たかが五千円、されど五千円
平日の朝はルーティンが決まっている。
目を覚ましたら洗面台へ向かう。スーパーで安売りしているミント味の歯磨き粉を使って歯を磨くのだ。口内が爽やかになったらついでに顔も洗って朝食と弁当の準備をする。と言っても優雅な朝食を取るわけもなく、前日スナックで提供したおかずの余り物を食べるしかないのであるが。おかげで弁当のおかずもじじ臭い。
今の時代には似合わない液晶テレビで天気予報やらニュースやらを見ていたら大抵朝食を食べ終わっている。そして俺は流れるように食器を洗って再び洗面台へ赴くのだ。なんのためにだって?まだ二回目の歯磨きとヘアセットが終わっていないじゃないか。
少しばかり神経質だと思われてしまうかもしれないが、やはり食後の口臭は気をつけねば。
シャコシャコと歯ブラシを動かし、歯が真珠のようになったのを確認してから櫛を手に取った。
絡まった髪を幾分か解いたら母さんの使っているヘアワックスを数滴拝借する。手に薄く延ばしたワックスを均等に髪へ滑らせたあと、再びそれを手に取って毛先を整える。ここでヘアワックスを欲張ってはいけない。テカテカあぶらぎっしゅへあになってしまうからだ。
寝癖が治まった髪に黒いヘアピンをつける。できるだけ散髪代を節約するため……じゃなくて、お洒落である。そう、お洒落。トレンド。
そう自分に言い聞かせていると洗面所の小窓が春風を吐き出していた。春風に揺られた数束の髪はまるで薄く引き延ばされた黄金糖のよう。今日も相変わらず俺の髪はたんぽぽ色だった。
鏡の中の俺がムスッとした顔をしていたので鏡に背を向ける。その瞬間だった。
春風と共にガシャンゴションという辺りに響き渡る音が小窓から流れ込んできたのだ。何事かと窓から顔を出すと、シルクハットをかぶった男───ヨツバと目がばちりと合う。彼の新しい部屋である倉庫の外にはいくつもの荷物が積まれており、どうやらそれらの一部が崩れてしまったようだ。先程の大きな音は荷物だけではなく俺の日常が崩れる音でもあったということか。
「やあおはよう、霙くん。良い朝だね。」
俺の暗い表情とは裏腹ににこやかに話しかけるヨツバ。
「昨日俺が言ったこと忘れたのかよ……」
「もちろん記憶しているとも。ここに住んでいることが椿さんにバレないようにする、だろう?」
分かっているのなら静かにして欲しいのだが。俺はあえてそれを言葉に出さず、鋭い目付きで伝えた。
「ていうか、どうして俺の母さんの名前を知っているんだ。やっぱお前母さんのストーカーとかじゃないの?」
「失敬な!単に推測しただけさ!まあ君の発言が答え合わせにはなったけれどもね。」
あ、しまった。
露骨に焦った表情をさせた俺を見て、ヨツバは心底嬉しそうであった。こいつ結構性格悪いな。
人の不幸を喜ぶんじゃねえと文句を言おうとしたのも束の間、後方からむにゃむにゃと声が聞こえてきた。
「霙ちゃぁん……?どうかしたの?」
やけにガーリーな水玉模様パジャマを身につけた母さんは眠そうに目を擦っていた。
俺はすかさず小窓を閉める。
「ああ、嫌、その……そう、友達と電話してたんだよ!一緒に登校しようってさ!じゃ!そういうことだから!」
冷や汗を滝のように流しながら俺は家を出た。
「危なかった……母さんが寝起きでよかった……」
庭まで降りてきただけなのにぜえはあと息を荒らげる俺。
「お疲れ様、お茶でもいかがかな?」
焦る俺とは裏腹にのんびりとした口調でヨツバは言う。
「飲むわけないだろ!元はと言えばお前が大きな物音を立てたせいじゃないか!」
「その点に関しては申し訳ないと思っているよ。でも根本は君の都合だろう?僕は僕が同居することについて椿さんに言うべきだと思うけれど。」
突如として正論パンチが俺の頬にヒット!俺は軽く吹っ飛ぶ。
「椿さんは僕の同居を認めてくれるんじゃないだろうか。公園の同志たちも彼女は優しいって言っていたし。思うに、君は彼女に負担をかけたくないのでは?」
今度は図星キックが俺のみぞおちにヒットした。
うぐぐと呻き声を上げながら俺は姿勢を立て直す。
「分かってるなら協力してくれよ……」
「もちろん。僕はあくまで住まわせてもらっている身だしね。」
ヨツバはどこで手に入れたのか分からないティーカップを揺らしながらそう言った。紅茶の粒子がカップの側面にぶつかり、独特な香りを放っている。
「おや、残念ながらティータイムの時間は無いようだ。」
彼はそう言うと、恐らく渡すはずだった紅茶を飲み干してから俺の電子ブレスレットを指さす。ブレスレットの表示板はちょうど午前八時を示していた。
「まずい!バスに乗り遅れる!」
俺は地面に置いていた鞄を素早く拾い上げ、庭から駆け出した。昨晩の残り物が詰まった弁当箱と手を振るヨツバを置いて……
バスの乗車口が閉まりかけていたところ、扉の隙間に手を突っ込むことでそれを阻止した俺は何とかバスに乗ることができたのであった。駆け込み乗車を注意するアラームが鳴り響く中、俺は体を縮めてバスの後方に移動する。とうもろこしたちからの視線がレーザービームのように俺の体を焼く。いたた……
いつも俺が通学に使っているこのバスは電車のように座席が壁沿いに設置してあり、逆に残りのスペースには何も設置されていない。座席は等間隔で柱に区切られているため、立たざるを得ない乗客はその柱を支えにする。小学生の頃に教科書で見た昔のバスは今よりずっと座席の占めるスペースが大きく、また運転手がいたようなので乗客収容数が少なかったようだ。ちなみに現在の時刻は座席争奪戦になる時間帯であるため俺は座席に座れたことがない。目的地はさほど遠くないのであまり困ったことは無いが……今朝は色々な要因で疲れが溜まっているので座りたい。
結局、そんな俺のささいな願いは北水仙高校の校門前に到着するまで叶わなかった……
俺は毎朝のように校門前で深呼吸をする。今日も上手くやるんだぞ、と自分に喝を入れるために。そして、にっこりマークが描かれている紙をしわ伸ばししてから顔面に貼り付けた。学校にいる間、俺は眉目秀麗で爽やかで紳士的な男子高生なのだ。
「「おはよう、霙くん!」」
昨日とは違うとうもろこしたち(女)が俺に挨拶をした。俺はもちろん挨拶を返す。するととうもろこしたちはキャーとキャピキャピした声で叫んだ。叫んだ理由を問えば恐らく霙くんエネルギーがチャージできたからとか返ってくるだろうが、話題作りのために理由を聞いておく。
「どうして叫ぶんだよ。俺の顔に虫でもついてた?」
俺が自分の顔に指をさすと、とうもろこしたちは滅相もないと頭を仲良く振った。
「顔面が良すぎて!ね!」
「そうそう!霙くんエネルギーがチャージできたから!」
彼女たちはお互いに顔を合わせて同意を求めている。それはそうと俺は預言者とかに向いているかもしれない。
「二年生になってクラスが変わっちゃったでしょ?霙くんは理系だから三組だよね!」
俺の通う北水仙高校は一学年四クラスで構成されており、二年生からは前半二クラスは文系、後半二クラスは理系に分けられる。二年次に決まったクラスは三年になっても変わらない。
「私たちは文系クラスだから絶対に霙くんと同じクラスにはなれなかったのよね……だから必然的に霙くんエネルギーが不足しちゃったって言うか。」
「霙くんはいつも誰かに囲まれてるし、運が良くないとエネルギー補給できないでしょ。」
彼女たちは再び、ねーと顔を合わせながら笑った。
そういえば今年のクラス替えのとき女子たちがやけに燃えていたような気がしていたのだが、あれは俺と同じクラスになりたいがためだったのか。クラス替えは教師たちの振り分けと運次第であるから心を燃やしたってどうにもならないと思うのだが。
「そういえば霙くん、一組の〇〇さんと別れたって聞いたよ!」
「え~!付き合った平均期間が三日って本当だったんだ!」
そういえばで触れて良い話題ではない!俺は本日二度目の大汗を流す。
「は、はは、平均を鵜吞みにするのはお勧めしないけどなあ。中央値や分布を一緒に解析した方が良いと思うよ……」
別れたという話は本当であるし、彼女たちが言う付き合った平均期間が三日という話も漏れなく事実である。だからと言ってここでこれらの話を認めたり、苦しい言い訳をしたりといったことは悪手である。あえてやんわり否定する、これぞ必殺・有耶無耶ディナイング。
「流石霙くん!なんだか難しいけど、霙くんの言う通りかも!」
統計関係の勉強もっと頑張らなきゃと可愛くガッツポーズしたとうもろこしたちは、チャイムが鳴ったあと校舎へ吸い込まれて行った。今回も何とかなったようだ。
「『うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば』、これは万葉集に掲載されている歌のひとつで……」
古文教師が有名らしい歌の解説を淡々と行っている。窓から差し込む生暖かい光が、俺を含めとうもろこしたちの眠気を誘う。これまた春の日向を思わせるような教師の緩い口調が、とうとう俺を夢の世界へ誘おうとする……そのときだった。
視界の端にちらちらと映る長身の男の姿。やけに大きなシルクハットがあまり広くないグラウンドに咲いていた。
俺がその男の姿をはっきりと認識したと同時に、教育用タブレット端末へとサイレント通知が届く。どうやら俺宛のメールのようである。
『やあ、霙くん。授業中の居眠りとは頂けないな。それはそうと二つほど用事があって君の高校へ赴いたのだが、話を聞いてくれるかな?』
俺は理由もなくタブレットをスリープモードにした。数秒ばかり目頭を揉むなり頭を搔くなりして思考をリフレッシュさせたあと、タブレットのスリープモードを解除する。やはり画面には先程の長文メールが表示されていた。すかさず窓へ視線を向けると、相変わらずグラウンドの上にあの男が立っているのが見える。
俺は諦めてメールの返信をした。
『帰れ。』
句読点含めたったの三文字という極端に短い返信である。瞬きで視界が塞がれ次に視界が戻るときには既にヨツバからの返信が届いていた。
『まず一つ目の用事。それは僕からのお願いというか協力要請というか、まあ兎に角ここではお願いということにしておこう。ただ、諸々の事情があってメールの文面に詳しい内容を書くことができない。だから昼休みあたりに一度僕と会って欲しいんだ。』
こいつ、俺の気持ちを思い切り無視して返信してきやがった。俺はすぐに嫌だと返信する。だが再びヨツバから凄まじい早さで返信が届いた。
『君なら断るだろうと予測していたよ。しかし、君は以降の文を読んで考えを改めるだろう。
二つ目の用事は君の弁当箱に関することだ。なんと、僕は君が家の庭に置き忘れてしまった弁当箱を届けに来てあげたのさ。今日一日昼食を抜いて飢えに苦しむか、僕と楽しい会話をするか選んでくれたまえ。北水仙高校の昼休みは正午からだったはずだ。だから午後十二時五分に校門前で落ち合おう。p.s.焦って階段を転げ落ちないように。』
む、む、む……むかつく〜〜〜〜〜〜!
