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ポップコーンの雨が降る  作者: 満永あぐり
3/3

線路の上の走者

「ただいま〜」

まだアルバイトを見つけられていない俺は外が暗くなる前に家に帰りついた。

「あら、おかえりなさい霙ちゃん。」

「おかえりなさい霙くん。」

あれ?今母さんの声とは別の声が聞こえたような。こう、妙に胡散臭いトーンというか……

俺の嫌な予感は的中したようで、母さんの影からぬっと長身の男が顔を出した。

「ゲーーーッ!」

思わず汚い声を出し後ずさりしてしまう俺。

「ゲーとは何だいゲーとは。君は蛙だったのかい?」

長身の男とは言わずもながなヨツバだった。今日はトレードマークの大きなシルクハットとタキシードではなく、緑色のバンダナと割烹着を着用している。

「うふふ、やっぱり二人とも()()()()お友達だったのね。もう、早く紹介してくれれば良かったのに。」

と、呑気に微笑む母さん。違和感など微塵も覚えていないようだ。この胡散臭い手品師とどこで知り合ったの?とか普通聞くだろうに。というか、俺の反応を見て俺とヨツバが仲の良い友達同士と見なすって……どういう理屈?

「……なあ、一応聞いとくけど、ヨツバ(こいつ)ここで働くことになったんだよな?」

「ええそうよ!嫌ぁ、食料品とかお料理とか運ぶの大変だったから男手は助かるわ〜!」

母さんは嬉しそうにそう言うと、今度はヨツバの方を向いた。

「ヨツバくんはお仕事辞めちゃわないでね。前にも何人か男の人が働いてくれていたんだけど、皆すぐ辞めちゃって……」

俺の体がギクッと硬直する。

「ああっ、その、これはハラスメントとかじゃないの!仕事が合わないって思ったら気軽に相談してくれて構わないからね!」

慌てている母さんとは対照的にヨツバは視線だけを俺に寄越してニヤニヤしている。俺は素早く目を逸らした。

「安心してください。僕、人と関わるのが好きなのでこの仕事も続くと思います。」

ヨツバは相変わらず切り替え速度が一丁前に速いようで、彼女の前では爽やかな笑顔を見せていた。

「まぁーっ!ヨツバくんはやっぱり良い子ねっ!これからも霙ちゃんと仲良くしてあげてね!」

母親の常套句(じょうとうく)を並べつつヨツバの腕をブンブンと振っていた母さんは、開店時間のことすっかり忘れていた。

「ママ〜、今日も来たよ〜……って、えええーっ!?若い男がいる!?」

大体俺と同じリアクションを見せたおじさん複数名はスナックつばきの常連客であった。先頭のひとりが後方のおじさんたちに大声で情報伝達を行う。『隣にいる男は椿さんの再婚相手ではないか』という荒唐無稽な情報があっという間に客の間で広まった。

「も、もう!違うわよぉ!この子は新しくアルバイトで入ってくれた子!」

恥ずかしさで頬を真っ赤に染めている母さんの反応はさながら乙女のようであった。……四十路手前なのにこのようなリアクションを素でやってしまうのだから、天然って恐ろしい。

「何だ、俺たちのオアシスが枯れちまったのかと思ってびっくりしたよ!」

「おいおい、再婚してもママはママだろう。その言い方は酷いんじゃないのか?」

ガハハと大声で笑う常連客たち。と思いきや、サッと深刻な表情に変えヨツバの元へずんずんと近づいてくる。その様子はさながら怪獣たちの大行進のようであった。

「ママに手を出すなよ。」

「ママを泣かせるな。」

「ママの言うことは絶対。」

沢山の人差し指がレーザーポインタのようにヨツバの顔面へ向けられている。そんな中でも彼は爽やかな笑顔を湛え続けていた。

「大丈夫ですよ。なんて言ったって僕は霙くん公認のアルバイターですから。」

彼がそう言った途端、じゃあ大丈夫かと一気に雰囲気が緩む。お前らそれで良いのか!?

常連客たちはいつものように続々とカウンターやテーブル席についた。

「はあ、全く皆良い大人なのに子供みたいよね。私の息子は霙ちゃんだけのはずなのに子沢山気分だわ。」

母さんは困り顔をしつつもどこか嬉しそうだった。

「と言うわけで、ヨツバくんは愛しの()()()()から注文を聞いてきて貰える?

お通しとお酒提供したら休憩して大丈夫だから。霙ちゃんともお話したいでしょ?」

ね?と俺にウィンクを飛ばしてくる母さん。嫌、別にお話しなくて良いです……

ヨツバはオーキードーキーと返すと、テキパキ仕事をこなし始めた。

「ヨツバくん、俺焼酎とポテサラ。あとお米大盛り。」

「あ、俺はビール!」

「ワインとチョリソーお願い。」

ほぼ同タイミングで交差する注文内容。ちょっとした意地悪なのかいつもより注文を被せてきている気がするが、ヨツバは難なく全ての注文を拾っている。まるで劇場で踊るバレリーナのよう。

「こ、こいつ、仕事が出来る奴だ……」

女性絡みの問題で半ば辞めさせられた俺と違って。(自虐)

母さんも母さんで常連客がよく頼むメニューを把握しているので料理や酒を用意するのが早い。俺がカウンターの一番端の席でそれをぼけっと眺めているうちに、注文がパタリと止んだ。料理の提供が完了したのである。

「まあ、お通しとお酒だけで良いって言ったのに料理まで運び終わっちゃった。手際がとっても良いわね。無駄がないって感じ。」

「無駄がない、ね……」

褒められているのに何故かヨツバはパッとしない顔をしている。だがそれは一瞬ですぐさま爽やかな笑顔に戻った。

「椿さんに褒められると何だか自己肯定感が上がりますね。ありがとうございます。」

「うふふ、良い人材ゲットしちゃったわ!じゃあ、どうせ注文もぼちぼちになるだろうし今度こそ休憩してちょうだい。霙ちゃんはもう晩御飯食べるでしょう?」

俺は何も言わずただ頷く。

「ヨツバくんはどうする?賄い(まかない)食べる?」

「ああ、本当は頂きたいんですけど、僕は結構です。少食なので。」

彼はそう言いながらちゃっかり俺の隣に座る。

母さんは短くそうなのと返すと、俺の分だけのおかずと白米を出して仕事に戻っていった。


「……このお店ってスナックと居酒屋が合体している感じだよね。」

「うん、まあそうだな。」

俺はおかずのアジフライを齧る。

「一般的にスナックでは軽食を出し、ママはカウンターから出ない……ってイメージがあったんだけど。」

ヨツバの目線は母さんと常連客たちに向いていた。母さんは客と会話を交わしながらも料理や酒を運んでいる。

「なんて言うか家庭的なスナックだね、ここは。」

ヨツバは小さく溜息をつく。

「確かに会話しながら料理を提供する、しかもひとりで切り盛りなんて非効率極まりないけれどさ。でもその無駄こそがこの店のノスタルジックな雰囲気を作り出しているのかもしれないね。僕は蛇足だったのかな。」

