たんぽぽと捨て犬の季節
俺はたんぽぽが嫌いだ。
小さい癖に側溝からしぶとく生えてくる。ぎざぎざとした葉を根につけて、やけに多い花弁を広げている。
何より気に触るのは……たんぽぽが春の訪れを知らせるところだ。
俺は無性にいらいらして、たんぽぽを踏みつけた。
小さな花弁がアスファルトに散った。
「おはよう霙!」
「霙くん、おはよう!」
とうもろこしAととうもろこしBが声をかけてきた。彼らは俺のクラスメイトだ。挨拶したくせに俺を置いてそそくさと教室へ向かっていく。
そんな彼らを俺は手を振りながら見送った。顔面に笑顔を貼り付けたまま。
とうもろこしたちがこちらの顔を認識できないほど離れたあとで、俺は笑顔をひっぺがした。にっこりマークが描かれたその紙をクシャクシャに丸めて捨ててやりたかったが、今日も踏ん切りがつかず捨てられなかった。まあ、ポイ捨てはいけないことだし……
「あの、霙くん……ちょっといいかな。 」
すぐ後方から女子生徒の声が聞こえたので、俺はすかさず笑顔を貼り付ける。
「どうした?」
俺が返答すると彼女は恥ずかしそうに身を捩っていた。とうもろこしの房が体と一緒に揺れている。
「えっと……今日の放課後暇かな?もし暇なら銀杏の木の下に来てくれない?」
「うん、いいよ。放課後ね。」
俺は他のとうもろこしたちと同じように軽く手を振ってその場を去った。
約束通り、全ての授業が終わったあと俺は中庭にある銀杏の木を目指した。今は春だから銀杏の葉は青々としている。銀杏の木の下には古風なベンチがひとつだけ設置してあって、金属のフレームがハート型のように見えた。なるほど、だから最近告白スポットとして注目され始めたのか。
そう、俺は今から告白されに行くのだ……もう何回目だろうか。
「ああ良かった、霙くん、来てくれたんだね。」
とうもろこしが嬉しそうに言う。どうせ次の言葉は『好きです、付き合ってください』だ。
「好きです、付き合ってください。」
ほらね。
俺は内心呆れる気持ちで満たされていたが、彼女の告白を受け入れた。
「本当にいいの……!?私、霙くんの彼女として頑張るね!」
さて、何日続くかな。
告白されてから三日後。
「どうして霙くんは私を見てくれないの!どうしていつもつまらなさそうなの!」
「いつもって……お前と俺が付き合い始めてまだ三日しか経ってないじゃんか。」
そう指摘すると、彼女は余計にとうもろこしの葉をピンと立たせて怒り出す。
「そういうところも嫌いよ!もういい!私たち別れましょ!」
「うん、分かった。」
あっさり引き下がった俺を見て、今度は泣き出すとうもろこし。
「なんで引き止めてくれないのよう……!」
今度はとうもろこしの葉を萎れさせ、彼女は逃げるように走り去っていった。
「なんでって……お前と付き合っても楽しくないんだもんな。」
結局、彼女は最初から最後までとうもろこしでしかなかった。俺にとって一緒にいる価値がなかったのだ。
「……つまんね。」
俺は欠伸を噛み殺しながら帰路へついた。
俺が学校の敷地から出る頃には空が赤くなっていた。ソーラーパネルつきの街灯が明かりを灯し始めている。淡々と歩みを進める俺を挟むようにしてそびえ立つビルたちは、昼も夜も変わらずビカビカと光を放っていた。
右耳と左耳に内容の全く異なる振動が入り込む。
「春は新生活の季節ですね。今年の離職率は例年を上回っておりますがご意見を……」
「あなたも一緒に環境保全!プラスチック・バニラアイスはいかが?本物に劣らない……」
ふと視線をあげると多くの電光掲示板が見える。この世界は電子的情報と娯楽に満ちているのだ。しかしそんな色とりどりの情報が飽和していようとも、俺の興味や関心……そして何かをめいっぱい楽しみたいという渇望を満たすことはできない。
先程とは打って変わって俺の脚は重りがついているかの如く進ませづらくなった。囚人などがよくつけているあの重りだ。鎖の先に丸い黒玉がくっついている。