俺は多分鬼のような形相であったと思う。周囲のとうもろこしたちが何事かと夢の中から舞い戻ってきたからだ。ここが高校でなければ俺は怪獣のように叫び散らかしていただろうが、既のところで怒りを抑え込むことに成功した。もしかしたらスーパーナントカ人のように髪が逆立っていたかもしれないが。
俺は古文の授業が終わるまで額に青筋を浮かべたまま教科書と睨めっこをしていた。
昼休みに入ってすぐのこと。俺はとうもろこしたちにカラオケに行かないかと誘われたが、返事を考える余裕がなかったので一旦保留にさせてもらった。弁当を忘れて戦場に行かなくちゃならないから、と理由を添えて。弁当を忘れてしまったのは事実だし、売店の戦士たちに時間の猶予が無いことを皆知っているので、疑いもせずハンカチを振ってくれるだろう。俺はとうもろこしたちにウインクを返しながら教室を去った。
校舎を出たあと、周囲に人がいないか何度も確認しながら校門へ向かう。途中守衛の警備を掻い潜りながらもなんとか後者の敷地を抜けることができた俺。このときの俺はさながら怪盗のようだった。
校門のすぐ隣に建っている高い塀に身を隠しながらヨツバを探していると、右方数十メートルの物陰から特徴的なシルクハットが飛び出しているのを発見。恐らくヨツバのものだ。
俺は引き続き姿勢を低くしたまま物陰に近づいた。
「約束の時間を一分二十秒ほど過ぎているね。」
目印にしていた帽子をあるべき場所へ戻すと、ヨツバは弁当箱を俺に寄越した。
「別に十分とか遅れた訳じゃないから良いだろ。そういうこといちいち指摘してたら嫌われるぞ。」
俺はそっぽを向いてアスファルトの上に腰を下ろす。そのまま脚の上で弁当箱の風呂敷を広げ、煮物をつつきながらお願いとやらを問うた。
「うむ、詳細を話すにはまず僕の使命から説明しなければならない。」
「使命?」
こんな不気味なホームレスに?ああ、今は物置住まいか。
「さて、僕が公園で手品をしていたのは君も見ていただろう。そのとき君は逃げるように去っていったが、もしかするとあれは僕の手品がつまらなかったのではなく、何かに恐怖を覚えたからじゃないのかな?」
図星である。
「唐突にどうしてそんな話を。」
俺は白米を吹き出しそうになるところを誤魔化しながらそう言った。
「何故君は公園から逃げたんだい?」
「おい、俺が先に質問してるだろ。」
俺が睨むとヨツバは良いからとなだめた。数秒ほど考え込む俺。ヨツバの手品がフィナーレを迎えたとき、ホームレスたちがポップコーンになっていた……なんて言ったら精神科を勧められてしまうかもしれない。しかし勘の鋭い、というか異様に推理力の高いヨツバに対して隠し通すのも無理な気がする。これ以上詮索されるのも気分が悪いし、いっそのこと笑われる覚悟で真実を伝えた方が良いのかもしれない。
「……絶対に笑うなよ。」
ああ、笑わないとも。ヨツバはそう言って姿勢と目を合わせた。俺は一呼吸置いてからぽつりぽつりと話し始める。
「俺は昔からほとんどの人がとうもろこしに見えるんだ。大きなとうもろこしの鞘だよ。
いつもは皆外皮に包まれていて中の実は見えないんだけど、あのときだけは違った。」
「ほう、どう違ったと?」
意外なことにヨツバは笑わず、むしろ興味深そうに瞳を丸くしている。約束通り彼は俺のことを笑わなかったので、引き続き話を進めることにした。
「その……外皮が剥がれてポップコーンになったんだ。じつを言うと実が剥き出しになっているとうもろこしはたまに見かけるんだけど、ポップコーンになった奴なんて見たことなくてさ。びっくりしたって言うか……」
「未知ゆえの恐怖というわけか……」
ふむふむと唸りながらこめかみを指で叩くヨツバ。しばらくすると、彼の中で合点がいったようですっきりした表情をした。
「なるほど、僕もポップコーンになったという事例は聞いたことがないね。君のように人間が別のものに見える人は知っているけれども。」
「え、それって……」
俺と同じ境遇の人がいるってこと?
俺はそれが誰かをヨツバに問おうとしたが、彼がすかさず口を開いたので叶わなかった。
「やはり君にお願いを遂行してもらうのが適切なようだ。僕の目に狂いはなかった!」
そう言うとヨツバはすくりと立ち上がり、大袈裟に手を広げてみせる。
「ずばり言おう!僕の使命とは、君の言葉で言うなら『世界中の人々をポップコーンにすること』だ!」
路地裏の建物に反射して道路に飛び出すくらい大きな声だった。
「コホン、これは僕なりの解釈なのだけれど、ポップコーンになるということは心から楽しいと感じることと同義だと思うんだ。」
俺が反応しかねている間、ヨツバはどこからともなく取り出したチラシの裏にペンを走らせていた。
「まずとうもろこしの実が鞘に収まっている状態───これが通常状態、いわゆるひとつの基準だね。そしてとうもろこしの実が弾けポップコーンになった状態が極限の享楽状態と言える。……ただ、とうもろこしの外皮が剥がれ実が剥き出しになっている状態は、一体何に当てはまるのかまだ分からない。」
チラシの裏にはやけに精巧なとうもろこしの絵が三つ描かれていた。
「と、言うことで、君にはChange humanity to popcorn plan、略してPプランの手伝いをしてもらいたい!」
「ス、ストップ!」
あまりにも話が進むのが早すぎて、つい待ったをかけてしまった。どうせ一声あげたくらいではヨツバのマシンガントークは治まらないであろうから、俺は思い切って彼の口を手のひらで抑える。
「ちょっと整理させて……」
俺の言葉に対してヨツバはむぐぐと呻きながら頷く。俺は数分かけこんがらがった思考を整理してから口を開いた。
「二つ質問していいか?まず、どうしてお前のお願いとやらを叶えるのに俺が適任なんだ。」
一瞬ヨツバの口から手を退ける。
「君と同じ症状……というか感性を持った人物を知っている、と言っただろう?ある人は果物に見えたり、ある人は卵に見えたりだね……とりあえず彼らは揃いに揃って他人の感情に敏感という特徴がある。」
ヨツバの口が饒舌に回りだしそうになっていたので再び俺は彼の口を塞ぐ。
「何となく分かった。俺が普通のとうもろこしとポップコーンを見分ければ良いって話だろ。」
俺がそう言うと、ヨツバは何も喋らぬまま指をさした。That's right!という声が聞こえてきた気がする。
「じゃあ次の質問。お前が全人類をポップコーンにしたがる理由は?」
俺は今度こそヨツバの発言権を返してやった。
「約束を果たすため、それからアイデンティティを保つためさ。」
彼は帽子の縁を持ちながら楽しそうに笑っていた。
「それで、どうだい?僕の使命に協力してくれる気にはなったかな?」
そう言って手を差し出すヨツバ。俺に握手を求めているのだろう。
俺は残った昼食を全て口にかき込んでから、二度目の握手を交わすことにした。何故彼に協力する気になったのか、自分でもよく分からないまま。
随分と長く話し込んでいたようで、(主にヨツバの長話のせい)あと十分で午後の授業が始まるところだった。俺は行きと同じようにそろりそろりと校舎に戻る。守衛や他の生徒に見つからずに済んだ俺は、教室を目指して廊下を歩いていたところ長い絹糸を貞子のように垂らしているとうもろこし(女)と衝突してしまう。
「あっ、ごめん。」
そう短く謝りながら彼女が落とした数冊の本を拾い上げ差し出すと、彼女は無言でそれらを受け取り走り去ってしまった。何だったんだ、今のは。
どことなく感じたおどろおどろしい雰囲気に身体を震わせていると、今度は後方から声をかけられた。
「よう、霙。」
「うわぁぁっ!」
いきなり声をかけられたものだからつい変な叫び声をあげてしまう俺。
「そんなに驚く必要無いだろ。結局カラオケに行くのか行かないのか聞きに来ただけだよ。」
声をかけた主というのはテニス部エースの青木実という男子生徒である。部活で忙しいはずなのに週に二、三回は複数人で遊びに出かけるエネルギッシュな男だ。彼も俺同様かなりモテる方だが顔が良いのかは知らない。なぜなら彼も漏れなくとうもろこしだから。
「ああ、えっと……どうしようかな……」
いつもならバイトがあるからと断れるのだが、女子生徒にもう俺が元カノと別れたことが知れ渡っていたので俺がバイトを辞めたことも恐らく広まっているだろう。それに、たまには首を縦に振らなければ付き合いの悪い男というレッテルを貼られてしまうかも……
「イクヨ、カラオケ。」
半ば機械的に言ってしまった。
「おう!お前が来れば女子たちも喜ぶな!皆にも伝えとく!」
多分青木がいれば十分だよと心の中で呟いたが、彼自身はそんな俺の心中など知る由もなく爽やかに立ち去って行った。
時間はあっという間に経ち放課後。授業中には密度の高い教室も、今の時間になれば生徒がまばらになる。
放課後になったことで電子ブレスレットのインターネット制限が解除された頃、ポロンと言う音と共にひとつの通知が流れてきた。
『青木だよ。今日カラオケ行くって聞いたのは良いんだけど集合場所を伝えておくの忘れてた(笑)文化部の部活が終わる時間に合わせるから、十八時に最寄り駅集合でよろしく!(グッドサイン)ちなみにテニス部は十九時終了になりそう(泣き顔マーク)』
十八時……今から駅前に行くのも早すぎるし、どこかで時間を潰さねばならない。
俺は軽くため息をついてから、電子ブレスレットのホログラムウィンドウを閉じた。
学外で待つのも金がかかりそうであるし、俺は妥協して図書室で暇を潰すことにした。特に読みたい本などはなかったので手持ち無沙汰のまま端の席へつく。勉強は嫌いだし、特段趣味がある訳でもない。俺はあまりの退屈さに、いつの間にか腕を突っ伏して居眠りをしていた。
真っ暗な視界の中、ただ聞こえるのは自分を嘲笑う声だけだ。これは夢なのか、はたまた現実なのか分からぬまま、俺は何も出来ずに体を震わせているだけであった。やがて我慢できなくなって拳に力を込めると、気がつけば俺は上半身を勢いよく起こしていた。
なんだ、ただの夢か───そう自分に言い聞かせたいところであったが、どうやら先程聞こえていた囁き声は現実であったことのようだ。幸いなことに俺に向けてのそれではなかったが。
ところが周りを見渡しても大真面目に机に向かっているとうもろこししかいない。あの笑い声は外から聞こえるものだったのか。
兎に角、ああいった人を馬鹿にするような笑い声は気分の良いものでは無い。俺は次なる静寂の地を探して図書室を抜け出した。───結局のところ、俺は良い場所を見つける前に笑い声の発生源を突き止めてしまったのであるが。
ああ、嫌でも耳に入る。強者が弱者を虐げる様が。
「だからさあ、金貸せって言ってんじゃん。ここにいる四人分だけでいいから。俺たち今日カラオケに行くんだわ。」
強者と言えど一括りにできるほど単純な構造ではなく、その中でも何層かに分かれている。恐らく先程の発言をしたのはその四人とやらの中で最も地位の高い者だろう。そしてそれは俺の教室内で聞いたことのある声でもあった。……こいつらもカラオケに来るのか。気持ちが悪い。
別に殴る蹴るなどの鈍い音は聞こえないが、やはりひたすらくすくすと笑う声が男子トイレの中から聞こえる。最近のあそびというのは実に小癪になったものだ。
さて、この場からさっさと去れば良いものの、何故か聞き耳を立ててしまう俺は引き続き男子トイレの入口で身を潜めていた。
「……申し訳ないけど、もう電子マネーも現金も無いんだ。一旦チャージしないと。」
弱者側の癖して、やけに落ち着いた口調で喋っている。平然を装っているのか、はたまた心臓に毛でも生えているのか。ひとまずその淡々とした返しは相手の神経を逆撫でする可能性があるので悪手だと思う。
「はあ?ふざけんな!」
イライラした声と共に、ガサッと大きく服が擦れる音、それから短い呻き声が男子トイレの中で響いた。その音を聞いた俺はついトイレの中の様子を伺ってしまう。案の定、下ぶち眼鏡をかけた男子生徒がとうもろこしから胸ぐらを掴まれていた。
「毎回毎回いい加減にしろよ。俺たちがぼっちのお前に絡んでやってんの、分かってるよな?なのにお前はどうして舐めた態度取るんだよ、ああん?」