「そんなことないだろ。それが嫌なら母さんは人を雇わないさ。」

俺は一度白米を口に含み咀嚼する。噛めば噛むほど米特有の甘みが口に広がる。

「……もしかしたら母さんは母親になりたいのかも。」

「え?何の話だい?というか、椿さんは既に君の母親じゃないか。」

「何でもない。今のは忘れて。」

俺は誤魔化すように味噌汁を啜った。




「ママ、俺たちもう帰るよ。ごちそうさん。」

常連客の一組は会計を済ませたあとスナックの引き戸を閉める。壁掛け時計を見ると短針は十を指していた。

「ヨツバくん、もう十時だから帰って良いわよ。お客さんもまばらになってきたし。」

「でも椿さん疲れてませんか?ずっと休憩無しですよね?」

「うーん、疲れていないって言ったら嘘になるけど、お客さんとお喋りするのはとっても楽しいからあんまり気にならないわ!」

椿は小さくガッツポーズしてみせると、布巾で客のいないカウンターを拭き始める。ふと思い出したように、そういえばと切り出した。

「ヨツバくんの本名って春夏冬卵一郎(あきなしういちろう)だったわよね?」

ヨツバの顔が少しこわばる。

「……テスト用紙とかに名前書くの大変じゃない?」

嫌、そっちかーい!てっきりヨツバという()()()の由来について問われるのかと。

「ハハ、画数はそんなに多くないので。」

彼はバンダナを解きながら困ったように笑った。

「ではお言葉に甘えて先に上がらせていただきますね。」

素早く割烹着を脱ぐと彼はそそくさと店から出て行った。

店の周囲に人気が無いことを確認したあと、庭の方へ移動するヨツバ。音を立てないように物置の扉を開け、いつものシルクハットとタキシードを引っ張り出す。

「ああ、タキシードの裾が(ほつ)れてる。」

質の良いものであるが、長い間使いこんでいるのでどこかくたびれた印象がある。この衣服たちともいつかはお別れをしなくてはならないだろう。

「諸行無常だね……」

手に持っているタキシードと一緒にヨツバの髪も風に吹かれていた。もう春であるはずなのに、その風は少しばかり冷たかった。

「なーに辛気臭い顔してんだよ。」

ヨツバの頭上から聞き慣れた声が飛んできた。

「少し昔のことを思い出していてね。」

霙はスティックキャンディの食べられない方を噛みながらふーんと生返事を返す。

「君こそ何だか晴れない表情じゃないか。人のこと言えないんじゃないのかい?」

「うるせーな、これが平常運転なの。」

ぷりぷりとイラつきを見せた霙は洗面所の窓を閉めようとする。そのとき、ヨツバは彼の名前を呼んで引き留めた。

「僕はね、ずっとある人を探しているんだ。昨日の君みたいにさ。

もし探し人が見つかったら僕のすべてを打ち明けるよ。だからそのときは君も……」

「……断る。」

霙は飴のついていないスティックを口から外したかと思うとべえっと舌を出す。今度こそ洗面所の窓は閉じられ、彼の金髪が完全に隠れてしまった。

「ちょっとくらい優しくしてくれても良いのに。」

拗ねたような言葉とは裏腹に、ヨツバはどこか満足気に微笑んだ。




次の日の朝。俺が家から出ると同時に、電子ブレスレットの通知ランプが光った。

『庭においで。今日こそは一緒に紅茶を飲もう。p.s.茶菓子もあるよ!』

ヨツバからのメールだった。文面を無視したいところではあるが、茶菓子があるよと言われてしまっては行くしかあるまい。

俺は彼の望み通り庭の方へ回った。すると庭の一角に小さな洋風のテーブルが置いてあるではないか。しかも丁寧にテーブルクロスまでかけてある。雑多な景観と全く合っていない。

「昨晩はこんなもの置いてなかったのに……」

俺の独り言に気がヨツバに聞こえたのか、彼は俺に向かって優雅に手を振った。

「おはよう霙くん。本当に来てくれるとは思わなかったよ。登校には間に合うのかい?」

お前が誘ったんだろ。今更登校時間を心配するのかよ。

「今日は早く目が覚めたから、早く登校して誰とも喋らないようにと思ってたんだよ。」

というか、と言葉を付け足して続ける。

「この机めっちゃ目立つじゃん。」

「ハハ、良いだろう、このテーブル!廃材を集めて作ったんだ〜!」

ちなみに折りたたみ可能!と日曜大工に勤しむ父親のようにはしゃいでいる。確かに机をよく見てみるとところどころ継ぎ接ぎのようにでこぼこしているのが分かる。白いペンキで目立ちにくくはなっているが。

机の上にかかっているクロスも同様で、白っぽい布のパッチワークになっていた。

「本当はスリーティアーズも作ろうと思ったんだけれど、どうしても無骨になってしまってねえ。」

だから中古の安いものを買うことにするよ、と言いながらヨツバは紅茶を注いでいた。種類の異なる二つのティーカップの中で赤色の液体が揺らめいている。

「ちなみに茶菓子とやらは?」

俺がそう問うと、ヨツバは特に何も言わず笑顔を湛えたまま大皿を指す。皿の上には砂糖が降りかかったミニドーナツが乗っていた。

「スーパーで売られてるやつじゃん……」

そう文句を垂れつつもちゃっかりテーブルにつく俺。我ながらチョロい奴だと思う。

手に砂糖が付くのも厭わず、俺はまずミニドーナツに手を出した。暴力的な甘さが脳を刺激する。ドーナツがランドルト環のような形になったタイミングで紅茶を一口。口内にへばり付いた甘みが爽やかな風味の滝に流された。