聞こえるはずもない鎖の擦れ合う音と共に、俺はバイト先へ向かった。
「ごめん、本当にごめん、田原春くん……君を解雇させてください……」
「は?」
俺はカフェでアルバイトをしている……と紹介しようとした矢先、クビにされかけそうになっている。
「ちょ、ちょっと待って。せめて理由を聞かせてくれませんか?」
俺が店長にそう問うと、彼は頭を地面に擦り付けて土下座をした。
「君は何も悪くないんだ……ただ、バイトの女の子たちが君をめぐって殴り合いの喧嘩をして……!」
「ああ、なるほど……」
店長は俺に落ち度がないと言ってくれているが、それに全肯定することはできない。俺にも悪いところがあったかもしれないから───とうもろこしたち(女)に思わせぶりな態度をとってしまったところとか。八方美人と言うやつだ。
「店長、もういいですよ、頭を上げてください。俺が自分の意思でバイトを辞めたことにしてくださって大丈夫ですから。」
多毛とは言えない絹糸を乱れさせながら店長は顔を上げた。彼の表情は救われたような、安らかな顔をしている。彼にとって俺はどう見えていたのだろう。俺の後頭部に後光でも突き刺さっていたのかな。
「田原春くん……ありがとう……」
店長は手を擦り合わせて俺を拝んだ。
「ニートのうち三つを満たしてしまった……」
ちなみにニートはNot in Education, Employment, or Trainingの略である。
「次の働き先、どうしようかな。」
俺は特別な技術を持っている訳では無いし、何よりどこも人件費削減で人を雇いたがらない。ほとんどの仕事が機械に置き変わってしまっては、失業率の解消にも目処が立たないものだ。
「俺もあのホームレスたちみたいになるのかな。やだな。」
あのホームレスたちとは、家の近所の公園にコロニーのようなものを形成しているホームレスたちのことだ。公園の入口に取り付けられている『みんなでたのしくあそぼう!』という看板がミスマッチしていて禍々しさを感じる。俺はあの淀んだ空気が苦手なのでいつも早歩きで公園を通り過ぎるのだが……
そんなこんなで鬱々と歩いていると、いつの間にか件の公園の近くに到着していた。普段は目もくれずさっさと立ち去るのだが、何を思ったかこの日の俺は少しばかり公園の様子が気になって視線を上げたのだ。
いつもならどんよりと立ち込めているはずの紫色の渦が無く、滑り台の上にいる一人の男性とそれを囲むホームレスたちが見えた。
街灯の光を浴びて優雅に踊る男性は大きなシルクハットを手に持っていた。
「嫌、あれは踊っているんじゃない、手品をしているんだ。」
そう呟いた俺は、その手品師を間近に見るために公園へ近づいた。
「よし!じゃあ次はそこの立派な髭をお持ちの君!」
手品師は立派な髭をお持ちの君とやらに空き缶を要求した。彼は受け取った空き缶の口を下に向け、中身が入っていないことを証明してから空き缶を上空へ投げた。よく見る柄の缶がくるくる回りながら宙を舞う。数秒後自由落下を始めた缶はまるで導かれるように手品師のシルクハットへ吸い込まれていった。
「おや!?おやおやおや!?おかしいな!」
彼は大袈裟に焦る演技をしてシルクハットの中を漁る。
「ほら見てくれ、空き缶が入っていないんだ!どこかに落ちてないかい?」
確かに彼の言う通りシルクハットの底は真っ黒で何も無い。滑り台の下を見ても空き缶は落ちていなかった。
「せっかく預かった空き缶なのに……すまないね、お詫びをしよう。」
彼はそう言うと、指をパチンと鳴らして犬型のスプリング遊具を指さした。
大勢の家なしとうもろこしたちと俺の視線が集まったその遊具の上には、なんと先程消えた缶があるではないか。
スプリング遊具のすぐ近くにいたとうもろこしがその空き缶を恐る恐る手に取ると、うわあと急に声を上げた。
「な、中身が入っている……!」