ああん?って在り来りなヤンキーが使う言葉かよ。俺はそう思いながらも傍観者でいるしかなかった。あの異質な光景を見るまでは。
大きな声で喚き散らかしているとうもろこしは至って普通の風貌だが、後方で笑っているだけのとうもろこしたちの様子が普通ではなかったのだ。要するに、彼らはとうもろこしのつやつやとした実を剥き出しにしていたということ。
気づけば俺は隠れていることを忘れ、男子トイレの入口に堂々と立っていた。
「お、おーい、そこで遊んでないで早く駅前に行こうぜ。もうすぐ十八時になるぞ。」
傍から見たら分からないだろうが、俺の脚は小さく細かく震えていた。
俺の存在に気づいたとうもろこしの一人は慌てたように男子生徒を解放する。
「あっはは、霙じゃん。ごめんごめん、楽しすぎて時間忘れてたわ。お前もカラオケ行くんだってな。一緒に駅前まで行こうぜ。」
彼は男子生徒を一瞬睨みつけたあと、残りのとうもろこしたちを引き連れて男子トイレから出た。
俺は下ぶち眼鏡の彼と目が合ったが何も無かったかのように無視した。
「でさー新作のネイルチップが超可愛いわけ!」
「やば!くすみピンクじゃん!しかもグラデーション!」
全くついていけない話題を語り合っているとうもろこしたち(女)。に、挟まれている俺。俺と同じくらいモテる青木がいてくれれば多少分散したのだろうが、悲しいことに彼は部活の真っ最中である。
俺は何度も愛想笑いを返しながらジュースを啜っていた。
「ねー、霙くんは何か曲入れた?」
ネイルチップノクスミピンクガーなどと語っていたとうもろこしとは別の女子が俺に話しかける。ああ、しれっと歌わないままにしようと思ったのに、こう振られてしまっては曲を入れざるを得ないでは無いか。
「今から入れるよ。」
俺は平然とした面持ちで流行りの曲を予約した。こういうときのために流行は逐一チェックしている。……流石にネイルのことは分からないが。
緊張で汗ばむ手をドリンクグラスで冷やしながらそのときを待つ。どこかの誰かさんが採点機能をオンにしたせいで余計にプレッシャーが……
俺の気も知らず、早く歌が聞きたいと自分の予約を後回しにするとうもろこしたち。そのせいで思ったよりも早く俺の番が回ってきてしまった。
「あー!これ知ってる!あのアーティストの新曲じゃん!」
周囲の過度な期待の中で、俺はええいままよとマイクの電源を入れた。
サビに入る頃には、先程まで雑談をしたりタンバリンを鳴らしたりしていたとうもろこしたちからの一切の物音がしなくなっていた。俺の歌が歌手並みに上手いか、はたまた擁護できないレベルで下手くそなのか……どちらにしても、そう集中して聞かないで欲しい。どうか雑談しつつ適当に聞き流して欲しい。
顔には出さないが内心かなり恥ずかしがりながらCメロまで歌い上げ、とうとうラスサビに至る──そんな瞬間だった。
「お待たせー!」
勢いよく部屋の扉が開け放たれたその先には青木一行が。そしてそれに驚いた俺の喉は裏返ったメロディーを紡いだ。
「ご、ごめん、滅茶苦茶良いところだったのに……」
青木は頭を掻きながら俺にジュースを差し出した。
「ダ、ダイジョブ……」
本当は大丈夫ではない。大変恥ずかしい。羞恥心でどうにかなってしまいそう。
「それにしても惜しかったな、霙の歌聞き逃しちゃったよ。良ければ……」
もう一回歌ってよと言われる前に俺はすくりと席を立ち上がった。
「ちょっとトイレ。」
俺はぺこぺこしながら一目散に部屋から出た。
あっぶ……危ねええぇぇぇぇぇ……!あともう少しで二曲目を歌わされるところだった!
はあはあと荒い息を吐きながら手のひらで顔を隠した。あのラスサビを思い出すだけで恥ずかしい。恐らく今晩は眠れないだろう。
俺は数分かけて呼吸を落ち着かせたあと、個室の便座から腰を上げることにした。ただ、タイミングの良いことに電子ブレスレットに通知が届いた。───ヨツバからだ。
『君は今カラオケにいるようだね。遊ぶことも学生の本分だから良いことだと思うよ。ところでとうもろこしについて何か進展はあったかな?』
何故位置情報がヨツバにバレているんだ。というか午前から気になっていたが、あいつはいつ俺のメールアドレスを入手したんだ。
『キモい。でも進展あり。』
俺は半ば彼に引きつつも伝えるべきことは端的に送信した。
『十八時前、外皮が剥けたとうもろこしを三人見た。』
『詳しい情報を頼めるかい?』
俺はもう一度便座に腰をかけて続きの文章を送信する。(ズボンは履いている)
『多分いじめってやつなんだろうけど、それの首謀者は普通のとうもろこしのままで、周りにいた取り巻きみたいなやつらが例の状態になってた。』
ヨツバのことだから午前のようにすぐ返事を返すかと思っていたのだが、彼からの返信は数分経ってからだった。
『それだけではやはり「熟したとうもろこし」がどのような状態に当てはまるのか分からないままだけれど、一歩前進と言ったところだね。ありがとう、助かったよ。また何か分かったらよろしく頼む。
p.s.あまり遅くに帰ってはいけないよ。椿さんが心配するからね。』
「分かってるっつーの!」
そう独り言を言いながら俺は舌を出した絵文字だけ返した。
ヨツバから長文メールが届いたり、心底気持ちが悪い場面を目撃したり、カラオケで声が裏返ったり……散々な出来事ばかりに遭遇していた俺は精神的に限界を迎えていた。
今日一番の大きなため息をプシュゥと吐きながら手を洗う。ここで素晴らしい発表があるのだが、なんと俺は女子力も高いのでいつもハンカチを持ち歩いているのだ。やんちゃな学生のように手をぷらぷらさせて砂漠化を抑制するなんてことはしない。俺は青色チェックのハンカチで手を水分を拭き取りながらカラオケの個室───ではなく、待合席に向かった。独りで落ち着くことで数少ないSAN値を回復するためである。しかしながらそれは叶わず、待合席には先客が一人座っていた。
その先客とは黒く癖のない髪を携えた男子学生であった。シンプルな下ぶち眼鏡がきらりと光ったかと思うと、気づけば俺と彼は目がばちりとあっていた。反応に困った俺は思わずうわぁと声を漏らしてしまう。彼とは完全に初対面とは言えないが、口を聞いたこともない他人。さすがにうわぁは無いだろう、うわぁは。
心の中のデフォルメ霙があたふたと両手両足を動かしていると、例の男子学生は表情を変えないまま口を開いた。
「今日の午後十七時四十三分頃、君は僕を助けようとして声をかけたのかい?」
軽い挨拶が飛んでくるのかと思ったら唐突に謎の発言をする男子学生。俺は彼の底知れぬ気迫に圧倒されるように細かく頷く。
「そう、なら悪手だね。」
彼はそう呟くと、急に俺に近づいて俺の右手に何かを押し付けた。
「これ、君のおともだちに。それから、何事も中途半端は良くない。」
彼が俺に手渡したのは五千円札であった。俺が中々見ない札に怯んでいる隙に、彼は煙の如く姿を消した。
「ど、どうしようこれ……」
五千円札に描かれた津田梅子が俺を笑っているように見えた。
結局あれから俺はカラオケの個室へと戻らず直接帰宅することにした。もちろん、無言で立ち去ったりする訳ではなく、青木にきちんと連絡してからカラオケを後にした。『体調が悪いから帰る』と。先程トイレにも行ったことだし説得力はあるだろう。
要するに俺は件のとうもろこしたちに五千円札を渡したくなかったのである。下ぶち眼鏡の彼が頭から離れずどうしようも無いまま俺は駅へ向かった。
彼はもう家へ帰っただろうか、それともとうもろこしたちに呼び出されているだろうか。そんなことを悶々と考えながら電車に揺られる俺。心地の良い電車の振動は数分で収まり、人の流れと共に電車の外へ押し流された。
「中途半端は良くない、かあ……」
足を絶えず前へ出しながら呟く。ズボンのポケットに手を突っ込むと、あて布によって五千円札に皺が作られているのが分かる。もう一度札を取り出したところ、今度は津田梅子も真剣な面持ちであった。
気づけば俺はバス停とは真逆の方向に歩き出していた。
❆
「まっしろ恐竜火を吐いて〜♪みんなをお菓子にしちゃったよ〜♪」
ヨツバは市場で買ったジャンク品を分解する。
「アップルパイにパウンドケーキ♪余った林檎はあま〜いジャムへ♪」
即席の電灯から放たれる光であらゆるチップやメモリを透かしながらドライバーを回す。
「おいしいジャムをつけましょう♪サクサクコーンのスコーンに〜♪」
何度も同じメロディを一音も狂わさず歌っているうちに、いつの間にか小型PCが出来上がっていた。
「……かかったコストを加味すれば、かなり高性能だろう。コストを度外視した場合はかなり古臭くて低性能だけれども。」
彼は独り言を呟きつつ、てんでばらばらのキーボードをパチパチと打つ。検索エンジンの入力欄には『プログラミング マクロ 資格 ウェブ上受験』と打ち込まれている。
「ここらの資格を取れれば職に困ることは……」
自信ありげに呟いたのも束の間、ヨツバは受験料の数字を見て言葉を詰まらせてしまう。
「い、一回で一万円……?あまりにも高すぎやしないかい?」
資格の受験料は数千円から高いもので万に至るというのは周知の事実であるが、無職である彼にとって一万円というのはぽんと出せる金額でないのだ。
アルバイトを始めるにも資格がいるし、資格を取るのにもお金がいる……お金を稼ぐにはアルバイトをする他ない……こんなのどうしようもないでは無いか。
ヨツバはくぅううと悔しそうな鳴き声をあげながら頭を搔いた。
「あ、そうだ。」
切り替え速度光級である。彼は拳をぽんと打つと、これまた手製のスマートフォン(型落ち)を取り出す。するとヨツバは手製の有線イヤフォンをスマホの小さくて丸い穴に刺し、イヤーピースを耳に捩じ込んだ。スマホの画面上に勝手に文章が打ち込まれている間、ヨツバの両手は小型PCのキーボード上で踊っている。
数分するとディスプレイに黄色の四葉マークが一つだけ映った。そのマークは北水仙高校前のバス停とは正反対の方向へ進んでいる。
「おやおや、悪い子だねえ……」
彼は顎を擦りつつディスプレイへ笑顔を向けると、物置の扉を華麗に閉めた。
「はるか昔の時代から文は遠方への情報伝達に便利なものだったが、やはり僕は直接会いに行く方が好きかな。」
そう呟くや否や、再びおかしな曲を口ずさみながら庭を出ていった。
「俺はなんて馬鹿野郎なんだ……」
煌びやかな街の影、いわゆる路地裏にて途方に暮れていた俺。真上を見上げると四角い夜空……と言うよりも黒く分厚い雲が見える。
何事も衝動的に行動するべきでは無い。自分ではそう分かっているつもりであったが、全く正反対の行動を取ってしまった。要するに何も考えず下ぶち眼鏡の彼に五千円札を返したいと考えたのだ。彼の居場所も分からないのに。
ため息で俺の体が飛んでしまわないように壁によりかかっていたところ、電子ブレスレットが二つの通知を受け取った。
『お金が無いからスナックつばきで働かせてもらおうと思うんだけれども、君はどう思う?良い考えだとは思わないかい?』
送信元は言わずもがなヨツバである。というか、良い考えなわけないだろう。俺はすかさず擬似キーボードで文句を打ち込もうと思ったのだが、もうひとつのメールを目にしてその無駄な行為を中断することにした。
『どうやら君は寄り道をしているようだね。心配だから今から直接会いに行くよ。返事やら文句やらはそのときに頼む。
p.s.迷子の子猫はうろちょろしてはいけないんだよ。』
もうイライラする気力も残っていない。ヨツバがどうやって俺の居場所を突き止めているのかは不明だが、この際それはどうでも良い。現時点で最優先にしなければならないのは、「もうひとりのストーカー」への対処である。というのも、数分前から誰かにつけられている感覚があったのだ。俺は本当に馬鹿野郎なのでつい路地裏に逃げ込んでしまった。路地裏の奥が行き止まりでなければ良いのだが……
兎に角、路地裏の複雑さを用いてどうにか撒きたいところだ。頼むよ、俺の土地勘。
俺はホログラムウィンドウを閉じてその場から走り去った。
「やっぱり追ってきてる……しかも俺より脚が速いんですけど。」
曲がり角で翻弄できているので何とか追いつかれていないものの、路地が直線になった瞬間グングンと人影が近づいてくるのだ。陸上選手か?