「はあ、霙くんもそんなだらしない顔するんだねえ。」

「は!」

ヨツバに指摘されなければ俺の顔は溶け切っていたかもしれない。俺は誤魔化すように咳払いをする。

「そ、それにしてもこの紅茶美味しいじゃん。紅茶には妥協してない感じ?」

「まあね。茶葉はスーパーでパック売りされていた物だけれど、入れ方は一級品のはずさ。」

しかも茶葉は二パック増量版だったんだ、とヨツバは心底嬉しそうに語る。安物の紅茶でも入れ方ひとつでこんなに味が違うものなのか。

「で、話を変えるけれども。」

ヨツバは紅茶や茶菓子には手を付けず、顎の下で手を組み一方的に話し始めた。

「あの夜、君は熟したとうもろこしを見たと言っただろう?結局熟したとうもろこしは何を表していたのか分かるかい?」

俺は指に付いた砂糖を舐め取りながら考える。

昨日熟したとうもろこしになってしまっていた取り巻きの様子を遠くから観察したが、不思議なことに実が鞘に収まっていたのだ。彼らの「指揮官」が姿を消したからだろうか?嫌、と言うよりも……

「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人……」

俺の独り言にヨツバは首を傾げる。

「ええと、これはひとつの仮説でしかないんだけどさ。もしかしたらあいつらは集団心理、もとい同調圧力に強く影響されたんじゃないかな。」

「なるほど、とても面白い仮説だ。」

でも、とヨツバは続ける。

「僕のPプランは、彼らが通常形態へ戻ったことに影響をもたらしたのだろうか?それとも全くの無関係?」

ヨツバの言葉で思い出したが、そう言えば俺を襲った貞子もまた熟したとうもろこしであった。彼女は個人行動をしていたはずなので同調圧力に屈したと言い切ることは難しい。彼女が俺と心中をしようとした背景もよく分からないし。

「霙くんの仮説は一理あると思う。でもまだ決め打ちするのは早い気がするんだ。もっと複雑な要因が絡んでいるような気がしてならない。」

ヨツバが疑る理由は定かでは無いが、俺も彼と同じ意見だ。

「うん、もう少し情報を集めてみる。」

俺はすくりと立ち上がり、椅子のそばに置いていた鞄を拾い上げる。行ってきますという言葉の代わりに、ヨツバに向かって軽く手を振り家を出た。





「おはよう、田原春霙。」

「ゲゲーーーッ!」

バスから降りると、北水仙高校のバス停そばには見覚えのある人物が立っていた。下ぶち眼鏡が良く似合う男子生徒。

「蛙と友達になったつもりは無いんだけど。」

誰かさんと全く同じ反応をするんだな……

藤間(とうま)……何でこんな時間に、こんな場所で?」

藤間は下ぶち眼鏡をくいと上げる。

「昨日からオカルト部の部長とガヤに追われているから、今日は早く登校して面倒を避けようとするだろうと予測した。」

友達歴一日の奴に俺の思考がバレバレな件について。(な〇う風味)

「それに、『友達』と言うのは一緒に登下校して、連れションして、一緒に遊ぶものだと把握している。」

「律儀かよ!てかトイレにまで着いてくんな!」

俺が半ば引いていると、藤間は不思議そうに頭を傾けた。

「分かった、君の排泄には同行しない。」

「言い方……まあ、着いてこないなら良いけど……」

気を取り直して校舎に向かう俺だったが、藤間は軽鴨の子のように俺の後ろを着いてくる。

「……お前、友達できたことないだろ。」

「無い。でも親密な交友関係を持たない君に言われたくない。」

「それは浅く広くって言うんだよ!」

ああ、近頃ずっとイライラしている気がする、誰かに振り回されている気がする。

俺は踵を返して歩みを止めた。

「はあ、ならお前は俺の情報収集にも同行してくれるんだろうな?」

「友達なんだから当たり前でしょ。」

藤間は表情ひとつ変えぬままグッドサインを返した。

うざったるい表情をするヨツバよりはマシ、なのかな……




幸い?俺とクラスが異なる藤間は、流石に()()()授業を受けることは無かった。

教師の教鞭と外の環境音以外が聞こえない授業中は数少ない休息時間だ。……勉強は嫌いだが。

俺はいつものようにぼんやり授業を聞いていると、後頭部に軽い衝撃を感じた。何事かと後頭部をさすってみるも自分の髪が指の間から流れるだけだ。そこで、小さな動作で椅子の下を覗いたところぐちゃぐちゃになった紙の玉が転がっていることに気づいた。

紙の玉を慎重に拾い上げ、それを開く。紙面には『今日カラオケに行く人!名前書いて! あおき』という文章と共に、参加者と思しき学生の名前が書いてあった。なんだか後ろの方から青木の熱い視線を感じる。俺、今回は参加しないからな!?

結局のところ俺は名前を書かず、その紙を丁寧に折り畳んでから前の生徒に渡した。後ろからの視線が悲壮感溢れるものになっている。ごめんって、今日の放課後は用事があるんだって。

「はい、今日はここまで。再来週は中間考査があるからそろそろ準備しておけよ〜」

ちょうど数学教師が授業用タブレットとスクリーンの接続を切ったあと、昼休み開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。

他の教室からも生徒たちの雑談が聞こえ始める。

「あっ、霙。お前本当にカラオケ行かな……」

「ごめん!用事ある!」

青木に声をかけられたが、俺は既にクラウチングスタートを切っていたので構っている余裕など無かった。と言うのも、急いで避難せねばまたオカルト部員に絡まれてしまうからだ。