とうもろこしの手にあるその缶は、確かにちゃぷちゃぷと音を鳴らしていた。
公園の中でうおおと歓声があがり、やがてそれは拍手へと変わる。溢れる笑い声、もしくは笑顔。彼らは今心から楽しんでいる……俺はそれがとても羨ましかった。
相変わらず遠巻きに公園を眺めていた俺を、ぼうっとした意識の中から突如として醒ますものがいた。それは、軽やかに鳴り響くポンポンという音だ。何事かと意識を現実世界へ引っ張ってくると、目の前には見たこともない光景が広がっていた……
と言うのも、とうもろこしたちの実がポップコーンとなって弾けているのである。
俺が普段見ているとうもろこしたちはその艶やかな実を常に外皮の中へしまいこんでいるが、この瞬間ばかりは違った。
俺はそんなイレギュラーな光景を目にして微かな恐怖を覚える。恐らく未知故の恐怖。
その場から立ち去ろうと足を一歩引いた瞬間、滑り台の上で礼をする手品師とばっちり目が合ってしまった。
彼の目に映る複数の同心円が俺の恐怖を掻き立てた。彼は多分、関わってはいけない人だ。
俺は別れた元カノと同じように公園から逃げ出した。
チリンチリンと鈴の音が鳴る。
「あら霙ちゃん、おかえりなさ〜い!今日は早かったわね〜!」
お通しのキャンディ型チーズを片手に声をかけたのは俺の母親だ。彼女のゆるい声に反応した常連客たちも同様にして俺に声をかけた。
「おかえり霙くん。今日のおすすめメニューはとうもろこしのかき揚げと蜂蜜レモンのリキュールらしいよ。」
「俺はまだ成人してないっつの。かき揚げだけいただきます。」
酔っ払ったおじさんにツッコミを入れつつ、鞄をカウンターの端に放り投げてから席へ着いた。
「はい、ご飯とお味噌汁も食べてね。枝豆は食べる?」
俺は母さんから差し出された白米を口に含みながら頷く。
「あ、ママぁ、俺たちにもご飯とお味噌汁ちょうだいな〜」
「はーい、今出しまーす!」
母さんが常連客たちのリクエストに答えている間、俺の隣に座っていた別のおじさんが小声で話しかけてきた。
「それはそうと霙くん、今日はやけに慌てて帰ってきたね。バイトはどうしたんだい?」
突かれたくない話題を出されて味噌汁を吹き出しそうになる俺。
「きょ、今日は早く仕事が上がったんだよ……」
「大丈夫大丈夫、嘘をつく必要は無いさ。クビになっちゃったんだよな?」
なんで分かるんだ。俺は裏でグギギと歯ぎしりをする。
「あれか?また女の子絡みか?全く霙くんは女ったらしなんだからぁ……」
まあバレるのも仕方がない。同じような理由で二回ほどバイトをやめたことがあるからだ。今回で三回目になるが。
「頼むから母さんには言わないでくれ。今度麻雀に付き合うからさ。」
俺が両手を合わせて頼み込むと、おじさんは嬉しそうに俺の背中をバンバン叩いた。
「乗った!これは男同士の約束だな!」
おじさんという生き物はどうしてこうも加減を知らないのか。くしゃみも腹もでかいし。
「あらあら、なんの話をしているの?」
枝豆を持ってきてくれた母さんは俺とおじさんの間に顔を突っ込んだ。
「駄目だよママ、これは男同士の会話なんだぜ。」
そうなの?と声の主ではなく俺の顔を伺う母さん。知らんわ。
冷や汗を流しながら母さんの詮索をかわしていると、カウンターの下がり天井に掛けてあったテレビが不快な音を鳴らし出した。
「やだ!テレビが壊れちゃった!」
母さんと常連客たちの視線がテレビへ向いている間に、俺は急いで夕飯を平らげ二階へ上がった。
蛇口を目一杯捻ってお湯を浴槽に溜める。ドドドという轟音が浴槽と浴室の壁を反射してうるさい。
普通の家庭では勝手に湯が溜まって勝手に浴室を温めてくれるらしいが、こんなボロ屋じゃそうはいかないのだ。
浴室を出た俺は充電器の上に電子ブレスレットを放り投げる。手持ち無沙汰になった俺は浴槽にお湯が溜まるまで掃除機をかけた。普通の家庭では(以下略)
