1話
昔の私はひどく夢見がちな少女だったと思う。
十にも届かぬ頃からうつくしいお姫様や勇敢な騎士の出てくる絵本を好み、十を過ぎてからは神話や戦記、異世界冒険譚などのいわゆる幻想小説に現を抜かした。
ベッドにかかるシーツは私のドレスだったし、ものさしは鋭利な刃となった。ぬいぐるみで埋もれた六畳半の部屋はいつでも煌びやかな王宮にもなったし、怪しげな魔法使いの洞窟にもなった。
ただ、それも遠い昔のこと。
今の私は囚われの姫君でも勇敢な女戦士でも神秘的な精霊でもない。
中小企業の販売営業担当OL以外の何者でもなく、最近の愛読書は『販売士検定試験練習問題集 1級』。
女26歳にもなっちゃ、現実だって垢のように染み付いちゃうってもんよねぇ?
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「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁつぅーーーいぃぃぃーーーーー・・・・・・・」
「星織先輩、そんな、無駄に暑さを強調しないでくださいよ・・・。より一層暑くなってきます」
舌を出す犬の勢いで暑さをうだうだ垂れ流す私に、後ろからついてきていた後輩の元宮が顰め面を見せる。
分かっちゃいるけど言いたいのが人情ってものなのよ。
朝のテレビで今年の梅雨は早々に終わり例年にない猛暑がやって来ると騒いでいたけど、そんなの今ここに来てみれば嫌でも分かると思う。
ギンギンと照りつける太陽光線をアスファルトが二倍に照り返すお昼時のオフィス街。
夏素材とはいえタイトスカートのスーツは熱を篭らせて体力をがんがん奪いとっていくように思えて恨めしい。
「だーって、暑いんだもん~」
心なしか猫背で歩きつつ、足早に横に並んできた元宮の顔を仰ぎ見た。
入社1年目の新人くんは流石にうっすら汗は滲んでいるものの、その顔は暑さで溶ける私のそれとは雲泥の差がある。
なんでこんなに平気かなー。つか、元宮っていくつだっけ?
私の4コ下ってことは22か。
・・・そりゃ若いわ。
「顔、溶けてますよ。折角美人なのに台無しです。百年の恋も覚めるってこのことですね」
「ゴラ」
元宮は仕事の飲み込みは早いし、頭の回転も悪くないんだけどどうにも一言多いのが玉に瑕。
営業先ではそんな風に口を滑らさないでよ・・・・?
「でも本当のところ、先輩人気あるんですよ。美人だし仕事もできるし。彼氏、いらっしゃらないんですか?」
「彼氏、ねぇ。今は仕事が恋人。それで充分なの。そもそもあんまり結婚願望がないもんだから無理に彼氏作る必要性を感じないのよね」
無邪気に聞かれると構えるのも馬鹿らしくて思うところを素直に答える。
実際私の周りには結婚していない友人が多いせいかその手の焦りというものを感じたことがないのだ。短大卒の子などはどうもそういうのが早いらしく焦っている子もいるが、なるときはなるようになると思うんだけどなぁ。
「マジすか?俺、立候補しようかな~」
「そんな台詞は一億年早いわよ。第一、年下は好みじゃないの。って、その前にあんた彼女いるでしょうが」
「あ、そうだった」
「そうだったって・・・・・・」
どっと疲れた。悪い子じゃないんだけど、最近の子ってどうもついていけないわ。
なんだか湿気を含んだ夏の暑さが百倍の重みを持って圧し掛かってきた気がして、額に手を当てた。
「大丈夫ですか?星織先輩、体力なさそうですもんねぇ」
「・・・悪かったわね」
誰のせいだと思ってんのよ。しかも心の底からしみじみ言われると日頃痛感していることでもカチンとくる。
「あ、いや、悪いとかじゃなくて、だって、体とかめちゃ細いじゃないですか。つかご飯食べてます?料理とかできなさそうですけど」
先輩様のご機嫌が若干斜めになったことに気づいたてフォローを入れたところまではいいが、かなりの微妙っぷり。だから、あんたはつくづく一言多いんだってば。
細いってのはいいけど、料理できなさそうってのはなんだよコラ。
あー、いかん、反論すんのもダルいわ。
また少し体力が目減りしたような感覚に、恨めしく元凶である太陽を仰ぎ見ようとして・・・・。
世界が回った。
照りつける太陽。
反射するビルのガラス窓、目を見開く元宮、車道の手摺アスファルトの汚れ元宮の靴先反転した看板揺れる街路樹真っ青な空空空空空空空空空空 大空を飛翔する竜の影
・・・・・・・・・・・・・竜????