俺は教室からゾロゾロと出てくる生徒たちの流れに逆らい、藤間との集合場所へ向かった。




       ***以下が回想***

昨日、俺と藤間が友達になったすぐ後のこと。

「そう言えば明日からどうするの?」

脈絡のない藤間の質問に頭を傾げる俺。

「先程からオカルト部の副部長と君の熱狂的なファン?から追われているじゃない。」

藤間が視線を向けた先にはあまり広いとは言えない校庭が広がっている。そこでは十から二十の生徒たちが俺を探して右往左往していた。

「あの調子じゃ明日も大人気だろう。良かったね、パパラッチだよ、パパラッチ。」

「良くないわ!」

「でも困った。君と良い友達関係を築くにはあのうるさい虫たちが邪魔すぎる。」

確かに藤間の言う通りだ。彼と仲良くなろうがなるまいが俺にとってはどうでも良いことだが、揉みくちゃになりながら甘味を味わいたくない。

「……仕方ない、ちょっと電子ブレスレット貸して。」

「あ、ちょっと!」

俺の了承無しに左腕からブレスレットをもぎ取ったかと思うと、藤間は屋上の出入口の方へ移動した。俺の電子ブレスレットと藤間の電子ブレスレットを短いコードで接続してからホログラムウィンドウを開く。……アウトローな匂い。

ホログラムウィンドウには解読不可能な文字列が高速で流れている。だが藤間が何かしらの操作をしている様子はない。

俺が不思議そうにその様子を眺めていたところ、三分程経って彼はこちらに戻ってきた。

「いつでも屋上に来れるように僕のプログラムを複製しておいた。ワイヤレスだとセキュリティに阻まれるからブレスレットと扉の操作盤を直接接続して。」

藤間はそう説明しながら電子ブレスレットといちメートル程の短いコードを俺に差し出した。コードの一端は電子ブレスレット用のよく見る形であったが、もう片方は円筒のような、かと言って複雑な構造の端子であった。

「お前のブレスレット、ウィルス感染とかしてないよね?」

「まさか。破廉恥なフリーサイトを多用するような男子高生と一緒にしないで。」

「お、俺使ってないからね!?」

「別に君のこと言ってるんじゃないけど。」

俺の顔はカーッと赤くなった。

       ***以上が回想***




「たまたま、そう、たまたま貰ったファイルの中にプログラムコードが入っててたまたま勝手に作動したんだ。うん、そう言うことにしておこう。」

屋上前の階段に辿り着いた俺は自分にそう言い聞かせながらコードを差した。電子ブレスレットと扉の操作盤が接続されると十秒も経たずにロックが解除される。藤間六花、末恐ろしい奴……

屋上の扉を開けると春一番の風が俺の後ろを通り抜けた。風と一緒に流れてきた花の香りが俺の鼻を掠める。

ふと彩度の高いものが視界の端に映った。何事かと屋上の隅の方へ移動すると、そこにはたんぽぽが一輪だけ咲いているでは無いか。

「こんなところにも咲くのか……」

土などほとんどないのにも関わらずケロッとした様子で葉を広げている。俺はいつものように踏み潰すか、はたまた引き抜くかしようと思っていたのだがそれさえも面倒になってしまった。

「放っておいてもいつか枯れるだろ。」

俺はたんぽぽを見なかったことにすると、椅子のように段差になっているところに腰掛け膝の上で弁当箱を広げる。中には昨日のアジフライとポテトサラダの残りが入っていた。

「今日は比較的色鮮やかな弁当だね。」

「うわっ!」

視界を弁当から声の発生源に移すと目の前には藤間が立っていた。

「いるならいるって言えよ。びっくりしたじゃん。」

「そう言われてもついさっき来たばかりだから。」

彼はそう言うと、さりげなく俺の隣に座る。ついでに俺の膝の上にマドレーヌを置いた。

「おお!売店に売ってるやつ!これ安いのに美味いんだよなあ!」

俺はついマドレーヌが二つ入った袋を頬擦りしてしまう。おっと、いかんいかん。気持ちを落ち着かせるために麦茶でも飲もう。

「どうしてたんぽぽを嫌う?」

唐突な質問のせいで麦茶を吹き出しそうになる俺。

「……そっちこそ、なんで俺がたんぽぽを嫌うって分かったんだ。」

俺がそう問うと、彼は自分の眉間に指をさした。俺、そんなに険しい顔をしていたのか。

「俺も分かんないんだよ。何故かたんぽぽを見ると嫌な気持ちがふつふつ湧いてくる。」

だが俺の答えが気に食わなかったのか、藤間は無表情なままじっと俺を見つめている。

「ああもう、分かんないもんは分かんないの!」

俺はもどかしくなって両腕で顔を隠した。


それはそうと、と話を切替える藤間。

「今朝、情報収集を手伝えと言っていたけど、具体的に何をすれば良い?」

「ええと、とある女子の情報を……」

「好きな人?」

違う違うと俺は両腕で顔を隠したまま首を振る。

「じゃあ彼女の名前は?」

「あ……」

そう言えば貞子の名前を知らない。あれ、つい最近にも同じような出来事があったような……

「じゃあ彼女の外見的特徴は?」

「前髪が長い?」

それだけ?と藤間はジト目で俺を見つめてくる。両腕のバリアを貫通する程の圧。仕方がないだろう、俺はほとんどの人がとうもろこしにしか見えないのだから。

「ああでも、高確率で同学年だと思う。彼女とぶつかったのは二年の教室前の廊下だったから。それから多分……彼女は友達が少ないんじゃないかな。」

これはあくまで予測でしかないが、女子という生き物は常に群れる生き物だと聞いたことがあるからだ。だが廊下でぶつかったときも俺を襲ったときも彼女は一人だった。何より、気の許す友人が居れば他人と心中しようなど考えつかないだろう。

「なら、もしかすると同じクラスの時雨小夜子(しぐれさよこ)かもしれない。

彼女、僕と同類で他人と群れないタイプだった。あと、前髪がとても長い。」

「それだーーっ!」

俺は両腕のバリアを解いて藤間の顔を指さした。

「前髪が長くて友達の少ない女子高生なんて他に腐るほどいると思うけどね。君がそう確信する理由が分からない。」

「うーん、強いて言うなら名前が貞子っぽいから?」

「阿呆くさ。」

藤間は真顔のまま肩をすくめる。

「よし、そうと決まれば……」

俺は弁当を急いで口にかき込み、ビシッと仁王立ちをした。

「貞子……じゃなかった、時雨小夜子の情報を集めるぞ!」

クラーク像のように、空へ人差し指を向ける俺。

「息巻いているところ申し訳ないけど、彼女は今日休み。」

「え、まじ?」

「おおまじだよ。昨日も休みだった。」

俺は人差し指を引っ込めてもう一度座った。

「ま、まあ、直接接触する必要は無いから……」

じわじわと羞恥心に襲われた俺は、藤間に背中を向け電子ブレスレットのホログラムウィンドウを開く。

「ちなみに……藤間は彼女のこと全く知らないんだよな?」

「知らない。興味無い。」

「ま、そうだろうな。」

俺はそのままホログラムウィンドウの表示をチャット画面に切り替え、青木と書いてある欄に人差し指で触れた。

『急で悪い、四組の時雨小夜子って知ってるか?彼女のこと知ってそうな友達とかいない?いたら紹介してくれると助かる。』

そうキーボードで入力・送信すると一秒程で既読がついた。テキスト入力中の表示が現れる。

それから一分ほど経過すると青木からの返信が来た。

『もち!(筋肉マーク)アカウント教える!→HayateKareno

時雨さんとは幼馴染だって聞いたことあるよ!