世間一般的に見ると俺の家は貧乏なので、できる限りお金をかけない生活をしようとしたらこうなってしまった。今充電している電子ブレスレットも個人的には不要だったのだが、全国の教育機関はBYOD制度を導入しているので買わざるを得なかった。ああそう言えば先程雑にブレスレットを投げてしまったが壊れてはないだろうか。壊れてないといいな。
そんなことをぼんやりと考えているうちに掃除機は部屋の隅へ到達しており、掃除機の電源を切るとちょうどタイマーが鳴った。
俺はちらっとブレスレットの調子を見てから浴槽へ戻った。
俺は身体を洗い終わったあと、たんぽぽ色の入浴剤を浴槽に振りかけて湯に浸かった。
柚子の爽やかな香りが浴室を包み込む。鼻の下まで湯に浸かった俺は今日起きた不思議な出来事を思い出していた……
手品師が投げた空き缶。
手品師の大きなシルクハット。
湧き上がる歓声。
ポップコーンとなって弾けるとうもろこしたち。
そして、手品師の奇妙な瞳。
再び手品師の不気味さを思い出してしまって、湯の中に潜った。
湯の中では目を閉じらざるを得ず、その黒い景色の中にはやはりあの手品師がいる。息が苦しくなった俺は湯から顔を出した。
ぷはっと柚子味の空気を吸い込むとざわざわしていた心が落ち着いてきた。
「……もう会うこともないだろうし、いっか。」
おめでとう、フラグが建ちました。
次の日の放課後。
「な、な、な……」
あまりの衝撃に鞄を落としてしまう俺。
「なんで昨日のお前がここに!?」
やはりフラグというのは回収されるもので。
実家兼スナックつばきの前にいたのは昨夕公園で手品をしていた謎の男ではないか。しかも気味の悪いことにダンボール箱の中に座り込んでいる。
「やあ、君は昨日逃げ出した青年じゃないか。」
手品師はシルクハットを軽く上げて挨拶をした。
「に、逃げてないし!」
「ふむ、逃げ出してしまうほど僕の手品はつまらなかったのか……残念だね。」
彼は口をへの字にして大袈裟に肩を竦めた。だから逃げてないって!
「して、青年。ひとつ頼みがあるんだ。」
「うわ!な、なんだよ……」
手品師は手品で使うであろうスティックでダンボール箱の側面を指した。そこには『ひろってください。かわいいにんげんです。』と書いてある。
「拾ってくださいワン☆」
手品師のわんわんポーズにおええと嗚咽を漏らす俺。
「拾うわけねぇだろ……」
「何、メリットも十分あるさ。僕を拾えば良い客引きになるよ!」
そう言いながら彼は先程と同じようにスティックでスナックつばきを指す。
「うちはそんな余裕ないの!てかお前がいてもいなくても客層変わらないから……」
嫌、ちょっと待て。そんなことよりも何故この男は俺の実家を知っているんだ?
顔が青ざめる俺を見て、手品師は指を鳴らしながら解説する。
「ふむふむ、今君は見知らぬ僕が何故自分の家を知っているのだろうかと疑問に思った。違うかい?
これは実に簡単なことで、単に君のような男子高生がスナックなんかに赴かないからさ。スナックというのはとんだ時代錯誤と言って良いものだ。今どきの中年は愚か若者が入り浸る場所ではない。特に君はまだ成人していないから酒を飲むこともできないし酒の提供もできない。このことからこのスナックが君の実家であることは予想できる。以上。」
早口であるにも関わらず一切噛まずに説明する手品師。気持ち悪い。
「お前の言い分は分かった……けど、何が目的なんだ?拾うのは俺じゃなきゃ駄目なの?」
「そうだとも。君は運命という言葉を信じるかい?運命とは確率という存在を凌駕した概念で、言わば運命は百パーセントの確率だと言い換えることが……」
「分かった分かった!その早口モードキモイからやめて!」
「おお!じゃあ僕を拾ってくれるんだね!いやはや、あのホームレスたちの助言は本当だった。これで夜の寒さに震えずに済む。」
ホームレスたち……あ、あいつらのせいかー!