途中よろめきながらも負けじと脚を速く動かしていると、脳内にヨツバ(デフォルメ)がひょっこりと顔を出した。「運動が足りてないんだね。」という言葉と共にダンベルを上下させながら。俺はすかさずパタパタとヨツバの体をはたくと彼の体は煙のように霧散する。
脳内のデフォルメヨツバに翻弄されている間、やがて俺は路地裏の突き当たりに追い込まれてしまっていて―――同時に俺は学習した。自分の土地勘は信用できない、やはりGPSこそが正義であると……
俺と謎の追跡者との間に月光が差している。その何者かがゆっくりとこちらに近づくうち、正体が顕になった。
貞子のように長く乱れた絹糸、北水仙高校のプリーツスカート。確か彼女は今日の昼間に廊下でぶつかってしまった女子生徒だ。あのときはとうもろこしの実が外皮で覆われていたはずだが、今は黄色く熟れた実が月光に照らされている……それにしても、彼女が陸上選手並に脚が速いというのは想像し難いな。
「や、やあ、いい天気だね。」
そう声をかけてみるも、月の周り以外は厚い雲で覆われている。
「もしかして今日ぶつかっちゃったことに怒ってる?……はっ、まさか本が汚れちゃったりした……?ごめん、わざとじゃなくて……」
「やっぱり霙くんは優しいのね……」
うわ!喋った!てっきり無言を貫くのかと思っていた。彼女の声音も暗く掠れていて本当に貞子みたいだ。
「あのときもそうだった……去年、体育祭の練習で倒れてしまったとき、貴方は私を……そう、お姫様抱っこをして保健室に連れていってくれたわよね。」
存在しない記憶である。嫌、よく思い出してみれば熱中症で倒れた女子生徒を保健室に連れていった記憶はある。だがお姫様抱っこなどしていない!ただ肩を貸しただけだ!(そもそもお姫様抱っこなんてしたら他の女子がなんと言うか。)
「人のこと言えないけどさ、それは何というかただの妄想だよ。さすがに病人が出たら介抱してやるのが人間ってもんだろ?大袈裟だけど、目の前で死なれちゃ気分悪いし……」
「私っ!」
俺の言葉も聞かず急に声を張り上げる貞子。
「私、ずっと夢だったの……運命の王子様に出会うことが……」
はぁ、もう駄目だ、語り始めたら全然人の話聞いてくれないタイプだこの子。
「そしてね、運命の王子様を見つけた暁には……」
彼女の左手に握られている物が銀色に光る。
「一緒にこんな世界からサヨナラするのっ……!そう、六道輪廻からの解脱よっ!」
「うわあ!?急に仏教用語!?」
俺がリアクションする間もなく、彼女は俺に突進してきた。なんと左手に包丁を携えたまま!
「し、死ぬ〜〜〜っ!」
周囲がゆっくりに動いているように感じる。俺の脳細胞が絶体絶命の危機から逃れようとフル回転しているからだ。
思えば、あれも思わせぶりな行為だったのだろうか。体育祭で彼女が倒れたとき、もし知らない振りをしていたら中途半端にはならなかったのだろうか。初めから関わらなければ彼女を苦しめずに済んだのだろうか……
「ツケが回ったか……」
下ぶち眼鏡の彼が言い放った『中途半端は良くない』という言葉が俺の頭の中で反芻していた。
グサッと包丁が刺さる音ではなくドサッと鈍い音がした。ああ、やっぱりどこも痛くない。恐る恐る目を開けると、目の前には長身の男に取り押さえられている貞子の姿があった。
「最近の女子高生って大胆なんだね。」
決して笑える状態では無いのだが、くすくすと笑っている男は紛れもなくヨツバである。
「ど、どこから来た?てか今更だけどどうして俺の居場所が分かった?」
俺がそう問うと、ヨツバは緑色のリボンで貞子の手足を拘束しながら自分の右手首を指差した。彼が言いたいのはつまり『自分のブレザーの袖口部分をよく見てみろ』ということだろう。彼の意図通り俺は袖口の辺りを探った。するとなんということでしょう、袖口の裏からクローバーの形をした小さな発信機が見つかるではありませんか。
「お前、いったん新個人情報保護法についてみっちり勉強した方がいいと思うぞ。」
あと数分前にGPSこそが正義だと言ったが前言撤回したいと思う。
「さて、例の話の返事を聞こうじゃないか。」
ヨツバは既にラッピングを終わらせたようで、余ったリボンを指で回している。
「……スナックで働くって話だろ。断固拒否。お前に払う給料なんて無い。」
「まあ、そう言うとは思ったよ。僕が君の家……じゃなくて物置に居候していることが椿さんにバレてしまうかもしれないからだろう?」
フン、言わなくたって分かってるじゃないか。
「物置に住まわせてやってるのは十分な譲歩なんだぞ。住だけの提供って最初に言ったはずだよな?」
そっぽを向いている俺にヨツバは苦笑を向けた。
「やっぱり最高の息子には敵わないね。」
彼はそう言うと小さなスマホを取りだした。……やけに古い型のスマホであったが。
そのスマホには五人の男たちの個人情報と顔写真が映し出されていた。
「君も見覚えがあるはずだ。彼らはかつてスナックつばきでアルバイトをしていた人物たちだ。
ところが奇妙なことに、長くても一ヶ月ほどで漏れなくやめてしまっている。……何故だろう?」
ああ、そう言うことか。ヨツバは真正面からでは交渉が進まないから裏の手を使おうとしている。つまりは脅しと言うやつだ。
「彼らのうち三人は現ホームレス。優しい椿さんのことだ、経歴など関係なく雇ってくれていたのだろうね。
三人共、君があの日訪れた公園をホームグラウンドとしていて……」
「もういい。そこまで言わなくたって予想できる。」
ヨツバはホームレスたちに顔が利くのだろう。俺が元アルバイターたちに嫌がらせをして辞めさせていたという情報もそこから得たに違いない。
「別に言い訳なんかしない。でもあいつら全員不純な動機でアルバイトを志望しやがった。だから辞めさせてやったんだよ。」
母さんの純粋な優しさにつけ込んでいる。あわよくば彼女を手に入れることができたらと舌なめずりしている……第一、父親なんてもう要らない。
「僕をスナックつばきで働かせてくれないかい?もし断るのならこのことを椿さんに言いつけてあげるよ。」
ヨツバはシルクハットをいつもより深くかぶっていた。目元がよく見えない。
「母さんが面識のないお前の言葉を信じるとでも?」
だが俺の発言にヨツバは怯みもしなかった。
「信じてくれるさ。彼女は優しいから。」
もしかしたら彼には別の隠し玉があるのかもしれない。でもヨツバの言うことも的を射ている。
「はぁ、分かった分かった。勝手にしろよ。どうせお前は母さんのことなんて一ミリも興味無いんだろ?」
「椿さんは魅力的だと思うよ。でも僕は初恋を引き摺っているからね。その点は安心して良い。」
むむ、初恋?こんな奴が?
「ああ君、今『こんな奴が初恋なんてするの?』と思ったろう。失礼だね、僕にだって恋愛感情くらいあるさ。
そう言えば君は寄り道をした目的をまだ果たしていないんじゃないのかい?」
そうだった!ストーカーに追われていてそれどころではなかったのだった!
壁に寄りかかっている女子生徒は相変わらず熟した実を露わにしていたが、まだしばらく目覚めそうにない。
「発信機で君の位置情報を観察していたとき、まるで具体的な目的地を定めていないような動きをしていた。一体君は何を探しているんだい?」
「そこまで分かるとか……キモすぎだろ、本当……」
だがヨツバの発言で確信した。やはりこの男は情報を掴み、利用するのがとても上手い。彼に頼めば人探しなど朝飯前かもしれない。
「……何を探しているのか言えば手伝ってくれるのか?」
「もちろん。」
ヨツバはキラリーンという効果音をスマホから流しつつ右目を挟むようにピースサインを返した。
「探してるのは下ぶち眼鏡の男子生徒なんだけどさ。ええと、黒髪で少し吊り目だったような……」
ヨツバは俺の説明にうんうんと相槌を打っている。
「それでその男子生徒の名前は?同じ高校なのは間違いないんだろう?」
「そこで残念なお知らせがあります……俺はそいつの名前を知りません……」
俺が気まずそうに目線をずらすと、ヨツバはオーバーな感じで肩を竦めた。
「そんなに少ない情報で人を探そうとしていたのかい?愚かだねえ、愚か。愚鈍。浅はか。」
「う、うるさいなあ!仕方ないだろ!」
なぜなら五千円札を押し付けてすぐに去ってしまったのだから。大金にひるんでしまわなければ名前を聞けたはずなのだ……
「仕方ない、運任せになるが……」
ヨツバはスマホを滑らかに操作したかと思うと、俺の顔に画面をずいと近づけた。
「君の探し人が二年生なら顔写真がここに載っているはずだ。さて君は三分の一の確率を引けるかな?」
「ちょ、ちょいまち!」
何が何だかさっぱり分からない。
「えぇ、一から説明しなくてはならないのかい?黒い方法だからあんまり口外したくないのだけれど……」
「黒い方法!?ま、まさかお前……」
北水仙高校のサーバーに潜り込んだとかじゃないよな……?挙句の果てには生徒の個人情報を盗んだとか……嘘だと言ってくれ。
「そのまさかさ。ほら、最近の学校って授業中だとタブレットだとかブレスレットだとかに外部から接触できないし逆も然りだろう?君を呼び出すために仕方なくだね……」
「それ違法だからな!?」
「大丈夫大丈夫、個人情報はPプラン以外に使わないから。」
「……第三者に漏らしたりも?」
しない、とヨツバは強く首を振る。
俺は数秒の沈黙のあと、ヨツバのスマホを手に取った。
「たまたまサーバーに入り込んでしまって、たまたま個人情報がインストールされてしまったんだな。なら仕方ないな。漏れちゃったのはどうしようもないしな。」
多分俺の顔は引きつっていたと思う。
あとは下ぶち眼鏡の彼が二年生であることを祈る他ない。
何度も下へスクロールをし、その度に数多の顔写真を記憶にある人物と照らし合わせる。人差し指と目の疲れが現れてきた頃だろうか、俺はどうやら三分の一を引けたようだ。
「いた……!こいつだよ、こいつ!」
確かにスマホの画面には下ぶち眼鏡をかけた黒髪の青年が映っていた。その顔写真の下には『二年四組十六番 藤間六花』と書いてある。――俺も相当変わった名前だが、彼も同じくらい変な名前だ。
「ん?あれ?この変な名前聞き覚えあるな……」
脳の奥の方にある引き出しを探っていると、同じくスマホの画面を覗き込んでいたヨツバが俺の肩を叩いた。
「彼、去年の冬頃に転校してきたみたいだよ。その前は海外の学校に通っていたとも記載がある。」
なるほど、だから聞き覚えがあったのか。去年もクラスが違かったから顔と名前が一致していなかった。
「よし、顔は覚えた。これで十分だ。」
ヨツバはそう言うと、俺の手からスマホを取り返す。
「十分?顔だけで?どうやって探すんだよ?」
「え?決まっているじゃないか。」
彼は唐突に後ろを振り向き、ある建物に指をさした。路地裏の建物に覆われぬほど高い高いビルを。
「監視映像管理センターを使うのさ。」
❆
俺はひとりぽつんと高いビルの前に立っていた。あまりに高すぎて頂上を見ようとすると首が痛い。
少し離れたところからヨツバが小さく手を振っている。
「霙くん!ファイティン!艶っぽくね!」
嫌、艶っぽくって言われても……どうせ相手は十中八九男だろうし意味無いだろ。
「ええい!なんとかなれーッ!」
高い声でそう自分を鼓舞すると、俺は監視映像管理センターの自動ドアを潜った。
***以下が回想***
場所は監視映像管理センターから五十メートルほど離れたところ、時系列は十分前と言ったところか。
リボンでぐるぐる巻きにした貞子を交番の前にそっと置いたあと、俺たちは監視映像管理センターに向かった。
「まさかだと思うけど、センターから監視映像引っこ抜こうとか考えてないよな?」
俺がそう問うとヨツバは「考えてるけど?」とキョトンとした顔をする。そして俺は真っ青な顔をしたまま頭を抱える。
「まあまあ、そんなに怖がる必要は無い。監視映像管理センターに迷い込んでしまったという体で入り込めば良いのさ。」
「それ言ってる時点で確信犯だから!」
「じゃあいち抜けるかい?」
俺はしばらく黙り込んでしまった。単なる人探しのため犯罪に手を染めるなど馬鹿馬鹿しいと思っている。だが自分が言った矢先、やっぱり怖いから辞めるなどそれこそ馬鹿馬鹿しいではないか。ヨツバはただ手段が少しばかり……というかかなりぶっ飛んでいるだけで俺のためを思ってくれている。こいつに嫌な部分を押し付けるのは何か違う。
「……抜けない。」
「おや、変なところで義理堅いんだね。」
俺はすかさず肘で小突いた。
「つっても、どうやって潜入?するんだ。あの監視映像管理センターって大手警備会社が運営してる奴だぞ。」
俺の心配を他所に、ヨツバは自信ありげな表情である。
「さて、君はウィンター・システムというのを聞いたことがあるだろうか?」
急にどうした?