そう言えば本当にカラオケ来ないのか?まだ募集中だぞ?(ぴえんマーク)』

『ありがとう。でもカラオケは止めとく、また今度誘って。』

「カラオケ行かないの?」

どうやら藤間にトーク内容を見られていたようだ。

「あ!こら!プライバシーの侵害!」

俺はさっと腕を隠す。

「行かないよ。恥かいた記憶を忘れるまでは。」

ちなみに恥かいた記憶とはラスサビで声が裏返ってしまった記憶のことである。これは当分黒歴史になるな……

「それに、もう昼休みも終わる。放課後も調査の続きしなくちゃな。」

ウィンドウが閉じた電子ブレスレットには十二時五十分と表示されていた。




午後の授業中、俺は真面目に勉強せずに時雨小夜子の幼馴染へのメッセージ内容を考えていた。ちなみに、授業中はチャットに制限がかかっているためテキストエディタを使う。

『はじめまして、青木から話を聞いていると思うけど時雨小夜子さんについて何か知っていることがあれば教えて欲しい。』

うーん、初対面の相手に対してこれは単刀直入すぎるかな……

『お忙しいところ申し訳ありません。青木実から紹介を受けた田原春霙と申す者です。貴殿のお知り合いである時雨小夜子様についてお伺いしたいことがありご連絡させていただきました。』

流石に文章が固すぎるか?ええい、こうなったら……

『はじめまして、田原春霙です。聞きたいことがあるのですがチャットだと伝えるのが難しいので、放課後時間があれば高校近くのコンビニに来てくれませんか?』

直接会って諸々話そう作戦だ!文章じゃ伝わらないニュアンスも身振り手振りなら伝わるかもしれない。あと俺は自分の愛想の良さを信じている。約束さえ取り付けてしまえばこちらのものだ。

「ああ、フリードリヒ・ニーチェ様、スティーブン・ウィリアム・ホーキング様、アルベルト・アインシュタイン様……」

俺はそう小声でひたすら祈っていた。



放課後、俺は屋上という名のシェルターに駆け込み、授業中に練った文章をHayateKarenoに送信した。五回ほど誤字脱字が無いか確かめてから。

「ああ、フリードリヒ・ニーチェ様(以下略)」

返信が来るまで虚空に向かって両手を合わせる俺。意外なことにたった数分で返信が来た。

『枯野です。了解しました。部活があるので長話はできませんが。』

その文章を見て俺は思わずガッツポーズをする。

「嬉しそうだね。告白が成功した人みたい。」

「ぎゃ!」

昼休みのときのように、いつの間にか藤間が傍にいた。

「お、お前って影薄いよな。」

「そりゃどうも。それにしても、どうして時雨小夜子のことをそう必死に調べようとする?別に好きとかじゃないんでしょう?」

「そりゃ、とうもろこし……」

俺はすぐに口を噤む。そう言えば藤間に『周囲の人がとうもろこしに見える』ことを明かしていないのだった。

だが藤間の言う通りだ。俺はどうしてこんな真剣に調べているんだろう……別に熟したとうもろこしなんて腐るほど見てきたはずなのに。

「分かんない……」

「またそれ?」

藤間は常に無表情だが呆れている様子は何となく分かる。

「うう、仕方ないだろ、そう自分の思考について裏付けを求めたりしたことなんてないんだから。自分自身のことについて考えすぎるとパンクするんだよ。

ただひとつだけ言えることは、『このまま何もしないのはムズムズする』ってことと、『単なる居候のために奔走してやるほど俺が優しい』ってことだ!」

「はあ、とりあえず僕には隠しておきたい真の理由をぼかして伝えている訳ね。」

図星である。

「と、と、と、兎に角!もうそろそろ時雨小夜子の幼馴染らしい人と合流しなきゃいけないんじゃないか?な?そうだろ?待たせる訳にもいかないしなあ?」

わざとらしく焦る俺を疑りながらも、藤間は深入りせず着いていくとだけ言った。




屋上から出た俺たちは誰にも見つからないように校舎をあとにした。校舎の中を右往左往している最中は高難易度なステルスゲームでもしているかのようだった。藤間が校舎内に存在する全ての電子ブレスレットの位置情報を収集してくれたおかげで幾分か難易度は下がったが……それにしても何故俺の周りにはこんなアウトローな奴しかいないんだ。まともな奴はいないのか。

「どうやら回り道をした僕たちよりターゲットの方が早く目的地についているみたいだよ。」

未だゲームのプレイヤー気分が抜けていない藤間。彼の言う通り、北水仙高校の指定ジャージを着た女子生徒がコンビニの前に立っている。……って、女子生徒!?

