じみたところがあって晩年のマイケルジャクソンみたいだ。
悩みってどうして生まれるんだろう?どんなに人間であっても大なり小なり悩みはあるかもしれない。人は悩む生き物だ。いや人だから悩むのかもしれない。悩みが解けるのならそれはそれで嬉しいし俺だってもう一度縫わない洋服を作るあのやる気というか四年間自分の全てを捧げて練習し本番に臨むサッカーワールドカップの代表選手みたいな情熱を取り戻したいのだ。
美沙さんなら答えを知ってるのだろうか?この人はファッションの学校にくる前に美大に通っていたし俺よりも長く物作りをしてる。この世界にいる多くのクリエーターは自分の作ったものに自信が持てているのだろうか?俺はなんだか自信がない。何しろ俺の作った縫わない洋服は価値があるというかファッション的にありなのか判らないし。
人に認められるファッションが全て正しいんだろうか?でも認められるってなんだろう?若手ファッションデザイナーの登竜門である装苑賞でも受賞すればいいんだろうか?
俺はじっと待つ。美沙さんの答えを…
「クリエーターってさ」美沙さんはピンク色のルージュで彩られた唇をしなやかに動かし言う。「いかに無駄なものを作るかだと思うよ」それを受け俺は答える。「無駄なものを?」「そう、無駄なもの。私たちは今ファッションをやってるけどそれって極論を言えば全部無駄なんだよ。ユニクロを否定するわけじゃないけど着るだけならユニクロで十分だもん。でも私たちは服をデザインしてパターンを引いてそれから縫って作ってる。そこに自分の個性や世界観を込めてね」「全部無駄だとしたらなんか虚しいですね。俺虚しいですよ」「そんなことないよ。ねぇ価値のある洋服ってなんだと思う?」俺は言葉に詰まる。急にそんなこと言われても思い浮かばない。俺が黙ってると美沙さんが続けて「人を幸せにし感動させる洋服だよ。私たちが作った洋服を着た人がその洋服を着て幸せを感じたか、つまり感動したかどうかが重要だと思う」「でも難しいですよ。人を幸せにして感動させる洋服なんて…川久保玲だってそんなことできてるかどうか」「コムデギャルソンの洋服は人を幸せにして感動させてるよ。だから多くのファンがいるんだ。つまりね蒼くんも人を幸せにして感動させるような洋服を作ればいいの」「俺の縫わない洋服じゃ人を幸せにしたり感動させたりするなんて無理ですよ」「最初から無理って決めてしまったら何もできないよ。君の言った川久保玲だって最初は黒い洋服や穴あきの洋服を作って賛否両論だったんだから。でも彼女は人を幸せにして感動させたの。だから評価されるようになったのよ」「でも人を幸せにしてさらに感動させる洋服を作れって言われても難しいですよ」「幸せを与えたり感動させたりするっていうのは人の心を打つってことだと思うよ。それにね人を幸せにしたり感動させたりするためにはその人がその時自分が抱えた全ての感情を心に込めて表現することが必要なんだよ。蒼くんは縫わない洋服に思いを込めて人の心を打てばいいの。君の必死さや情熱みたいなものが洋服の魂のようなものになって結局はそれが人を幸せにしてさらに感動させることにつながるんだと思うよ」
美沙さんは一気に話す。それはまるで犯人を追い詰める名探偵コナンのコナンくん推理みたいに鮮やかだった。
人を幸せにしてさらに感動させる洋服作り。それが俺たち洋服作りをはじめ物作りを志す人間の最終到達点なのかもしれない。きっとこの世界で評価されてる洋服っていうのは人の心を打ち幸せを与え感動させてるのだ。デザイナーやパタンナー、そしてそれ以外の服作りに携わる全ての人の思いが詰まってそれが宇宙の始まりのビッグバンみたいな感じになるときっと人を感動させ幸せを与えるエネルギーを持った洋服になるんだろう。
でも俺の縫わない洋服はどうしたら幸せを呼び感動を与える洋服になるんだろう?それを考えるのだ。その答えは美沙さんの言葉の中にあったはずだし俺が考えないとならない。俺自身が考えこの難問を解かなければならない。無駄だとしてもいいんだ。無駄を省いたら芸術じゃなくなるし無駄の積み重ねが幸せや感動を呼ぶこともあるかもしれない。
俺は家に帰り再び縫わない洋服を作り始める。ボンドや接着芯を使ってミシンを使わず一枚の洋服を作っていく。その過程は無駄ばかりだし常に疑心暗鬼だ。こんなものを作っても意味がないという悲しい思いと人を感動させ幸せにしたいという飽くなき情熱が入り混じる。そうか、きっと何かを作るっていうのはそういうことなんだ。正と負の両方の感情が入り混じる。そしてごちゃごちゃになった感情の渦みたいなものが大きな大きな大きな創作意欲の塊となって現れる。
美沙さんはこう言っていた。人を幸せにし感動させる洋服を作るためには作り手が心を込めて洋服を作らなければならないと。そう、心を込めなければならないのだ。例え無駄の塊みたいに思える洋服でも心がこもっていればそれがきっと幸せや感動につながるんだろう。一工程ずつ丁寧にそして心を込めて洋服を作る。同時にこの瞬間初めて個性を持った洋服作りができたような気がする。
突き詰めると個性とは人の特徴であり同時に心なのだ。自分の思いの全てが詰まった一つの塊が個性なのかもしれない。俺のファッションに対する「喜び」「悲しみ」「怒り」「驚き」「恐れ」「嫌悪」いろんな感情を全て一つにまとめて心を込めて洋服を作る。そしてそれが人の心を打ち幸せや感動を与える洋服になるのだ。同時にたとえ無駄だと思えることでもその無駄こそが重要なのだろうし必死になって心を込めて無駄を作ることこそが芸術になるんだろう。
俺の中で自分の目指すべき道がぼんやりと見えたような気がする。誰もいない真っ暗な闇の中で突然ぼうっと松明の明かりが灯ったみたいな衝撃。俺は人を幸せにして感動させるような洋服を作りたい。専門学校というのはそのための修行期間で無事卒業できたら自分で縫わない洋服を作ってこう。これまでずっと疑心暗鬼だったけどやっぱり洋服作りは楽しいし作る側が楽しんでやらなければ人の心を打つような洋服は作れないだろう。もちろんやる過程で辛いこともたくさんあると思うけどその時感じた全ての感情をファイナルファンタジーを歌舞伎で表現し演じるみたいな特大の化学反応を起こして心のこもった洋服作りをするのだ。
それが俺の個性になるんだと思うし価値になるんだろう。個性というのはどこか曖昧としてるけどその人が持つ固有の特徴や心であって同時に何もしなくても滲み出るものであり言葉で説明するものではないのだ。さらにそれを濾過して俺の作る縫わない洋服とドッキングさせる。とりあえず縫わない洋服で人を幸せにして感動させよう。だって個性ある洋服っていうのは人を幸せにし感動させて初めて価値が出るのかもしれないんだから。
〈了〉