11話
クロアの形の良い手で覆われた竜の右翼に眉をひそめる。
その手の下にはいくつか細い線で区切られた領域があった。
それらが国境を示しているとすると。
「・・・ええ、広くなってしまっている。だからこそ将軍やゼフは必死なのです」
その言葉に思わず頬下に手をやる。
容赦なく掴まれた感触はまだ鮮明に残っていた。
「・・・この国々はどうなっているの?」
「分かりません。連絡網も断絶されていますから。だから、この国の西の国境が最前線。そして将軍はこの国で最も優れた将です」
一番危険な、けれど要の防衛線。
自分の身と財産が可愛い臣下達に、彼以外では務まらないと説得された王は命を下した。
「勅令には逆らえなかったのでしょう。大袈裟に言えば反逆罪ととられかねませんから」
特に彼の立場では。
そう加えたクロアの苦い顔に、何か他の事情も絡んでいるのだろうと察しはついたが問うことはしなかった。
通りすがりの私が踏み込んで良いことではないのだろう。
「実際、あの方以外に務まる者がいなかったのも事実です。そのような訳で将軍は西方に赴かれたのですが、それでも年々激しくなる魔物の猛攻に耐えながら、王に神女を待って動かないことの愚かさを説いてこられました。そんな方ですから、昨日のシオリ様のお言葉を聞けばきっとあのような態度を向けることはなかったと思いますよ」
「・・・そうかしら」
クロアに聞こえないように、小さく呟いて目を伏せた。
そういう人であるならばこそ、自らの願いを蹴ってまで望まれた者があっさりとそれを放棄する様に、かえって憤りを覚えはしないだろうか。
たとえ、主張の字面が同じだとしても、その根底に流れるものが違いすぎる。
彼は国や民を思い、私は結局、自分のことしか考えていないのだから。
「シオリ様?」
「え、あ、ごめん。なんでもない」
クロアに怪訝そうに呼ばれ、私は自己嫌悪を抑えて微笑んだ。
「うん、将軍のことは分かった。ありがと、もういいよ。それよりも今の話を基に聞きたいことができたんだけど」
勿論というクロアの促しに応じて、私はシュガーポットから角砂糖を一つ取り出してコトリと置いた。
「これが、神女ね。私じゃなくて、神女という概念と考えて」
「?」
突然何を始めたのかと首を傾げるクロアを余所に、もう一つを少し離して配置する。
「で、これが王様たち、おんぶに抱っこ隊」
「・・・その表現はどうかと」
「で、こっちが将軍とかゼフの神女いらん会」
「・・・・そのまんまですね」
ほぼ正三角形に配置された角砂糖を前に、私は新しい一つをクロアに差し出した。
「で」
「はい?」
「あなたの立ち位置は?」
「・・・どういう意味ですか?」
すっと目の色の温度を下げたクロアは、受け取りはしたもののテーブルに置くことはせず、角砂糖を手の中で転がす。
渡した私が言うのもなんだけど、後で手を洗わないとべとべとになるなぁ、とちらりと思いながら口を開いた。
「なんとなくね。クロアは将軍やゼフの考え方に親和しているようなのに、私を神女として持ち上げようともするなぁと思って。今後のことを考えてもクロアがどういう立ち位置なのか知っておきたい」
「随分、直球でお聞きになるのですね」
感心したように言われてしまった。
これはむしろ呆れているのかもしれないけど。
「遠回しに聞いても仕方ないでしょ。推測して間違ってても後で困るし」
「嘘を言うかもしれませんよ?」
「その場合は嘘を言ったという事実を得られるから構わないわ。なるべく、正直に答えてもらえると助かるけど」
回りくどいやりとりから言質を得るようなやり方もできないではないけど、仕事でもないのにそんな神経を使う方法を選びたくない。
それに、正直そんな心の余裕もないのだ。
オブラートに包むことを一切放棄した私の台詞に苦笑しながら、クロアはそっと角砂糖を置いた。
神女の対角線、王と将軍を結ぶ線の真ん中に。
そして静かに口を開く。
「・・・シオリ様は何故私がゼフと共にお迎えに上がったとお思いですか?」
「乳兄弟だから、じゃないの?」
「ただの乳兄弟がこの国、いえ世界の重大事に立ち会うことなどできませんよ。私が、貴女を召喚んだのです」
「え?」
さらりと言われた言葉の意味がとれずに聞き返した。
クロアが、召喚んだ?