俺は思わず藤間の肩を叩いた。

「枯野さんって女の子だったの!?下の名前がHayateって書いてあったからてっきり男子かと……」

「僕も統計的に同じことを思っていたけれど、まあ現代は多様化し続けているから不自然という訳でもないのかな。」

そんな俺らの会話が聞こえてきたのか、当の本人が声をかけてきた。

「こんにちは、田原春くんだよね。枯野颯です。」

「うわぁっ!ご、ごめん!男子だと思ってたからつい驚いて……」

「いいよ、いつものことだから。ほら、髪も短いし。」

枯野は恥ずかしそうに短い絹糸を弄ってみせた。

「それはそうと、話って何?」

俺の隣にいる藤間を気にしながらも、彼女は本題に移る。

「ああ、うん。時雨小夜子さんのことについて教えてほしいんだ。」

俺がそう言うと枯野はその丸っこい瞳をさらに丸くした。

「い、意外……田原春くんってモテるのに小夜子ちゃんみたいな子がタイプだったんだ……嫌、モテるからこそってこと……?」

「違う違う!どうしてこう皆異性のことになると恋愛の話題に絡ませたがるんだ!」

ムキーーッとつい荒ぶってしまう俺。いかんいかん、俺の本性がひょこっと……

「え、ええと……これだけは言わせて。時雨さんに危害を加えるつもりとか無いんだ。本当に話がしたいだけで。その……ある人のためにやってるっていうか……純粋な知的好奇心もないとは言えないというか……」

ある人というのは無論ヨツバのことだ。

「別に田原春くんのことを信用していない訳じゃないよ。ただ……貴方みたいに彼女に関わろうとしてくれた人にあまり出会ったことがなかったから。彼女のことが好きだとかそういう特別な感情があるならまだしも、ね?」

枯野はその細い指を組み直して続ける。

「私自身も今はほとんどと言っていいほど彼女と関わっていないし……昔は仲が良かったと思っているんだけど。」

「その話!詳しく聞かせて!」

俺はさっと切り替えて、電子ブレスレットの疑似キーボードを出現させた。




      ***以下が回想***

枯野颯と時雨小夜子の家族が面識を持ったのは後者が引っ越しの挨拶をしたときだ。二家族は丁度お向かいさんということもあり、良い関係を続けていた。それはそれぞれの娘たちにも言えることで、彼女らは物心つく前から心許せる友達だった。

「ね、小夜子ちゃん、クラブは何に入る?」

小学四年生の春、枯野がそう切り出した。

小学生にとってクラブ活動は「おねえさん、おにいさんになるための登竜門」であり、数多存在するクラブの中からたった一つの選択肢を選ぶというこのイベントは重要なものであった。

「そ、そうだなあ……お菓子クラブも面白そうだし、楽器クラブも良いな……でもやっぱり漫画クラブが良い!」

時雨は少しばかり惚れっぽいところがあり、無論少女漫画が大好きだった。毎月販売される少女漫画雑誌を最速で手に入れては、枯野と二人でレビューをしたものだ。

「う〜ん、私も漫画クラブ気になってはいるんだけど……でもどっちかって言うと陸上クラブに入りたいんだよね。」

気の合う二人であったが、意見が割れたのは初めてのことだった。

「それって颯ちゃんが最近短距離走の習い事を始めたからでしょ?私はお母さんに駄目って言われたのに。」

「でもほら、クラブの人たちを見るとすごく楽しそうだよ?小夜子ちゃんが塾のせいで他の習い事を始められないんならさ、良い機会になるんじゃない?」

「でも……」

時雨はそう説得されてもやはり揺るがなかった。漫画クラブの方が習い事で経験できないような活動だと思っていたからだ。

「……待って、分かった。もう一度習い事のことをお母さんに話してみる。颯ちゃんと同じ習い事に通えれば、颯ちゃんは漫画クラブに入ってくれる?」

「もちろん!私、小夜子ちゃんとお揃いが良いもの!」




放課後、時雨は親友と約束した通り母親へ説得を試みたのだった。……二日かけて何度も何度も自分の意見主張した末、結局のところ許しを得ることはできなったが。

三日目の夜。娘を見かねた彼女の父親が話に割り入ってきた。

「何もしたがらない無気力な子より、自ら習い事に通いたいと言う子の方がずっと良いじゃないか。別に(うち)は貧乏な訳じゃないんだし。」

「そんなこと言ったって貴方、この子は心から短距離走をしたい訳じゃなくて、ただ友達の楓ちゃんと一緒が良いから習い事を始めたいと言っているのよ。

塾に通っていても学校のテストの点は一向に上がりはしないし、一つのこともまともにできないんだから習い事を増やしたってどうせすぐ辞めてしまうわ。」

何も分かっていないのに口を挟まないで、と付け加える時雨母。負けじと時雨父は娘の方に顔を向ける。

「じゃ、じゃあ小夜子、次のテストで九十点以上を取ったら短距離走の習い事に通わせてもらうと約束したらどうだい?」

「あ……でも……」

時雨ははっきり言ってテストが苦手である。別に勉強を怠っているつもりはないのだが、どうも本番に弱いのだ。

だが父親の言う通り、習い事に通うにもお金を出してもらわなければならないし、無条件にそれをしてもらうというのも不公平だろう。

「分かった……」

傍からは自身のない少女に見えただろうが本人は至って本気だった。彼女はその小さな手でキュッと拳を作った。



丁度算数のテストが二日後に行われることになっていた。四十八時間というごく短い時間でテストの対策ができるだろうかと内心不安だった。時雨は両親に対して心臓を掴まれているような感覚を初めて抱いていた。

このとき彼女は初めて塾や学校の課題を放棄し、ただひたすらテストの範囲のみを勉強していた。たったの二日だ、きっと結果を出して心から謝罪すればこの件については許してくれるだろう。

そうして万全の状態で算数のテストに望む時雨。結果は───九十八点。一問間違えただけだ。

自分もやればできるのだ。このときは溢れんばかりの希望が胸の中でチカチカ光っていた。

彼女はテストのデータが内蔵されているタブレットを丁重にランドセルへ入れて下校時間を迎えた。自宅の家の前で深呼吸をしたあと、ただいまと言いながら扉を開ける。しかし、この日なら返ってくるはずのただいまは聞こえなかった。

おかしい、母親はパートで家にいないことがあるが、この日は休みを取っているはずなのだ。時雨が台所に向かうと、テーブルの上に書き置きがあった。

『パパと大事な話をしてきます。帰りが遅くなるから冷凍食品を温めて食べてね。』

母親の達筆な字を見て、時雨は嫌な予感を覚えた。だが、稚拙な自分の予想など当たるはずもないと首を振り、彼女はタブレットを抱えたまま玄関の前に座っていた。やがて、タブレットの発する微熱が心地よくなった彼女は冷たいフローリングの上で寝息を立てた。