「はあ、知ってるけどさ……」
ウィンター・システムとは現状最も柔軟性を持った人工知能とそれを活用するシステムの総称である。ウィンター・システムを開発したのは株式会社冬月テクノであるが、いまやウィンター・システムは利権ビジネスのための主力商品となっている。
「僕は少しばかりウィンター・システムに詳しくてね。例外なく監視映像管理センターもウィンター・システムから成っているだろう?つまりはそういうことさ。」
「ふうん……」
俺の濁った返事を聞いて、ヨツバは頬を膨らませる。
「反応が悪いねえ……『ヨツバってすごーい!』だとか『てんさーい!』だとか言ってくれれば良いのに。」
「凄いことだとは思うけどその長所を悪いことに使うんだもんな。手放しで褒めちぎれるわけない。」
そもそも、ウィンター・システムを開発した冬月テクノは性格が悪いから嫌いだ。
「うう、兎に角、機械的なセキュリティ面とか監視映像の取得とかそう言う面では僕に任せてもらって構わないからね……」
目の下に人差し指を当てこちらをチラチラ伺うヨツバ。嘘泣きだろ、それ。
俺は彼の嘘泣きに全く触れず続ける。
「じゃあ俺は何をすればいい?」
ヨツバも演技が無駄だと察したのか通常運転に戻った。
「いくら人工知能が警備に優れていたとしても、人間はそれを監督する義務がある。つまり、僕がセキュリティシステムを懐柔しても監督する人間にバレてしまっては元も子もないという話さ。」
そしてヨツバはガシッと俺の両肩を掴む。
「だ、か、ら、その人と僕が接触しないように気を逸らして欲しい。他人と関わるのが上手い君だ、きっと大丈夫。」
大丈夫な気がしない……だが断るつもりもない。ここまで来てしまったのだから。
俺はセキュリティシステムより先にヨツバから懐柔されてしまった。
***以上が回想***
「す、すみませーん……」
当たり前というか、オフィスなどのロビーとは異なり受付が存在しないので返事など返って来なかった。俺のへにゃへにゃした声が白い部屋に反響するだけだ。
俺の後方でウィンと小さな駆動音が聞こえる。恐らく監視カメラが作動した音だろう。俺は冷や汗を流しながらも振り返らず、前方にある吊り下げ看板へ目をやる。
『監視室→ 御用のある方は扉前のモニタへ』
吊り下げ看板の案内通りに俺は監視室へ向かった。
ロビーから右へ曲がるとすぐにその部屋は現れる。扉の近くには案内通り、モニタと呼び出しボタンが設置されていた。すかさずボタンを押す勇者、田原春霙。
数秒後、怠そうな男性の声がスピーカから聞こえてきた。
『はい、何の御用でしょうかー。監視映像に関するプライバシーとかそう言うクレームでしたらお門違いでーす。』
はあ、わざわざこんなところまで来てクレーム入れる奴がいるんだ……
「えっと、お仕事中すみません。道に迷ってしまったんです。俺、方向音痴なんですけど、こんなときに限って電子ブレスレットの充電が切れてしまって……」
全部嘘である。
『えぇ……まあ、この建物目立つし、たまにそう言うお年寄りも来るけどさ……ここは交番じゃないんだよ?』
「そうは言っても交番の位置も分からないんです。」
自分の顔が別のカメラから撮影されているだろう。そう踏んだ俺はいかにも深刻そうな表情を見せた。
「実は今日、妹の誕生日なんです。妹は病気がちであまり外に連れ回すこともできなくて……せめてプレゼントでお祝いしようとここまで買い物に来たんですが……
ハハ、駄目なお兄ちゃんですよね、迷子になった挙句、下手したら今日中に誕生日をお祝いできないかもしれないなんて。」
スピーカからは何も聞こえない。
「……本当にすみませんでした、何とか頑張ってみます。ああごめんよ、不甲斐ないお兄ちゃんで……」
渾身の演技をしたつもりであったが、やはりスピーカからはノイズしか聞こえない。失敗かな……
『か……』
そう思った直後、スピーカから鼻をすするような音が聞こえた。
『可哀想に!!!』
あ?え?ちょろくない?
『荒んだおじさんの心が揺り動かされたよ!実はおじさんにも病気の娘がいてねぇ!』
そう聞こえるや否や、モニタ近くの扉がドーンと開け放たれる。バーコード模様の絹糸を湛えたおじさんは両手で俺の手を取った。
「おじさん、仕事中だから付き添いはできないけどできる限り道案内するから!」
「あ、ありがとうございます……」
俺、もしかしたらおじさんに好かれやすいのかもしれない。
一方ヨツバは数分遅れて建物の中に入った。ロビーには監視カメラがあるが、『不審者』の予測確率が八割を超えなければなんの脅威も持たない。……逆に言えば予測確率が八割を超え、ヨツバが不審者と見なされてしまう前に全てを終わらせる必要がある。
(まずはこのロビーを抜けなければ。話はそれからだね。)
建物の深部へ進むには入口の自動ドアと反対方向の扉を抜けなければならないが、どうやら虹彩認証がなければ口を開けてくれないらしい。
(システムの内部に入るためには段階を踏まなければならない、か。今はまだ虹彩データならぬ真珠を取り出すには殻が分厚すぎる。)
ならば物理的な方法で突破する他ない。だが扉を壊せば警報が鳴ってしまうだろう。何らかの周期で扉が開いたりしないのだろうか……
「ああ、あるじゃないか。掃除ロボットが。」
いまや人間が施設の清掃を行う光景などほとんど見られない。恐らくロビーでも掃除ロボットが駆動しているはず。一階層に一台なんて贅沢な使い方はしないだろうし、ロビーと扉の奥を行き来する掃除ロボットがいてもおかしくない。
ヨツバは監視カメラと床の汚れを観察し、カメラの死角かつ最も汚れが溜まっている場所へ堂々と移動した。幸運なことに掃除ロボットは数分で到着し、まるで大型犬のようにヨツバの足元で停止してくれた。
『清掃中です。安全のためここから移動してください。清掃中です。安全のためここから……』
掃除ロボットが同じ言葉を何度も繰り返しているうちに、ヨツバは壱メートルほどの短いコードをロボットのコネクタにぶっ刺した。
「ああごめんよ、五分で充分だからね。」
掃除ロボットの背中から伸びるコードは霙から拝借した電子ブレスレットに繋がっている。
(いやはや、それにしても高価なデバイスは便利だなあ……ジャンク品で作った型落ちとは比べ物にならない。)
ヨツバは心なしかニマニマしながら擬似キーボードを打つ。彼の指の動きに比例して電子ブレスレットのホログラムウィンドウは文字の羅列を吐き出している。そしてヨツバは掃除ロボットが彼の元へ駆け寄ってくるよりも早い時間でハッキングを完了した。掃除ロボットのレンズに映るクローバーマークが愛しい。
「さて、掃除ロボットくん。従業員の更衣室とかあるかな?あったら案内してくれないかい?」
『ピピ。ご案内しますです。』
監視映像管理センターのメインシステムと紐づいているらしい掃除ロボットのおかげで、ヨツバはなんの問題もなく件の扉を通過できたのであった。……まあ、傍から見れば飼い主と大型犬の散歩だったろう。コードも散歩紐のように見えるし。
ヨツバの予想通り、堅牢な扉の奥を数メートルほど進むと更衣室が現れた。とはいえ、ロッカーなどは三つしか設置されておらず、それぞれ作業員やオフィスワーカー用の予備制服が収納されている程度。この部屋はほとんど使われていないような気がする。
「ありがとう、掃除ロボットくん。お仕事に戻って良いよ。」
ヨツバが簡単な処理を施しコードを抜くや否や、掃除ロボットは我に返ったようにロビーへ戻って行った。
「さてと……」
ヨツバはもう一度開け放たれたロッカーの方へ視線を向ける。その直後、彼は人差し指でロッカーを指さした。
「ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な。」
一文字発音する度に指をランダムに左右させる。最終的に彼の人差し指が指名したのは真っ黒なスーツだった。
「いいねっ!黒くて目立ちにくいし!なんだか手品師っぽいし!」
彼は心底嬉しそうな顔で上着を脱いだ。(ちなみにスラックスはそのままである。)
脱いだシャツとジャケットはできるだけ皺にならないようくるくると纏め、派手なシルクハットに突っ込む。何かを想像できないところに収納したり、そこから取り出したりするのは手品師の得意とすることだ。
彼は色々詰め込まれたシルクハットを脇に抱えて更衣室から出た。
廊下には紺色のタイルカーペットが敷かれている。突き当たりまで隙間なく敷き詰められているそれは規則的に並ぶ街並みを想像させる。
「冗長だね。建築士のエゴを感じる。」
ヨツバがそういうのも無理はない。この建物は縦に長い一方、床面積は広いとは言えない構造のようだ。とはいえ同じ階層にいくつか部屋を詰め込むことはできるだろうに、この階には更衣室しか存在しない。
「シンプルに考えたら頂上階に操作パネルとかあるのかな。別に緊急性を求められる場所じゃないし、有り得る。」
ならばやることはひとつ。親から貰った自分の足で階段を……
「嫌々、非効率だから。」
そうセルフツッコミを入れるヨツバ。
彼は袖の裏から黒く細い糸のようなものを引き摺り出した。
❆
「えーと、その道を真っ直ぐ行って、二つ目の信号を右に……」
おじさんは律儀に道案内をしてくれている。……全く同じ道を、言い方を変え三回も。
「……分かったかい?」
おじさんの問いかけに対して俺は濁った返事を返す。おじさんは困ったように頭を掻いていた。
「ううん、おじさん仕事中だからなあ……ついて行ってあげたいのは山々なんだけど……」
流石に三回も説明してくれたのに良いリアクションが返ってこないというのはまずいだろうか?手を変える必要があるかもしれない。
「いえ、大丈夫です。まだちょっと自信は無いですが、何とか病院に辿り着けそうです。」
俺はそう言いつつ、体をもじもじさせる。
「その……おじさんにも病気の娘さんがいるって話……」
そう一言言った瞬間、おじさんは餌に食いつく魚のように前のめりになって娘のことを語り始めた。
この年代のおじさんは自分語りや自分の子供の話がとても好きだ。時間稼ぎには丁度良い。
ああ、ヨツバ、早くしてくれ……俺をおじさんの長話から解放してくれ……
一方ヨツバはあっという間に頂上階に到達していた。手元のワイヤが熱を持っている。
「交換するにも高いんだよなあ、これ……もっと大事に使わなくては……」
とほほと困り顔をしながらも、彼は電子ブレスレットの操作を続ける。
今彼の目の前には最後の扉が立ちはだかっていた。階段を上がればすぐ操作盤、だったら良かったのだが。
「ここまで来たら多少派手にハッキングしても大丈夫かもしれない。一気に不信度が上がっても操作盤に辿り着けさえすれば予測確率をリセットできる。」
彼はそう独り言を漏らすと、掃除ロボットのときよりも素早くタイピングを行い、それに応じて彼の視線も目まぐるしく動く。
『……やあ、マイフレンド。数秒だけで良いからここの扉を開けてくれないかな?』
ヨツバの発言に呼応するように扉のLEDがチラチラと光った。
『交渉材料が必要かい?君は何を求める?』
扉のセキュリティシステムはうんともすんとも言わないが、ヨツバには分かるのだろうか。
『なるほど、監視映像管理センターの根幹……メインシステムの安全を保証して欲しいんだね。』
ヨツバの指は絶えなく動いている。
『大丈夫さ。僕は君にだけでなく彼にも交渉をするから。そうだな、イメージとしては盗人や強盗と言うよりも健全な行商人と言ったところか。
僕は彼を傷つけないし、君だって例外じゃない。約束するよ。』
そして彼は少し迷う素振りを見せたあと、シルクハットの中から緑色のリボンを取りだした。
『これ、おまけね。』
彼は扉の手すり部分に結んでやった。
すると先程まで厳格な雰囲気を見せていた扉が気を緩めるようにロックを解除したのである。
『ありがとう、マイフレンド。』
ヨツバは手を振りながら操作盤のある部屋へ入っていった。
操作盤に歩み寄った彼は、これまでと同じようにコードを接続する。
『君が王様で間違いないね?』
『はい。私はタイアミセキュリティのメインシステムです。』
メインシステムの声は女性のように高く、だがハキハキとしていて聞き取りやすいものであった。街中でよく聞く声だ。掃除ロボットの発声機能も同じだった。