「私の家系は代々神女に関わる事柄を統括していましてね。召喚方法も我が一族の秘伝。勿論、私一人が執り行ったわけではなく、一族総出の大事業ではありましたが」
私が一族の筆頭ですので、私が召喚んだと言っていいでしょう。
そう続けると、覚悟を決めた目を合わせてきた。
「私を、お恨みになりますか?」
「・・・私よりも、将軍が怒ったんじゃない?」
まっすぐに向けられた視線に、恨んでいないと明言できず少し方向の違う問いで返す。
けれど恨むとも言えなかった。
罪を犯した者の手を罰してどうしようというのか。
責められるべきはそれを命じた頭のほうだろう。
確かに、拒否してくれればよかったのにと思う気持ちもないではないが、国仕えの立場では難しいことだろうと想像はつく。
「そうですね。ですが、あの方はそれを命じた王のほうに向けられていらっしゃいました。そうすることがご自分の立場を危ういものにすると、十分分かっておられただろうに」
目を伏せて言われた言葉に、あの将軍も同じように考えたことを知る。
「将軍やゼフの言うことも分かります。私もこの国の神女に寄りかかる体制は問題だと思う。けれど、現実問題として、神女は必要なのです。それを、私は知っている」
「それは・・・」
一体どういうことなのかと問おうとしたとき、扉の向こうから微かにぱたぱたと走る足音が聞こえた。
まだ遠いが、この軽い足音はサシェアだろう。
クロアも気づいて立ち上がった。
「彼女が戻ってきたようですね。私も次の仕事がありますし、申し訳ありませんが、ここまでのようです。続きはまた後ほどとさせていただいてもよろしいでしょうか」
「分かった。また今度ね。話してくれてありがとう」
お礼を言うとクロアは、その美しい紫の瞳を少し見開いて、そして微かに笑った。
「こちらこそ、お時間をいただきましてありがとうございました。では、失礼いたします」
「あ、ねぇ、最後に」
一礼をして踵を返したクロアの背中に慌てて声を投げる。
何かと向き直った彼を、私は今までで一番切実な目で見つめた。
「クロアがそういう立場なら、知ってるよね。私は本当に、ハーケンという人を殺さないと帰れないの?他に方法はないの?」
何かに縋るように自分の胸元を握り締めて。
王の思惑も、将軍の思惑も、突き詰めればどうでもいい。
結局知りたいのはそれだけだ。
もしかしたらクロアは正直に答えないかもしれない。
理由は聞けなかったが神女が必要なのだと言い切った彼なら、私にそれ以外の方法で帰ってもらっては困るのだろう。
それでも、今頼れるのは彼しかいない。
願う気持ちで問いかけた。
そんな私の様を見てどう思ったのか。
クロアはゆっくりと目を伏せた。
「・・・申し訳ございません。私は立場上、神女に関する書物には全て目を通し、情報も集めておりますが、神女がハーケンを滅ぼして自らも消える、それ以外の結末は存じ上げません」
「・・・本当に?」
「誓って」
「・・・そう」
嘘であればよかった。
クロアの瞳に嘘が混じっていればよかったのに。
透き通るような紫の瞳が真実と告げていたから、それ以上足掻く事ができなくて額を覆った右手で顔を隠した。
「シオリ様」
「大丈夫。私は大丈夫」
言ったのはクロアに安心させるためか、自分に言い聞かせるためか、自分でも分からない。
「ごめん、次の仕事があるんだよね。行っていいよ」
無言で一礼したクロアが出て行く気配を感じながら、それでも手を外せず、サシェアが部屋に入ってくるまでそのまま動けずにいたのだった。