時雨は誰かから肩を揺さぶられることでうたた寝から覚醒した。自分の肩から伸びる腕は母親のものだった。彼女の顔は酷くやつれている。

「お、お母さん……!これ!」

時雨はテストの結果を見せようとしたが、母親は彼女のタブレットに目もくれず寝室へ向かう。

「ごめん、お母さんちょっと疲れてるから……小夜子も早くお風呂に入って寝なさいね。」

当の本人は風呂にも入らぬまま寝室の扉をピシャリと閉じた。




結局、時雨は習い事の許しを得られず陸上クラブに入ることになった。

「ねえどうして?小夜子ちゃんはちゃんと約束を守ったんでしょ?」

枯野はそう問うたが、時雨は何も返さなかった。だが、しつこく問い詰める気もさらさらなかった。枯野の希望が通ったことには違いないし、子供心ながらこの話題に深入りすべきではないと思ったからだ。

どんな結果でも、枯野は彼女と一緒にいられればそれで良かった。きっと時雨も同じことを考えてくれているだろうと思い込んでいた……だが実際は違った。

あれから時雨は表情も暗くなり、孤立するようになった。幾度か彼女の相談に乗ってあげようとした枯野であったが、中学受験のために机に齧りついている時雨を見て声をかけられないままでいた。挙句には参加必須のクラブにも顔を出さなくなり、加速度的に顔を合わせる機会が減っていく。そんなぎこちない状態をズルズルと引き摺っているうち、中学に上がる頃には二人の接点はまったくと言っていいほど無くなっていた。


「ね、颯ちゃんってサダコちゃんと仲良くなかったっけ?」

小学校の頃には面識のなかった新しい友人が枯野にそう話しかける。

「あー、小学校の頃の話ね。」

枯野はかつて親友だったお向かいさんが『サダコ』という蔑称で呼ばれていることに複雑な内情を抱いていたが、敢えて指摘はしないままであった。

「じゃあ今はそんなに仲良くない感じ?なら良かった。実は彼女、校舎四階の窓から飛び降り自殺をしようとしてたらしいのよ。」

枯野は友人の発言を聞いた途端、持っていた教科書をバラバラと落とした。

「わっ!ごめんごめん!びっくりしちゃって!」

教科書を拾いつつ取り繕う枯野であったが、内心では疑問と混乱が竜巻のように激しく渦巻いていた。元親友に何が起こったのか詳しく知りたくなった彼女は、目の前の友人にそれとなく聞いてみる。

「ちなみに……なんで自殺未遂を起こしたかとか知らないよね?ほら、噂とか流れてきてない?」

すると友人は『噂』という単語に瞳を輝かせてまくし立てた。

「そうそうそれがさ!サダコちゃんのカウンセリングを盗み聞きした子から話を聞くとね、彼女のお母さんとお父さんが離婚したせいで気を病んじゃったんじゃないかって!」

「り、離婚?いつ?」

「うーん、流石にそこまでは分からないな〜……」

このとき枯野はこの「最悪な出来事」がつい最近ではなく去年……時雨の様子がおかしくなった頃に起こったのではないかと勘ぐっていた。

「どうしたの、颯ちゃん。顔色悪いよ?大丈夫?」

いつにもなく深刻な顔をしていたらしい枯野を心配した友人が肩を叩く。暗い思考から引き戻された彼女は笑って誤魔化すことしかできなかった。そう、当時の彼女はこれ以上深入りできなかったのだ。結局、周囲の生徒と同じように時雨をサダコと呼ぶことしかできなかった……