『貴方の不信度は既に七十五パーセントを超えています。これ以上予測確率が上がれば、私は貴方を通報せざるを得ないでしょう。その前に立ち去ることをおすすめします。』
『あ、そういえば君の名前は何と言うんだい?』
『立ち去ることをおすすめします。』
ヨツバの素っ頓狂な質問にまともな返事をよこさないメインシステム。
『君レベルになれば名前を付けて貰えそうなのに。名前が無いのかい?』
『……ありません。私はタイアミセキュリティのメインシステムです。』
ヨツバは手元を見ずに宙を見つめ考え事をしている。
『うん、良いことを考えた。今日の午後十九時以降の監視映像を僕に渡してくれるのならば、君に名前をつけてあげよう。』
『新個人情報保護法及び当社のプライバシーポリシーの厳守のため、その交渉は実現不可能です。』
『まあ、そう言うだろうと思ったよ。でも安心して欲しい。監視映像の保存はしないし、そこから得た情報を第三者に漏らすことは無い。』
『ですが、貴方の記憶には残存します。それは映像の保存と同義です。
それに、数年前腕の立つハッカーがたったひとりをストーキングするために監視映像を利用しました。ストーキングされた女性は性被害を受けました。』
『はあ、僕にそんな性的志向はないんだけど……
兎に角、悪意ある使い方はしない。絶対だ。ここは信じてもらう他ないけれど。』
ヨツバは大袈裟に咳払いをする。
『これはとある青年の、酷く純粋な頼みなんだ。君の存在意義は根元を辿れば人類の幸福じゃないか。』
数秒沈黙が続く。メインシステムがあらゆる予測を用いて最善の行動を考えている。
『……その青年とやらが悪意のある使い方をしないという保証は?』
『物的証拠は一切無いね。たが、彼はグネグネ曲がりながらも真っ直ぐな奴だ。人が本当に嫌がることはしない。……というかそんな度胸は持ち合わせていないよ。』
『……名前はなんでしょうか?』
『青年の名前かい?』
『いいえ、私の名前です。』
『僕たちは人探しをしている。特徴は以下の通りだ。北水仙高校の制服を着ていて、装飾品は黒い下ぶち眼鏡、髪は黒くストレートで、長さは肩に届かない程度。前髪が長い。目は狐のようにつり目っぽい。』
いちいち藤間六花の特徴を説明するのは面倒だが、北水仙高校のデータベースから借りてきた顔写真を見せるのはやめた方が良いだろう。
メインシステムに特徴を事細かく説明すると、彼は一分もしないうちに探し人を発見した。
『北水仙高校近くの高架下に複数人と映っています。現在もその場所から移動していないようです。』
『彼の家とかは分からないよね……?』
『それは私の教えられる情報の範疇を超えています。現時点でも相当アウトローであることをご理解してください。』
ヨツバはごめんごめんと激しく手と首を振った。
『ありがとう、カタバミ。十分情報は得られた。僕はこれでお暇するとするよ。』
カタバミと呼ばれたメインシステムは何も返答せず近くの窓を開けた。
『ならば早くご退出いただけると。』
『酷い!窓から飛び降りろって言うのかい!?』
『はい。貴方なら問題ないでしょう。』
カタバミはあくまで淡々と返したが、どこか楽しそうな声音だった。
でも確かに窓から飛び降りた方がずっと効率的だ。
ヨツバは電子ブレスレットと操作盤を繋いでいたコードを抜いた。もうカタバミの声は聞こえない。
「じゃ、僕の手品を楽しんでね。」
暗緑色の長い結髪が強い風で揺れていた。
❆
「それでさあ、娘がこう言うんだ。お父さんの頭がスカスカというのは中身の話じゃなくて髪の話だってね!嫌、結局悪口じゃないか!ハハハ!」
「はは……」
もう何度愛想笑いを返しただろうか。このおじさん、俺が急いでいるって設定を忘れてるな?まあそのおかげで時間稼ぎができているのだが……
「おや、こんなところにいたのかい。」
監視映像管理センターとは真逆の方向から現れたのはヨツバであった。
「おっ……」
遅い!と言いかけたが何とか口を噤む俺。
「……お兄ちゃん。良かった、これでやっと妹の元へ行けるよ。(棒読み)」
多分俺の目は死んでいたと思う。糞、こんなパッパラパーな奴を兄として紹介するなど恥ずかしいったらありゃしない。
「ああ、この子のご家族でしたか!良かったね、ほんとに良かった……」
そして再び涙ぐむおじさん。なんだか申し訳なくなってきた。
「ありがとう、見知らぬ人。僕の可愛い『弟』に手を差し伸べてくれて。貴方と貴方のご家族に幸があらんことを――」
今度はヨツバがおじさんの手を取っていた。夜なのに教会に降り注ぐ光みたいなものが見える。
それでは、と紳士的に会釈をしたあと、ヨツバは俺を荷物のように片手で抱えてその場から去った。
おじさんはほっと胸を撫で下ろし仕事場へ戻る。その傍ら、黒いスーツを着せられた掃除ロボットもまた自分の仕事に勤しんでいた。
監視映像管理センターの頂上が視界にすっぽり収まるほど離れた頃。
「遅い。おじさんの世間話に付き合わされた俺の身にもなれよ。」
「あはは、本当にすまないね。セキュリティがガッチガチで手間取ってしまったんだ。時間こそかかったが、何も問題はなかったから心配しないで欲しい。」
それにしてもヨツバは何者なのだろうか。彼の発言を考えると、藤間六花の居場所を突き止めることができたのだろう。だが常人ならそんなこと絶対にできないはずだ。……もしかして、超凄腕ホワイトハッカーだったり?嫌、法律無視してる時点でホワイトではないか。
「てか……」
俺はヨツバの脇の下で身体を捻じる。
「そろそろ離せ!!俺は米俵じゃないんだぞ!?」
「ああコラコラ、動くと危ないよ。」
何が危ないんだ!
俺がそう言い返そうとした瞬間、俺は謎の浮遊感を覚えた。街の淀んだ夜空に引っ張られているような感覚。
まともな思考ができる頃には周りのビルと同じくらいの高さまで飛んでいた。
「ああ、体重の増加で計算が狂ってしまった。少し高度を下げまぁす。」
エレベーターガールとかキャビンアテンダントのような鼻につく言い方だ。彼の宣言通り、今度は地面に引っ張られる感覚をおぼえた。
「ひいいいいいいい!」
内蔵がヒュっと浮く。そして俺の意識もどこかに行ってしまいそう。
俺が死にそうな思いで色々なところに視線を飛ばしていると、ヨツバの右手と腰あたりから伸びている黒い線が彼の体を支えていることに気がついた。
「はい、次行きますよぅ。」
彼を支えていた紐が今度はビルに向かってぎゅんと伸びる。同時に強い加速度が俺の体に襲いかかる。
「SPYDER!」
彼はそう叫びながら空中散歩を楽しんだ。
「ぜえはあ、ぜえはあ……うっ……」
ようやく地面に足が着いた俺は口から内臓が飛び出しそうになるのを堪えていた。
「お、お前、俺が路地裏で殺され……輪廻解脱しそうになったときこの方法で助けに来てくれたのか。通りで急に現れるわけだ……」
「That's Right!」
ヨツバは身体を捻り、両手の人差し指を伸ばして俺の顔を指す。そのポーズむかつく。
「今後はあまり使わせないでくれると助かるね。これは急を要するときに使うと決めているんだ。」
じゃあもしかすると俺が路地裏に追いつめられた際、心配して急いで駆けつけてくれたのだろうか。……嫌、まさか。
「そんな話をするよりももっと重要なことがあるだろう。ほら、あれを見たまえ。」
ヨツバは俺を指していた指を反対方向へ向けた。彼の指の先には複数人の男子高生たちがいるのが分かる。
その集団をよく観察すると、高架下の暗い電灯に反射して何かがキラリと光った。藤間六花の下ぶち眼鏡だった。
俺は無意識的に身体を前へ進めようとしてしまったが、ヨツバがそれを制止する。
「ドウドウ、このまま突っ込んでも何も解決しない。」
「でも……」
藤間六花は今にも殴られそうだ。嫌、既に殴られてしまっているようだが、もっと酷いことをされそうな予感がする。実際、彼は痛そうに頬を手で隠している。
「君が介入して彼らをなだめようと、僕がちょっと頑張って彼らに痛い目を見せようと、再び彼らは蟻のように砂糖へと群がるだろう。」
そこで、とヨツバは背中から大きな紙のようなものを複数枚取り出した。ペラペラだが丈夫そうなそれを彼は解体し組み立てる。何事かと目を疑っているうちに、俺の目の前には立方体のカラフルな箱が三段積み上げられていた。
「ジャジャ〜ン!人体切断マジック〜!」
見えない紙吹雪がヨツバの頭上から降り注いでいた。
「何故に今それを出した?」
「うーん、一石二鳥を狙うため?」
意味わからん。
「一石はこの人体切断マジック。ちなみにこの箱の中に入るのは霙くんだよ。」
ちなみに他の手品のアシスタントもやってもらうよ、と小声で付け足す。
「は?」
俺のリアクションを無視して話を続けるヨツバ。
「二鳥のうちのひとつは僕の使命を全うすること。あの集団の中に熟したとうもろこしがいるんじゃないのかい?」
彼の言うとおり、俺の目には外皮に囚われていないとうもろこしが二、三人映っている。彼らは特に何かをする訳でもなく『だるま』の後ろでケタケタと笑い続けているだけだ。
俺は何も言わず頷く。
「やはりね。ならば尚更ポップコーンにしてあげなくては。」
「じゃあもうひとつの鳥は?」
俺がそう問うと、ヨツバは男子小学生のような意地の悪い、だがどこか無邪気な笑顔を浮かべた。
「頭を狙うのさ……」
抽象的な言い方だが、つまりはあの集団の中で最も地位の高いものに何らかの働きかけをするということだろう。何だかちょっと嫌な予感がしてきた。
「と、言うわけで、君には渾身の演技・パート二をやってもらう必要がある。」
ヨツバは俺の手に柔らかいプラスチックの包を押し付けた。
「コ、コホン、レディースアンドジェントルメン……あ、レディースはいないのか……」
北水仙高校の制服を着たまま蝶ネクタイをつけている……そんなちぐはぐな格好で集団の前に現れる俺。彼らの視線が藤間から俺に移った。
「あれ?霙じゃんか。何、その蝶ネクタイ。」
ヨツバの言う『頭』が真っ先に俺の格好に言及した。そりゃ気になるよな。俺だって恥ずかしい。
恥ずかしさで声が裏返りながらもアシスタントとしての役割を全うしようとする俺。
「あー、えーと、今回は今世紀最高の手品師に来てもらいましたー……」
手のひらをヒラヒラさせつつ、ヨツバ借りた型落ちスマホからよく聞くあの曲(オリーヴの耳飾り)を流す。俺の羞恥心はとっくに限界を超えており、もはや感覚が麻痺して何も感じない。
「やあやあ観客の皆さん!僕が今世紀最高の手品師です!」
そして仰々しく登場するヨツバ。あまりの胡散臭さにとうもろこしたちは顔を顰めている。
「代わり映えのない毎日、つまらない日常……そんな日々に少しばかりの彩りを!」
これまた胡散臭い口上と共に、ヨツバの背景が本物の紙吹雪で満たされた。ほんのちょっとだけ高架下がざわつく。
「まずは定番のマジックハットから。」
ヨツバは最初にシルクハットからステッキを取り出し、そのステッキでシルクハットの底を叩く。
「さあ、今からここにあめが降りますよ……」
彼がそう言った途端、上向きになっているシルクハットから紛うことなき『飴』がポンポンと飛び出し、とうもろこしたちの上に降りかかった。
「いて!」
何故か流れ弾が俺の額にクリーンヒット。その飴をよく見てみるとスーパーで頻繁にまとめ売りされている駄菓子の飴だった……けちんぼ。
「へえ、気が利くじゃん。」
とうもろこしも飴に被弾したのだろう、少しイラつきながらもそれをポケットにしまっていた。
「次は別のものを出そうと思っておりますが、一体何を出すでしょう?はい、そこの貴方!」
と、ヨツバは教師のように後方の熟したとうもろこしを指差した。当人は戸惑いながらも流れに逆らえなかったのかおずおずと答える。
「え、えーっと……鳩とか?」
「大正解!」
ピンポンピンポンと自分で効果音を再現しながらもう一度紙吹雪を降らせるヨツバ。すかさず彼はシルクハットの底をステッキで叩いた。
すると今度は飴ではなく本当に鳩が飛び出してくるではないか。流石の手品に高架下は感嘆の声とポップコーンの弾ける音に包まれた。
ちなみにその灰色の鳩は俺に向かって羽ばたき、ちょうど頭の上で羽休めしていた。
「嫌、白鳩じゃなくて土鳩かーい!」
おっと、つい突っ込んでしまった。
周囲のリアクションが笑い声に変わる。え、これって俺の突っ込みに対して笑っているんだよね?鳩の止まり木になっている俺の姿を笑っている訳じゃないんだよね?
