第三話
いつも朝は、身体中とにかく重いのだけど──今日は過去最高に重い。
朝比奈さんとの一件があった翌日。朝から深いため息をつきながら、重い足をゆっくり教室へと進める。
昨日のことが頭に残っているから、どんな顔をして教室に入ればいいのか分からない。
まあ、いつもみたいに影を潜めていれば俺がいることも気づかないはずだろう。何でも、朝比奈さんには一ヶ月間いないものと思われていたらしいからな……。
昨日はああ言ったけど、またいないものとして見逃してほしい。
「あっ! 敷島くん、おはよ~」
「お、おはよう」
足を踏み入れて一歩目で、奥にいた朝比奈さんから挨拶が飛んできた。
絶対俺の顔ひきつってる。声だって震えたし。流石にこれは極端すぎるだろ。教室全体から集まる視線が痛い。
そそくさと自分の席に着くと、スマホを取り出していつものように動画サイトを開く。
「詩音、アイツと知り合いなの?」
「ってか、あんなやついたっけ?」
「何言ってんのさ、ヒドいな~。クラスメイトじゃん」
その言葉、昨日の君にそっくりそのままお返しするよ……。
「話してみると結構良い人だよ?」
「え~そうかなぁ」
「よく分かんないことブツブツ呟いてて怖くない? ゲーム実況……だっけ?」
そんなことは全くしていないはずだけど、ゲーム実況動画を観ていたことを言っているのだろうか。それなら、教室で動画を観るのはやめておいたほうがいいのかもな……。
「ちょっ、詩音? どこ行くの?」
突然、騒がしい教室内でも一際大きな声が聞こえてきたから、反射的にその声の方向を見る。
すると、朝比奈さんが俺のほうに向かって歩いてきていた。
いや、こっちに来てるからって俺に用があるわけじゃないかもしれないだろ。
そう思って、もう一度意識をスマホに向けようとき。そんなことはさせまいと朝比奈さんが俺の机の前に立ちはだかった。
「敷島くん。ゲーム実況やってるの?」
「……趣味程度だけど」
「それって配信とかでやってたり?」
「まぁ、少し……」
「配信環境は? 結構整えてるの?」
「……それなりには」
かなり食い気味に質問を重ねてくる朝比奈さん。
あまり深入りはされたくないから、曖昧な答えではぐらかす。
だけど、何回かやり取りをしたところで、朝比奈さんの言葉がピタリと止まった。
適当に答えすぎただろうか……。
恐る恐る彼女の顔を見上げてみると、浮かべていた表情は予想外のものだった。
「~~~~っ!」
声になってない叫びをあげたかと思えば、俺の机を両手で叩いてくる。その勢いのまま、朝比奈さんが顔を近づけてきた。
「今日の放課後、時間ちょうだい?」
周りには聞こえないくらいの声量でそう囁かれる。
これはどうやって断ればいいものか……。
そんなことを考えていると、周りから次々と向けられる訝しむような視線が。
「……少しだけでいいか?」
「うん……! じゃあ、またあの場所に来てっ」
結局折れるような形で、朝比奈さんのお願いに付き合うことになってしまった。
あの場所──昨日の空き教室のことか。
わざわざ急に声を潜めたってことは、他の人には勘づかれないようにしたほうがいいんだろうな。
「どうしたん?」
「なんでもないよ!」
「そう? なんか詩音、嬉しそうだけど」
「ホントになんでもないって!」
にしても、なんで俺なんだろうか。俺なんかよりも周りにいる友達を誘えばいいのに……。
いつもは長く感じる退屈な授業も、悶々としている内にあっという間に過ぎていった。
帰りのホームルームが終わると、教室がまた騒がしくなる。
すぐに帰る者、グループで集まって話す者、部活動の準備をする者。
それらを縫うように、急いで教室から出ていく朝比奈さんの姿が見えた。
やっぱり、他の人にはバレないように一人で来いってことか。
そういうことならと、ゆっくり帰る準備をしたりトイレに行ったり、少し時間を置いてから空き教室へと向かう。
窓から下校する生徒が見える中、一際静かな廊下を歩く。
「今日は歌が聞こえてこないな」
ぼそりと呟いた独り言も、時間をかけて消えていく。
そうして例の空き教室の前にたどり着くと、今日は盗み聞きではなく、しっかり扉をノックする。
「入っていいよ~」
扉の向こうからそんな風に声が返ってきたので、俺はゆっくりと扉を開けた。
「やっほ、わざわざごめんね? 来てくれてありがと」
「それは別にいいけど。また練習?」
「今日は練習はなしっ。それよりも、敷島くんに話したいことがあるっていうか……」
教室での話の流れ的には、ゲーム実況の話だろうか。
だとすると、どう誤魔化そう。俺としては、学校で趣味の話をするつもりはない。
「もう気づいてるかもだけどさ。私、歌手を目指してるんだよね」
だけども朝比奈さんの口から出たのは、俺の予想に反したものだった。
少し強張ったものになっているその表情に、空気もピリッとしだす。
「でも、私一人だと出来ることに限りがあるんだ。だからって、誰かに頼むと思うように歌えなくて……」
「それが俺には信じられないんだけど」
「えへへ、ありがとね。そう言ってくれて。けど本当に、人前だと笑われるくらい酷いの」
重い話にしたくないのか、朝比奈さんは明るい笑みを浮かべて話す。
だけど、その笑みが作り笑いなのは俺でも分かるほどだった。
「嫌な気分にさせたら悪いんだけど、何でそこまで歌にこだわるんだ?」
朝比奈さんだったら、歌にこだわらずとも他のことでも上手くやれると思う。わざわざ大変な思いをすることだってないはずだ。
「単純に好きだから、かな」
「……それだけ?」
あまりにもシンプルな答えだったから、思わず本音が漏れてしまった。
こだわりがあるみたいだから、何かよっぽどの理由があるのかと思ってたけど……。
「歌を好きになったきっかけも大きいんだけどね」
「好きになったきっかけ……」
「小さい頃にさ、影響を受けた歌があるんだ。路上ライブをしてた人なんだけど、その人の歌が今でも耳に残ってて」
真剣なトーンで紡がれていく朝比奈さんの言葉に、俺は黙って聞き入る。
「私も、あの人みたいに歌ってみたいなって。あのとき動かされた私みたいに、誰かの心を動かせる歌を歌いたいなって思ったんだ」
真っ直ぐなその瞳は、ガラス細工のような透き通っていて。ついつい、目が離せなくなる。
「それにさ、この好きって気持ちがどんなものでも塗り替えられないほどに。私は歌が大好きだから!」
大好きだから──満面の笑みから放たれたその言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
俺には好きなものなんて、とっくの昔からない。その感情は知らないフリをして、つらい思いをしない道を選んできた。
俺には好きを作る資格がないと思っていたから。
「だから、協力してほしいんだ」
呆然とする俺の前で、朝比奈さんは大きく深呼吸をしてから口を開く。
「私のこと、プロデュースしてくれませんか?」
窓から入り込む爽やかな風に乗って、そんな言葉が教室に響いた。