10話
「・・・なんだあの雄叫びは」
やっと叔父に追い付いたところで不意に落とされ問いにゼフは一瞬目を瞬かせ、それが先ほど扉越しに響いたシオリの怒声のことだと気付くと苦笑を浮かべた。
「『なんだ、あの男は』、とお怒りのようですよ。それも仕方ないことでしょう」
星織がいたなら、そんなことは訳さなくていいと頭を叩いただろう台詞にもなんら痛痒を感じないように歩みを進める男に、ゼフは眼差しを真剣なものに変えた。
「なぜ、あのようなことをおっしゃられたのです」
メドルフは横に並んだ甥の顔を見もせずに答える。
「なぜ、とは?」
「貴方は初対面の人間にあのような振る舞いをなさる方ではないはずだ」
「・・・あれは不要だ。まさかお前までハルバード侯に毒されたわけではあるまいな」
「叔父上」
一段と低く抑えられた声に潜む怒気に、メドルフはちらりと苦笑を閃かせた。
「そう怒るな。分かっている。だからこそ神女などという存在はとっとと帰ってもらうことが得策なのだ」
「・・・それが、そうはいかないようなのです」
「なに?」
今度は聞き流せないと思ったのか、メドルフは足を止めないながらも甥に顔を向けた。
「私がその場にいたわけではないのですが、クロアから聞いた話では、昨日の謁見で彼女が徹頭徹尾要求していたのが帰る方法だったというのです。そこから鑑みるに・・・」
「自分では帰れない、か。厄介な。・・・・・・っと」
ちっと舌打ちしたところで、角から飛び出してきた人影に気付き体を逸らす。
小柄なその影は突然現れた壁に驚き小さく叫び声を上げた。
「きゃっ、申し訳・・・・、あっ」
そこで相手が誰かということに気付いたのだろう、普通ならば王弟の存在に更に畏まるところを、その少女はくりくりとした瞳で出来る限り眦を吊り上げて睨み上げてきた。
・・・とはいえメドルフにとってその威力は、風がそよいだほどもなかったが。
「っ、失礼いたします。お通しくださいませ!」
それは少女にも分かったのだろう、抱えていた荷物をぎゅっと握りなおすと足早にメドルフ達が来た道を立ち去っていった。
「あの少女は」
「ハルバード候のご息女、サシェア殿ですよ。昨日の議会でシオリの側付きに」
その言葉に再度舌を鳴らしたメドルフは、少女を見送っていた目を甥に向けた。
「・・・分かっております。彼女には監視を」
「ハルバード候も早速動いたか。・・・まったく、ここに来て神女が召喚されるとはな」
「叔父上」
「大丈夫だ。神女には手は出さん。・・・・今のところはな。そうするには状況が悪すぎる。手を出すなら出現したその瞬間が最良だっただろう」
「・・・・すいません」
唇を噛み締めた若い甥の頭を、メドルフは苦笑しながらくしゃりと掻き混ぜる。
「いや、俺はお前がそれを選ばなくてよかったと思っているよ。お前には、何かを犠牲にして何かを得ることに慣れて欲しくない」
この人だって決してその手段を望んでいるわけではないのだろうに。
乱された髪を直しながら、ゼフは未だこの人に守られる自分を歯痒く思う。
「・・・西の戦況はいかがですか」
「相変わらず魔物の大盤振る舞いだ。近頃はとみに力の強いものが出現し始めているのが厄介でな」
軽い口調に重い事態を感じ取ってゼフは目を伏せた。
「・・・ここ最近では、都の近くにも出没する頻度が高くなっています」
「頻度や力の問題もあるのだが・・・妙な動きもあってな」
メドルフの思いがけない台詞にゼフは叔父の顔を仰いだ。
「妙、とは?」
「お前は感じないか?」
「いえ、特には・・・」
「そう、か。なら思い違いかもしれん。ならばいいのだが・・・」
それきり口を閉ざしたメドルフに何を言えるでもなく、ゼフも無言で足を進める。
行く先に得体の知れない闇が広がっていることを、二人のざわめく心が告げていた。
その頃、そんな一幕があったと知る由もなく、私はクロア相手に暴発を繰り返していた。
「一体何しに来たのよ、あの男は!自分の言いたいことだけ言って!『・・・・・とっとと帰るんだな。お前の出る幕はない』ってこちとら好きでこの世界にいるんじゃないわよー!」
「シ、シオリ様、落ち着いてください。・・・将軍の口真似、ちょっとお上手ですね」
「むきー!」
「・・・むきーって・・・・」
と、このように思う様喚きちらし、ようやく気が済んだ私はどっかとソファーに座り込んだ。