恐らく彼らの中に俺の顔馴染みがいたのだろう。俺は公園に寄ったことを酷く後悔した。
「はあ……とにかくお前を拾って?あげるけどさ。衣食住全て提供するわけじゃないからな。住だけ。分かった?」
「もちろん!他の二要素は自分でなんとかするとも!」
彼はありがとうと何度も感謝しながら俺の手をぶんぶん振った。
「それで僕のマイルームはどこなんだい?」
ああ、そのことなんだけど、と俺はジト目のまま彼のマイルームまで案内する。店の扉を開け鞄をカウンター内へ放り入れた俺は、再び扉を閉めた。
手品師はおよ?と阿呆そうな顔をしている。
「屋内には住まわせるスペースが無いんだ。うちは部屋ひとつしかないから。」
そう言って俺が顎で示したのは店の裏にある古ぼけた倉庫だった。
豆腐のようなその倉庫にはところどころ凹みや錆が目立ち、少なくとも人の住めそうな場所ではない。
これから住む予定の『マイルーム』を目にした手品師は、先程まで抱えていた瞳の輝きを失っていた。
「嫌、某ネコ型ロボットじゃあるまいし……」
「文句があるなら公園でホームレスたちと楽しくダンボールハウスでも作ってれば?」
俺はそう吐き捨ててその場を去ろうとする。しめしめ、これで諦めてくれるだろう。
「待ってくれ青年……」
手品師からがしりと肩を掴まれる俺。反射的にびくりと体を強ばらせてしまう。まさか暴力に物を言わせられるんじゃ……
「いいね!このマイルーム!」
「は?」
手品師は予想外の反応を見せた。
「最初こそはさすがに驚いたけれども、よくよく見てみると素敵な四角さだ!それからこの材質!軽やかな音が鳴る!まるで金管楽器のようだよ!
ここまで無駄を削ぎ落としたデザインを見るとなんだか無性にリフォーム精神が湧いてくるというかなんというか……」
「無理に褒めなくていいから……」
「いいや無駄ではない!これは心からの称賛さ!ありがとう青年!僕にとても良い部屋を分け与えてくれて!」
この男、恐るべし……これはもう追い払えないな。
「はいはいそりゃどうも……これこの倉庫の鍵だから、好きに使って。」
手品師は俺の手から恐る恐る鍵を受け取ると、まるで神物を扱うかの如く丁寧にポケットにしまった。
「本当にありがとう。これから同居人としてよろしく頼むよ。」
徐に手を差し出す手品師。しばらく俺がきょとんとしていると、彼はからりと笑って俺の手を握った。
「そこは手を握り返すところだろう?
僕はヨツバと言うんだ。君の名前は?」
「ああ、ええと……田原春霙。」
「タハラバルミゾレ……実に変わった名前だね。まるで春に降る雪のようだ。」
「馬鹿にしてんのかよ。」
俺はふんと鼻を鳴らして手を解いた。
「じゃあ何かあったら呼んで。できるだけ呼ぶなよ。」
「オーキードーキー。」
俺は背を向けつつ手を振り、手品師ことヨツバは敬礼をした。
そして五秒後。俺は踵を返してヨツバの元へ駆け寄る。
「言い忘れてた……いいか、絶対に俺の母さんにバレるなよ。絶対だぞ。」
「おや、それはどうしてだい?伝えておいた方が良いのでは?」
「良くないだろ!面識のない成人男性を住まわせて良いよなんて言う都合の良い奴いるか!」
俺がそう言った途端、ヨツバは俺の顔に指を指す。
「おまっ……」
おっと危ない怒りが爆発するところだった。俺は拳を固めて何とか持ちこたえる。
「と、とにかくひっそり暮らすんだ。バレたら住まわせられないから。」
俺の忠告に対してヨツバは何度も頷いた。
「ところで霙くん。僕は一流のエンターテイナーだから隠れるのも得意だけれど、君はどうなんだい?」
「はぁ?なんで俺が隠れなくちゃいけないんだ。」
俺がそう問うた瞬間、店の入口の方から母さんの声が聞こえた。
「ただいま〜……あら?鍵が開いてる。霙ちゃんの鞄もあるわね。霙ちゃん、帰ってるの〜?」
俺の心臓は止まりかけた。
「か、隠れろ!」
俺はヨツバを件の倉庫へ押し込もうもするが、彼は俺の手を離そうとしない。
「おい何やってんだ!お前の存在がバレるだろ!」
「何って……君も隠れなくては。面倒なことになるぞ。」
確かに彼の言い分も一理ある。もう数年使っていない倉庫の前で何をやってるのと聞かれてしまっては探し物があるとしか言い訳できない……母さんのことだ、きっと一緒に探すと言い出すだろう。
俺は内心涙を流しながら埃の住処に身を隠した。
外から俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「遊びに行っちゃったのかしら?全く、鍵も開けっ放しにして……」
そんな母さんの独り言が聞こえたあと扉が閉まる音がした。恐らくもう大丈夫だ。
「最悪、なんでこんな埃まみれの場所に男とすし詰め状態にならなくちゃいけないんだ……」
「フフ、案外広いんだね。カスタマイズしがいがある。」
俺はこの先この変な同居人と上手くやっていかなくてはならないのか……幸先不安だ。