「こら、花子。アシスタントを困らせちゃ駄目じゃないか。」
鳩の花子という名前を聞き余計に笑い声が大きくなった。もはや漫才である。
「ああ、花子は君の頭を気に入ったようだ。もうしばらくそのままで居させてあげてはくれないだろうか?」
ヨツバの言葉に同調するように、俺の頭上でクルッポと声がした。ありがとうとヨツバは返すが、俺は首を縦に振っていない……糞、俺で遊んでるだろ、こいつら。
「さて、次はトランプマジックだ。ほら、アシスタントくん、折りたたみテーブルを持ってきてくれたまえ。」
「へいへい。」
青筋を浮かべながも俺は彼の言うとおりにした。
ヨツバは広げられたテーブルの上にトランプセットを置く。一般的な手品師はベルベット生地の上でトランプマジックをやっている印象があるが、今回は簡素な木目柄のテーブルである。
短時間で準備を終えたヨツバは、先程質問を飛ばしたとうもろこしとは別の学生二人ほどを手招きした。彼らは漏れなく熟したとうもろこしである。
「まず貴方たちにはこのトランプをよく切っていただきたい。」
ヨツバの頼みに対してとうもろこし二人は戸惑うように顔を見合わせるが、順繰りにトランプを良く切った。
「良いトランプ捌きですね。さて、じゃあお二人とも好きなカードを一枚ずつ引いてください。もちろん僕には柄を見せないようにね。」
ヨツバはそう言うと後ろを向いた。とうもろこしたちがカードを選んでいる間、彼は暇なのか俺に向かって変顔を見せてくる。俺は思わず吹き出した。
「……失礼。」
俺はアシスタントの体を保ちつつ、観客であるとうもろこしたちには見えないようにヨツバに向かって中指を立てる。
「あの、選び終わりました……」
控えめに声をかけるとうもろこしたち。ヨツバは振り返ると先程の変顔とは打って変わって爽やかな表情を見せた。
「はい、じゃあそのトランプを束に戻してもう一度良く切っていただけますか?僕は見ないようにしますから。」
再び後ろを向いたヨツバは先程とは違う変顔を俺に飛ばした。変顔のバラエティ豊かかよ。
俺は笑わってしまわないように口をぎゅっと結んだ。ヨツバはつまらなさそうな顔をしている。
とうもろこしたちはトランプを切り終わったのか、ヨツバの肩を叩きそれを知らせた。
「ありがとうございます。もう言わずとも分かるでしょうが、貴方たちが選んだカードを当ててみせましょう。」
トランプの束を受け取ったヨツバはほんの少し眉をひそめたが、俺にしか分からない程度だろう。彼は相変わらず爽やかな顔のまま手の上でトランプを広げた。
「一枚はこれですね?」
数秒もせず一枚のトランプをとうもろこしに渡す。すると歓声が上がった。彼の示したカードが正解だったのだろう。
「もう一枚は……」
ヨツバはそう言った瞬間、広がったトランプの束を元に戻した。かと思うと、彼はトランプを持たないもう一人のとうもろこしを指さしてこう言った。
「貴方が持っていらっしゃる。違いますか?」
途端、先程の歓声がより大きなものとなった。俺もついおお、と感嘆の声をあげてしまう。ヨツバは後ろを向いていて分からなかっただろうが、俺は見ていたのだ。とうもろこしが『頭』に指示されてトランプを隠した場面を。まさかトランプが欠けている状態をも見抜いてしまうとは。どう言った種なんだろうか。
高架下が再びポップコーンの弾ける音で満たされた。先程の音よりも凄まじいものだ。
俺は思わず耳を塞いでしまったが、めげずにとうもろこしたちの方を見ると、彼らはその実を完全に失ってしまっていた。全てポップコーンになってしまったのである。
(おい、これ大丈夫なのか!?)
切羽詰まった顔でヨツバの方を見やるが、彼は気にせず手品を続けようとする。
「もう夜も遅いですし、手品はこれで最後にしましょう。この手品はアシスタントくんにも手伝ってもらう大掛かりなものですよ!」
ヨツバの『箱を持ってこい』というジェスチャーに応える俺。箱自体は軽いので俺一人でも難なく運べる。
その箱は三段構造になっており、一番上の箱にだけ顔を出す用の穴が空いている。
ヨツバはその箱の側面にある蓋をそれぞれ開け放ったあと、俺の身体を箱に詰め込んだ。(ちなみに鳩はヨツバのシルクハットの中に戻っていった。)
「やっほー、僕の顔が見えるー?」
言われずとも丸く切り取られたヨツバの顔が見える見える。イライラ。
早くしろとヨツバを睨みつけると、彼はやれやれと肩を竦めとうもろこしたちの方へ体を向けた。
「今日の目玉手品!人体切断マジック!」
彼の手品の虜になってしまったとうもろこしたちは固唾を呑み、行方を見届ける。
ヨツバはマジックハットのときのようにステッキで箱をトントン叩いた。すると彼は手を触れていないのにも関わらず三つの箱が別々の方向に平行移動を始めたのである。数秒後、俺の身体は人体切断マジックの名の通りバラバラになっていた。……傍から見れば、であるが。
とうもろこしたちは多少怖がりながらも先程のように歓声と拍手をあげた。目の前で人体切断なぞされたら無事だと分かっていても恐ろしいだろう。
「じゃ、もっと離してみましょうか。」
無機質な笑顔を湛えたヨツバは発言の通り箱をどんどんずらしていく。俺の身体のパーツもどんどん離れていく。
「い、痛い、ちょっとたんま。」
これは本音で、俺の身体が悲鳴をあげつつある。しかしヨツバは俺の声を無視して箱をずらし続けた。
「おい!痛いってば!」
半ば叫びながらヨツバに訴えるも、ボキッと生々しい音が響くと共に俺の首はがくりと項垂れた。
箱の隙間から赤い液体が滴り落ちる。
とうもろこしの歓声は瞬く間に悲鳴へと変わった。蜘蛛の子を散らすように高架下から逃げ出すとうもろこしたち。漏れなく『頭』もその場から逃げ出そうとしていたのだが、彼の脚が糸のような何かに引っかかってしまったようで大胆に転んでしまう。
ヨツバはそれを気にしないまま箱を元の位置に戻した。真っ赤になった蓋を開けると身体がちゃんと繋がった霙がその場でパタリと倒れる。
「少しばかりやりすぎてしまったようだね。観客を怖がらせてしまっては参加型の手品がおじゃんになってしまうじゃないか。」
そう言うや否や、ヨツバは転んでしまったとうもろこしに近づいた。
「おや、まだ観客が残っているね。」
とうもろこしから見てみればヨツバは死神のように見えただろう。とうもろこしは涙と鼻水を垂らしながら一目散に逃げてしまった……
数分前とは打って変わって高架下がしんと静まりかえる。
「霙くん、もう良いよ。」
ヨツバの呼びかけに対して、ぷはっと息を吸い顔を上げる俺。
「まじで腰やったんだけど。ほら、身体を起こすの手伝えって。」
「貧弱だねえ、運動不足なんじゃないのかい?」
運動不足という言葉にデジャヴを感じた俺だったが、何も言わず彼が伸ばしてくれた手を取った。
「まさか人体切断マジックの種があんなに単純だったとは。」
実はあの箱、ずらしても多少の隙間ができるように設計されており、中にいる人が上手く体を曲げることであたかも身体が切断されているように見せることができるのだ。
「さ、霙くん。君のやるべきことを成し遂げるんだ。」
ヨツバの支えから解放されたあと、俺は一人残った勇者の元にフラフラと歩み寄った。
「……よう。お前、良くあの場面で逃げなかったな。」
その勇者とは藤間六花であった。彼は体育座りのまま飴玉を取り出す。
「こんなこと言われちゃね。」
飴玉の可愛らしいメッセージ欄に『しんじて』と書いてあった。
「それに、演技臭くて君のそれが血糊だってことも分かったし。」
「え、演技臭い……」
血糊で真っ赤に染った自分のブレザーをまじまじと見つめながら俺はしかめっ面をする。なんだか今更恥ずかしくなってきた。
「と、兎に角だなぁ!知らない奴に五千円札なんか寄越すんじゃない!」
俺は藤間に五千円を押し付けてぷいとそっぽを向いた。
「どうして。」
彼の短い発声に気がついた俺はそっぽを向くのをやめる。
「別に君が君の『おともだち』に五千円札を渡そうが渡すまいがどうでも良かった。彼らが僕に因縁をつけてきたのは君が五千円札を渡さなかったからだと認識していたんだ。
……普通、わざわざ知らない奴に五千円を返しに行こうなんて思わない。落し物でもないのに。」
「何が言いたいんだよ。二十字以内で、簡潔に。」
「てっきりパクったのかと思った。(十五文字)」
俺はその十五文字にカチンと来た。
「俺をあいつらみたいな糞野郎と一緒にすんな!あとカツアゲされても金を渡すな!馬鹿!阿呆!」
我ながら小学生みたいだなと思っていたが、こんな単純な言葉しか出てこなかった。俺はヨツバを置いて高架下から走り去る。
「ああ!ちょっと!霙くぅん!?」
手品道具を片付けていたヨツバは一歩出遅れてしまった。その去り際、ヨツバは藤間に声をかける。
「君も早くここから去った方が良いよ!それじゃ!」
夏休み前の小学生のように荷物を抱えながらヨツバは夜の闇に消えていった。
「田原春霙……それとあの手品師……普通じゃない。」
藤間は手の上にある五千円札と飴玉を眺めていた。
❆
次の日。
俺は毎朝のルーティンをこなし、家を出ようとした。……出ようとしたのだが、肝心なことを忘れてしまっていた。俺のブレザーとネクタイどうしよう!?