その裏でクロアに気付かれないよう、小さく震える足を手の平で抑える。
・・・怖かった。
恫喝されたからじゃない。
あの男の存在そのものが、なぜかとても怖かった。
喚くことで誤魔化さないといられないほどに、怖くて。
・・・どうして。
「シオリ様、こちらを」
肩を抱きたくなる腕をぐっと堪えた私に、そう言ってクロアが差し出したのは、例の牛乳で。
「・・・・・もらうわ」
ぐい、と飲み干した私が落ち着いたのを見て、クロアが正面のソファーに座った。
「先ほどは将軍が失礼いたしました」
「・・・クロアに謝ってもらっても仕方ないわよ」
クロアに散々当たった私の言う台詞じゃないけど。
「で、なんで私はあの男にあんな風に言われなきゃいけないの?」
「うーん、将軍は先ほどこちらに着かれたようですね。昨日いらっしゃらなかったことは不幸でした」
「なんで?」
むしろ私にとっては昨日いらっしゃらなかったことは幸いだったように思うんだけど。
あの男があの場にいたら問答無用で切り倒されてたかも、と考えて、笑い事じゃないと身を震わせた。
「先ほどゼフが言った言葉は勿論彼の考えではあるますが、そう考えるにあたっては叔父である将軍の影響を多大に受けているんですよ」
「・・・へえ」
「あの方は10年以上前、銀の大樹が黒に染まる前から魔物に対する防衛策の必要性を説いておられました。けれどそれを五月蝿く思う者もおり、大樹が魔物の復活を告げるを幸いと西方将軍に任ぜられ、都を離れることとなられたのです」
「はい」
クロアが話を区切るのを待って私は手を挙げた。
「はい、質問です」
「な、なんですか」
改まった様子に気味が悪そうにクロアが指を差す。
「なんで五月蝿く思うの?至極真っ当な主張だと思うけど」
「まあ、それは利の問題ですね」
「利?」
「世知辛い話ですが、国防にはお金がかかります。将軍はそれを貴族が国から受け取る給付金を削ることで捻出されようとしたものですから、当然反発が大きかったのですよ」
「・・・ほんっと世知辛いわね」
民の命より自分のお金。
呆れるほどご立派な主張だこと。
「あとは・・・・シオリ様にはご不快でしょうが・・・、いずれ神女様が駆逐してくださるのだからわざわざ自分の金を削ってまで、という思惑も各候には共通していたのですよ」
ぴく、と私のこめかみが動いたのを見てクロアは急いで言葉を続ける。
「まあ勿論方々も表立ってそう主張された訳ではありませんよ。それではあまりにも外聞が悪いですから」
でも原因と結果を見れば自ずと推測される結論がある、ということね。
「・・・まぁ、神女云々はとりあえずいいとして。つまり、そのお貴族様方に将軍は飛ばされた、と。でも王弟なんだからそんなの一蹴できるんじゃないの?」
「それが、ご自分の主張を楯に取られてはそうもいかなかったのでしょうね。何せ、西方ですから」
「はい」
ちょっと待った。
「ま、またですか。今度は何ですか」
「西方だとなんで将軍が行かないといけないの?」
「あー、そうですね。ちょっと待ってください」
そう言ってクロアは自分が持ってきた書類の中から一枚の巻き紙を取り出した。
羊皮紙のような、動物の皮を鞣して造られた丈夫そうなそれは広げれば小さなテーブル一杯に広がった。
そこに描かれていたのは、おそらく世界地図。
まぁ、今更、小学生の時分から教え込まれたそれとは似ても似つかないからって騒ぐほどのことじゃないわよねと思う私はきっともうどこかが麻痺してるんだろう。
それともまだどこかで今が現実だと捉えきれてないためか。
その地図には、ぱっと見て竜が両翼を広げた姿を正面から見たような形の大陸があり、その上部は鱗のように山脈で覆われていた。
頭の位置には銀の大樹が記され、そこから山脈を越えた真南、四方を川で囲まれた国に赤い印がつけられているところをみるとここがラインハルトなのだろう。
なぜ予測なのかというと、文字が読めなかったから。
基本アルファベットですらない文字の連なりに解読を一瞬で諦めざるを得なかったためだ。
その私にとって一部分たりとも見覚えの無い地図を広げたクロアは予想通り赤い印を指した。
「ここが我が国、ラインハルト王国です」
「ふむ」
「それで、ここから西が魔物の領土と化しています」
と言って、手の右側をラインハルトの左端ぎりぎりに添えてぱたんと倒した。
「・・・・・・それちょっと広くない?」