第一話
────昔のことを思い出した。
まだ幼稚園に通っていたくらいの小さい頃。
歌うのが大好きで、いつもみんなの前で楽しそうに歌っている女の子がいた。
俺はその子と、もう一人の幼なじみとの三人でよく遊んでいたんだ。
だけどもある日、幼いながらのちょっとしたことで俺たちは喧嘩をしてしまう。
「いっしょにあそぶって、やくそくしただろ?」
「でも、みんながいっしょにうたおって……。ちょっとだけ! すぐに、いっくんたちのとこいくから!」
みんな、その子の歌が大好きで引っ張りだこだった。
今思えば、一緒に行けばいいだけだったのに昔の俺は自分勝手で……。
そんな言い争いの中で言ってしまったんだ。
「おまえのうた、へたくそなんだよ!」
────俺は、その子の好きを否定した。
※
「…………っ!」
飛び起きるように机に突っ伏した顔をあげると、まだ覚めきってない頭に授業の終わりを告げるチャイムが響く。
「……嫌な夢」
「敷島~。放課後、これ準備室に運んでおいて。居眠りの罰だから」
現代文の教師はそう言いながら、黒板横の空き机にノートの山を置いていった。
入り口からすぐ近くの端っことはいえ、一番前の席じゃ気付かれてしまうか。
気づかれないように吐いた深いため息は、あっという間に教室内の喧騒にかき消される。
放課後の予定を話し合う者やドラマの話で盛り上がる者──そして、互いの好きなものについて語り合う者。
なんでそんな熱心になれるんだろうな。
些細なことで、一瞬にして崩れてしまうかもしれないのに。
「失礼しました」
放課後──言われた通りノートを運び終えた俺は準備室を出る。
教室とは違う棟にあるから来たことがなかったけど、ずいぶんと人けのない場所だ。
「早く帰ってゲームするか。今日は配信する日だし、軽く身体慣らしておかないとな」
ぼそりと呟いた独り言は、誰に聞かれることもなく消えていく。
今日は、趣味で密かにやっているゲーム実況の配信をしようと思ってた日だった。だから、なるべく早めに帰りたかったわけで。迷わないように、もと来た道をゆっくり辿る。
「から……きみの……で…………輝いて……」
「ん……?」
微かにだけど、誰かの歌声のようなものが耳に入ってきたような……。
軽音楽部の練習だろうか。にしては楽器の音が聞こえてこないけど。部活の練習とかなら俺には縁の無いことだ。
ましてや歌なんて……。
そう思いながら何歩か進んだところで────ぴたりと俺の足が止まる。
そして次に身体が動いたときには、もと来た道を外れ、歌声のほうへと吸い寄せられていた。
「少しだけ。ちょっと見るだけなら……」
導かれるように歩き進めると、どんどん歌声は大きくなっていく。
「ここの教室からだ……」
遠くまで響く歌声でも、それが一番よく聞こえてくる空き教室の前で俺は足を止めた。
バレないように、扉のガラスからこっそり中の様子を伺ってみる。
すると、思わぬ人物の姿が目に入った。
「……あれは確か、朝比奈さん?」
朝比奈詩音──他人にあまり興味のない俺でも知っている、同じクラスの中心人物。積極的に前に立つタイプで、彼女の周りには常に人が集まっている。
要するに、クラスでぼっちこじらせてる俺とは真逆の人間。
「なんで朝比奈さんがこんなとこに……」
らしくもない行動をしたせいか、他のことへの注意が疎かになっているのに気づかず。
──ドンッ。
肩からずり落ちてきていたカバンが、扉にぶつかって音を立ててしまう。
「……っ!」
「んっ、誰かいるの?」
咄嗟に身を隠したものの、歌うのをやめた朝比奈さんの足音が徐々に近づいてきている。
逃げ切れない、そう思うと俺は白旗をあげるようにゆっくりと扉を開けた。
「わっ、びっくりした。ホントに人がいると思わなかったよ」
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、歌が聞こえてきたから……」
開口一番、謝罪の言葉を口にして頭を下げる。緊張からか、久々に人と話すからか声が震えてて情けない。
でも、俺が盗み聞きをしたと、もし他の人へバラされたら──間違いなく俺の静かな学校生活は終わることになる。
それだけは絶対に避けなければならない。頭をフル回転させて、穏便に済ませる方法を考える。
「私の歌、どうだった?」
そんな俺の気なんて知らない朝比奈さんが、険しい目付きでそう問い掛けてきた。
「えっと、めちゃくちゃ綺麗で……。思わず歌声を辿ってたっていうか……」
感想を求められると思ってなかったから、たどたどしくなってしまう。
正直に思ったことを口にするけど、緊張から上手く言葉が出てこなくて。鼓動の音が聞こえそうなほどに心臓がうるさい。
俺の感想を聞いても尚、朝比奈さんは険しい表情のまま。
次の言葉を待つように、恐る恐る様子を伺ってみる。
「…………そっか。良かった~。ヘタクソって言われたらどうしようかと思ったよ~」
険しい顔が急に和らいだかと思うと、ふにゃっとした笑顔に変化した。
「お、怒ってないのか? 隠れて聞いてたのに」
「なんで私が怒るの? 学校じゃ聞かれることもあるでしょ」
確かに彼女の言う通りでもあるけど……。だったらさっき、なんであんな表情をしていたのか。
まあ、盗み聞きは良くなかったにしろ少し怯えすぎたかもしれないな。
「なんでこんなところで歌ってたんだ?」
「ん~ホントに恥ずかしいから誰にも言わないでよ? 私、歌うのが大好きでさ。さっきみたいに思い切り声を出したくなるんだよね」
歌うのが大好き──その言葉を聞いて、俺の心臓が跳ねた。呼吸が少し苦しくなる。
さっき夢をみたせいか昔の記憶もよぎってきて。とにかく平常心を保とうと、頭を振って必死にかき消す。
「でも、私って人前で歌うのは苦手なんだ」
「え……?」
苦笑を浮かべながら言ったその顔は、少し赤くなっていた。
あの朝比奈さんが人前で緊張なんて、クラスでの姿からはとても想像出来ない。
「だからってこんなところで歌うことも……。カラオケじゃダメなのか?」
「カラオケは友達と鉢合わせする可能性が高くて。ドアの前を通りかかる人も目に入るし」
人気者は大変そうだなと、つくづく思う。
だけど、そういう事情ならあまり長居するべきではないかもしれない。久しぶりに人と話したことで疲れも襲ってきたところだ。
「なら、俺がいたら邪魔だろうし帰るよ。ここでのことは誰にも言わないから」
「ちょっと待って!」
朝比奈さんに背を向けたところで、後ろからよく通る声が俺の足を止める。
「えっと、何かまだ?」
「せっかくだし、練習に付き合ってくれない?」
「いやいや、俺なんかじゃ練習相手にならないって。歌のことなんて分からないし」
「いいの! それにさっき私の歌を良いって言ってくれたし。あっ、何かこの後予定あった?」
「別に予定はないけど……」
「それじゃ決まりっ! 準備するからちょっと待ってて」
なんだか、あっという間に朝比奈さんのペースに流されてしまった。
結局、何をするのか分からないまま。昔の記憶に、今のこの状況。複雑な想いが襲ってきて、心はどこか落ち着かなかった。