      ***以上が回想***




「もう少し彼女に寄り添ってあげられれば友達のままでいられたんじゃないか、なんて思うの。」

今更罪悪感を覚えたってどうにもならないのにね、と苦笑いをする枯野。一方、俺は原因不明の吐き気を覚えていた。

「どうした、田原春霙。顔色のカラーコードが#fbdac8から#f1ddcfに近づいたけど。」

様子のおかしい俺に気がついたのか、藤間は俺の顔をぐるりと覗き込んだ。

「な、何でもない……とりあえず肩を貸してほしい。」

自分より背の低い藤間の肩に腕を回し、半分ほど体重を預ける俺。藤間のわけの分からない発言にツッコミを入れる余裕もない。

「だ、大丈夫?霙くん。救急車呼ぶ?」

枯野は藤間よりも慌てふためきながら俺を心配してくれた。彼女が電子ブレスレットに119と入力する寸前、藤間がそれを制止する。

「呼ばなくていい。パッと見た感じ、彼の病状は消化器官や脳の異常に起因するものじゃない。安静にすれば大丈夫。」

藤間はひょいと俺を背負うと足先を北水仙高校へ向けた。

「ちょ、ちょいまち……枯野さんにひとつ聞きたいことが……」

ボソボソとした俺の発音に気づいた藤間と枯野は互いに顔を見合わせる。

「後悔してるなら、なんで今からでも会いに行かないわけ?」

憔悴しきった俺の言葉が枯野に届いたかどうかは分からない。だが確かに、彼女の顔は強張っていた。




「怒っているの?」

銀杏の木の下に設置してある件のベンチに俺を寝かせるや否や、藤間はそう問うた。

「いいや、気持ちが悪いだけだ。」

夕焼けの光が銀杏の木漏れ日となって俺の目をチラチラと照らす。俺はそれが眩しくて、自分の目を手で覆った。

「別に理解不能ってわけでもない。ただ、あまりにも二人が人間らしくて……生々しくて……」

軽い気持ちで枯野の話を聞くんじゃなかった。その一言に尽きる。

「彼女の話を聞いてなお、君はどういう選択を取る?」

藤間の二つ目の問いに対して、しばらく沈黙を返した。

「直接、時雨小夜子に接触するかぁ〜……」

数分長考した結果がこれであった。できれば取りたくなかった選択肢。

「接触するって言ったって、彼女の家の住所が分からないじゃない。」

別に取得しようと思えばできなくもないけど、と付け加える藤間。嫌、それはガッツリ違法だからやめてくれ。もう自分に対する言い訳のバリエーションが無い。

「枯野さんに合わせる顔も無いし……あ〜、新個人情報保護法に引っかからないグレーな方法、無いかなぁ……」

俺は指の隙間からチラッチラッと藤間を見やる。彼は小さくため息をついた。

「これはあくまで僕の独り言だと思ってほしいんだけど。枯野颯を追跡すれば自ずと時雨小夜子宅の場所もわかる。」

「なるほど、しつこく追い回さなければストーキング行為にはならないか。」

確かに限りなく黒い方法だが、今取れる選択肢はこれ位しか無いだろう。

幾分か気分がマシになった俺は、ベンチからむくりと身を起こし背伸びをする。

「じゃ、さっそく今日実行ってことで。藤間、もちろんお前も来るよな?」

共犯者は多ければ多いほど良い……




俺と藤間はステルスゲーム、オペレーション2を実行した。グラウンド外周に生えている木の裏から顔を出す俺たち。

「枯野さん、多分陸上スポーツ関連の部活生だよな?」

俺が藤間に確認を求めると、彼はこくりと頷いた。

「間違いないね。彼女のスニーカーはグラウンドの砂で汚れていたから。」

俺たちは仲良くグラウンドの隅から隅まで視線を飛ばす。ターゲットという名の枯野颯を発見したのは藤間が先であった。

「体育座りしてる集団のうち、前から二番目、左から三番目。」

「あ、ほんとだ。お前、目がいいな。」

監督のような大人が背を反らし、生徒たちを見下ろしている。距離があるため生徒たちの表情は見えなかったが、どこか緊張した雰囲気を纏っていた。

「選手の選出でもしてるのかな?」

俺の独り言に、だろうねと藤間が返す。

しばらく様子をうかがっていると、名前を呼ばれたらしい生徒たちがぽつりぽつりと腰を上げ始めた。しかし、いくら待っても枯野が呼ばれる様子はなかった。

「集団がバラけ始めた。話はもう終わったんだろう。」

藤間の言う通り、生徒たちは各々練習に取り掛かり始めた。他の生徒とは違い、地面を眺めていただけの枯野は友人らしき女子生徒たちに励まされていた。

「ま、眩しい……」

決してまともとは言えない学生時代を送ってきた(現在進行系)俺は枯野を囲む青々しい雰囲気に目を逸らしてしまった。俺はそのままズルズルと木の幹に背を擦り付け、胡座をかく。

「早く部活終わんないかな……このままじゃ光成分で俺の体が焦げちまうよ。」

「光成分?夕日の光のこと?」

「概念だよ、概念。藤間はそんなことも分からないのか?天然ちゃんなのか?」

藤間は俺の言葉の意味を考えているようで、黙りこくってしまった。嫌、もしかするとすぐに理解したのかもしれない。だが、彼の口から答えが返ってくることはなく、二人の間で沈黙が続いた。一応友人であるはずの俺たちが纏って良い雰囲気ではない。とても気まずい。

そう言えば俺と藤間は、何だかんだ言って話題に尽きなかった。ただ、傍から見れば年齢不相応と言うか、事務的と言うか……そんな話ばかりしていた気がする。これを期に、藤間について深く知るのも良いかもしれない。

「と……藤間くんはさ……好きな食べ物とかあるんですか?」

「は?急に改まってどうしたの?」

勇気を出した俺に向けて、最大限の疑いを乗せた視線を飛ばす藤間。俺はその目線を腕で遮った。

「特には……」

そう言いかけた藤間は少しばかり考える素振りを見せる。

「嫌、焼きそばパン。僕は焼きそばパンが好き。」

「はあっ!?じゃあお前、()()()()わざわざ自分の好物を俺に渡したのか?」

()()()()とは、俺と藤間が始めて屋上に足を踏み入れたときのことである。(前話参照)

藤間はやけに歯切れの悪い肯定をした。

「まあ、そういうことにしておこう。君の良心を甚振れる。」

それに、と彼は続ける。

「別に無理して話題を提供しなくたっていい。君は変なところで律儀だね。」

そう言うや否や、俺が背を預けている幹の面とは反対側に腰を下ろした。

再び二人の空間に沈黙が満たされたが、今度ばかりはこの静けさが落ち着くのであった。



俺たちが次に口を開いたのは、部活生たちがグラウンドから撤収し始めたときのことだ。結局、三時間も待たされてしまった。

太陽はすでに沈んでおり、頼りになるのはグラウンドを囲む照明とビル群が放つ光だけだ。

「校門前まで先回りしよう。」

藤間はそう言って俺の袖を引く。ちょうど一時間前から暇潰しとして課題を進めていたのだが、すべて解き終えていない俺は少しばかり未練を残しつつもホログラムウィンドウを閉じた。

オカルト部+αの追っかけに遭遇することもなく校門前に到着した俺たちは、枯野の姿を捉えて順調に彼女の跡を追うことができたのであった。




            ❆




「はいロン!」

「ぐわああ!やられた!」

とある寂れた一軒家から賑やかな声とほのかな明かりが漏れていた。

「おやおや、僕抜きで楽しそうにやっているじゃないか。酷いなあ、一声掛けてくれればいつだって駆けつけるのに。」

ヨツバはそう言いながら入口の引き戸を潜る。

「お、久しぶりじゃないかヨツバくん!二週間ぶり?」

麻雀牌を注視しながらも挨拶を寄越してくれたのは霜田という男だ。彼は車の整備工場で働いているためか、ここでは『モータさん』と呼ばれている。

「だっはっは!お前が来ると俺たちの点数が全部取られちまうからな!そりゃ呼びたくもなくなるさ!」

一方、シケモクを加えたまま豪快に笑う彼は『ドン』という愛称で親しまれている。彼はホームレス界隈で一目置かれている古株のひとりであり、しばしば牛丼屋で目撃される。

困ったなと苦笑いしたヨツバは、思い出したように三人目の男──というよりも老人と表現したほうが適切か──に話しかける。

「ああそうだ、『ゴッドファーザー』。件の探し人について何か情報とかあったかな?」

モータさんの向かい、ドンの右隣に腰を掛けている『ゴッドファーザー』は、時代錯誤的なパイプを口から外し深く煙を吐いた。

「少なくともお前さんの探し人が失踪したらしい時期以降のものはない。」

頑固親父そのもののメタファーのような彼は、業界人や裏の世界の人間まで交友を持つ謎の人物であり、この麻雀荘の主人でもある。彼を恭しく『ゴッドファーザー』と呼ぶことで、麻雀荘の利用料金をまけてもらうことができる。

「ふむ、貴方の顔の広さでも見つからないとは……さて、どうしたものか。」

ヨツバが一人考え込んでいる隣で、残りの男性陣は勝手に会話を始

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