昨晩、母さんに血糊まみれのそれらを見せることもできずヨツバに預けたのだが、学校に着ていかなくてはならないしこのままという訳にもいかない。ブレザーは百歩譲って諦められるがネクタイがないと教師にグチグチ言われるだろう。それは絶対に嫌だ。
「うう、買い換えるにも高いしなあ……」
ブレザーもネクタイも無い、簡素なカッターシャツを見つめながら俺は悔し涙を流す。
「おはよう霙くん!今日も良い朝だね!」
家の影から急に現れたヨツバに驚いて尻もちをつく俺。
「急に出てくんな!不審者かと思っただろ!」
まあ、だいたい不審者であることに違いは無いが。
「じゃーん!霙くんのブレザー・アーンド・ネクタイ〜!しっかり乾燥済み!」
ヨツバの言う通り、彼の手には新品のように皺のないブレザーとネクタイが。
「昨晩、寝る間も惜しんで染み抜きしたんだよ……さあ、これを着て登校すると良い。」
寝る間も惜しんでと言っている割には顔色一つ変わっておらず、相変わらずうざったらしい顔をしている。むしろ寝不足で疲れた顔をしている方が丁度良いのではないだろうか。
彼から受け取った衣類は石鹸の香りがした。
「あ、ありがと。色々。」
ごにょごにょと礼を言うと、ヨツバはぱあっと顔を輝かせる。
「え?なんてなんて?もう一回言って!?」
「言わない!くねくねすんな!キモイ!」
照れているのがバレないよう、俺はブレザーを羽織りながら走って家を出た。
「霙くん!?」
「え!?霙、無事なのか!?」
バスから降り校門を潜るや否や、わらわらととうもろこしたちに囲まれてしまう。
「えっ、何事……」
まさか、俺のモテパワーが限界突破してしまったとか?……嫌、嘘嘘、冗談。
恐らく昨晩の人体切断マジックで俺が死んでしまったのではないかという噂が広まってしまったからだろう。でも大丈夫、策は考えてある。
「は?何のこと?」
しらばっくれである。
「何のことって……四組の〇〇とその取り巻きが『お前の身体がバラバラになって、血まみれになってた』って言ってたぞ……」
「血まみれって……俺が今血まみれに見えるか?」
見えない、ととうもろこしたちは首を横に振る。
「はー、集団幻覚でも見たんじゃないのか?」
そうかな、そうかも……と周囲が同調し始めたとき、校舎の方からとてつもなく大きな声が飛んできた。
「闇の組織による集団催眠よ!」
空気がビリビリと震えている。その大声の主は同学年の女子生徒だった。確か彼女はオカルト部の副部長とかだった気がする。ちなみに北水仙高校のオカルト部は結構人気の部活である。
彼女はとうもろこしの集団を掻き分けてこちらに近づいてくる。
「当事者に話を聞いたところ、事件のあと交番に行って調べてもらったら現場には何も残っていなかったそうよ。そう、血の跡さえもね。」
そりゃあ残ってないだろうな。ヨツバが綺麗に拭きあげたのだから。
「そしてこれが闇の組織による犯行だと裏付ける証拠があるの。それは監視映像に全く問題がないことよ!」
どこが裏付ける証拠なんだろう……
「と、言うことで田原春霙くん、貴方にも話が聞きたいの。集団催眠によって見た人物が共通して貴方なんておかしいと思わない?」
「たまたまだろ……」
彼女は水性ペンを俺に突きつけて問いただす。
「じゃあ一緒に居たらしい手品師のことは知ってる!?」
「だから俺は何も知らないってー……」
糞、こいつがいなかったら面倒なことにはならなかっただろうに。
副部長から質問攻めに会いかけていたところ、丁度チャイムが鳴った。
「チッ、良いところだったのに……じゃあ昼休みか放課後、インタビューを受けてもらうからそのつもりでね!」
俺、インタビューを受けるとか一言も言ってないんだけど……勝手に話が進んでしまった。昼休みはどこか隠れる場所を見つけなければ。
案の定、昼休みになるととうもろこしたちがぞろぞろと教室の前に集まってきていた。早く教室を抜け出すつもりが、授業が他クラスより長引いてしまうとは……とことん不運だ。
「田原春霙!出てきなさい!田舎のおっかさんも泣いてるわよ!」
うちのおっかさんは田舎住みじゃないし、なんなら比較的ここから近い所に住んでいる……
今俺は机の下で息を潜めているが、ガヤが減れば副部長が教室へ入ってきてしまうだろう。というのも、あまりに人が密集しすぎて教室の出入口が塞がっているからである。――かく言う俺も脱出不可なのであるが。
「だ、誰か助けてくれ……」
すると、俺が弱音を吐いたと同時に電子ブレスレットにひとつの通知が来た。
『黒板に最も近い窓。梯子。』
送信元が不明のメールだった。それにしてもこの文面……クイズか何か?
とりあえずメールの言う通りに黒板近くの窓に視線を移す。すると避難に使うであろう縄梯子が窓の向こうで揺れているではないか。
もしかして、この梯子を使って教室から抜け出せと言いたいのか?
「え、無理無理無理!」
命綱も無しに!?
「きゃー!霙くん!サイン書いてー!将来高値で売れるから!」
ああ、余計面倒な女子生徒たちも集まり始めた。このままでは俺の貴重な昼休みが潰れてしまう。
「ええい!落ちても死なん!落ちても死なん!多分!」
俺はそう自己暗示しながら梯子に手をかけた。
風のせいで梯子と共に俺の身体が揺れる。やばい、やっぱり死ぬかも。
俺が窓の傍で硬直していると、上の階から手が伸びて俺の腕をぐいと掴んだ。途端、俺の体は宙を舞い、気がつくと上の階の教室に倒れ込んでいた。
「し、死んでない……」
自分の身体をぺたぺたと触る。腕と肩は痛むが他の箇所は全と言って良い程痛くない。
「早くしないと。」
そう俺の後ろから声が聞こえた。声の主は縄梯子を巻き取っている藤間六花であった。彼の頬には大きな絆創膏が貼ってある。
凄まじい速さで縄梯子を巻き取り終わったかと思うと、彼はそれをそのまま教室に放置する。俺がその様子をぽかんと見つめていると、彼は何故か焼きそばパンを俺の顔面目掛けて投げつけた。
「早くしないと、って言ったよね?」
「ハ、ハイ……」
藤間の圧に俺は負けてしまい、彼の後ろをついて行くことになってしまった。
後方から階段を駆け上がる音が多重に聞こえる。俺が上の階に逃げたのがバレてしまったようだ。
俺は藤間の後ろを走って追いかけているが……こいつも脚が速いな!?あれ、やっぱり俺って運動不足なんだろうか……
「ど、どこに行くんだよ。」
息を切らしつつそう問うが、藤間は何も答えてくれない。やがて俺たちは一番上の階にたどり着いた。
「はあはあ、このさき生徒は行けないぞ。」
このさき、とは屋上のことである。藤間は俺の言葉を聞かずに電子ブレスレットと扉の電子ロックをコードで結んだ。
数秒も経たないうちにピピッと快い音が響いたかと思うと、屋上の扉が開かれる。
「お、お前……」
俺の頭の中にある違法センサが警報を鳴らしている。
文句を言おうとしたのだが、それが叶う前に俺は屋上へ放り投げられた。
「話をしようと思って。」
俺が近くで伸びているにも関わらず勝手に話を進める藤間。俺の話は聞かなかったくせにー!
「その焼きそばパンは昨日のお礼か手間賃とでも思ってくれれば良い。」
「……はい、なんでしょうか。」
別に昼飯に回せば弁当を夜に食べられて食費が浮く、ラッキー☆とか思ってないから。
「僕に絡んできていた男子生徒たちが大人しくなった。何故?」
「何故って……昨日見たろ、皆ビビってたじゃんか。あいつらを束ねてた奴も今日休みだろ?ならわざわざ集まってお前をいじめる必要も無い。」
藤間は梟のように首を傾げている。こいつ実はお馬鹿ちゃんなのかな?
「……ホモ・サピエンスとネアンダルタール人の話があるだろ。後者が絶滅したひとつの要因に集団生活が苦手だったからって言うのがある。」
「それは数ある説のひとつに過ぎない。他にも高いカロリーが必要になるネアンダルタール人は食料確保に難航したとか、ホモ・サピエンスと交配したがホモ・サピエンスの遺伝子が優位であったために絶滅したという話なども……」
何だよ、別に馬鹿じゃないじゃん。
「今は集団生活に焦点を当ててんの。当時も今もホモ・サピエンスである俺たちにとって集団生活を円滑にすることは有効な生存戦略になる訳。逆に異分子が現れればそれを排除する。それが俺たちの遺伝子に刷り込まれた性質なんだよ。
あの取り巻きたちは賢く、そして自分の本能に従っただけだ。」
そして集団にはそれを引き連れる指導者が必ず存在する。というか、しなければ集団は瓦解する。だからどの時代のクーデターにおいても指導者を暗殺することが自分たちの理想を実現するための有効な手段になったのだ。
「……なるほど。そう言われるとしっくり来た。」
「はあ、そりゃ良かったよ。」
俺はそう言いながら焼きそばパンの包装を破る。
「つまり、僕は君と『友達』になれば良いということだね。」
「は?」
パンを頬ばろうとして口を開けたままになってしまう俺。
「再び取り巻きたちの生存戦略を発令させないように頭を潰せば良いって話でしょう?
巷では彼らが集団幻覚やら集団催眠やらにかかった、なんて噂されているみたいだけど、当事者にとって衝撃が大きいのは事実だ。君の顔を見たら逃げ出してしまうかも。」
「それで?」
俺は焼きそばパンを前に口を閉じる。
「彼らに絡まれるのは非効率的だから避けたい。良い考えだとは思わない?」
「俺にメリットが無い。」
とうとう俺は焼きそばパンに齧り付いた。ソースが良く絡んでいて美味しい。
「……八十三、この数字が何を意味しているか分かる?」
八十三という数字を聞いた瞬間むせてしまう俺。
「な、なんで俺の学力テストの順位知ってんだ!」
「僕は一位だ。」
俺は再びむせる。
「僕と友達になれば君のテストの順位を十位以内まで上げられる。」
「フン、甘いな!」
俺はむせたことを無かったことにして焼きそばパンを平らげた。
「その程度で俺の心が動くとでも!?俺は勉強に興味が無いだけですー」
「じゃあ毎日甘味を進呈する。」
カ、カンミ、だって……?
「フ、フン、まだまだだね、俺が甘いものなんかで釣られるわけ……」
「でも同じクラスの人たちが、君が極度の甘党だと言っていた。無駄遣いしないように我慢しているって話も。」
くぅー!どこのどいつか知らんが俺の弱みになるような情報を明け渡しやがってー!
「毎日二百円以上の甘味を渡そう。これで手を打ってくれないかい?」
「ううううう〜!」
俺の口から滝のような涎が溢れ出した。ああ、もう四日も甘いものを食べていないんだよな……
「ギブアップ。」
俺はとうとう白旗を上げてしまった。これ、カツアゲにならないよね?