そしてブラックアウト。
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まず最初に覚醒したのは触覚だった。
頬に触れる涼やかな風。
体に篭った熱はとうに引いていて、とても気持ちいい。
瞑ったままの眼の裏にも感じ取れる木漏れ日。
体の下に感じるのは土と草。
自然のものが放つ癒しの波動に近頃仕事で荒んでいた心が安らいでいくのが分かる。
感覚が戻ると同時に甦る記憶はマーブル模様で、思い出すだけで酔いそうになった。
・・・・そういえば私さっきものすごい眩暈がして・・・・倒れたんだな。
元宮が公園にでも運んでくれたのかしら。
なんか倒れる直前に変なもの見たような気がするんだけど・・・・とうとう脳みそ溶けたのかなぁ。
記憶を掠める「変なモノ」をちらりと思い出しながらも、回りの雰囲気にどこか違和感を覚えてゆっくりと目を開け、ついでに口もあんぐりと開けることとなった。
まず目に入ったのは一面の薄紫。
正体は透けるような薄紫色の葉を持つとてもとても大きな木のようだった。
寝そべった状態では幹はよく見えないが、頭上には白銀に輝く枝が揺れている。
それは木漏れ日を反射して樹肌をきらきらと輝かせていた。
どうやらこの木の下に寝かされていた、のか寝ていたか、していたらしい。
そう高くもないけど低くもない身長の私がその下に余裕ですっぽり入ってしまうということは直径はかなりになるだろう。
こんな木初めて見たなぁ・・・・・・。
とても、とても綺麗。
つい魂を奪われたかのように惚け、しかしその一瞬後にははっと我に返る。
ほ、惚けてる場合じゃない、私どんくらい寝てたのかしら。
そのさんざめく木の葉から漏れる光で判断するに、昼からそう時間は経ってないと思う。思うけど、先ほどの乱暴なまでの太陽光線と比べるとずいぶん和らいでいるような・・・??
日が翳ったのかしら、と思いながらゆっくりと体を起こした私は、周囲が視界に入った段階でがっつり固まった。
「・・・・・・・・はぁぁぁ・・・・・・???」
尻上がりの声が漏れる。
眼下に360度どこまでも広がる緑の大地、木の枝葉が切れた先からは旅行会社のパンフレットでしか見たことないような澄み切った青空。
どうやら私は広い草原の中心にある小高い丘の上に聳え立つ大樹の下に寝ているというシチュエーションにいるらしい。
いや、それはいいんだけど、いや、ほんとはよくないんだけど、あの、こんな広い公園、営業で回ってたエリアにあったっけ?
ていうか、東京にこんな場所あるわけないよね!?地平線の彼方までビルの影がひとっつも見えない場所なんて!!
「も、元宮!??」
慌てて後輩の姿を探すが、これだけ見晴らしがいいにも関わらず、ビルの影同様、人影もひとっつも見えはしなかった。
「置いていかれた・・・・??」
というより、元からいなかったというほうが正解のような気がする。
では何故先ほどまで隣を歩いていた後輩の姿かたちが見えず、果てしなく広大な野原に私は一人でいるの・・???
疑問だらけのこの状況の中、それよりもなによりも頭を占めていたのはなんというか、
「・・・・・・・今日の得意先周りどうしたらいいのよぅ・・・・・」
という一言に尽きたのであった。