超オオスカシバ
散歩の帰り。
庭の植木の花に、私は目を見張った。
カマキリがオオスカシバを鎌でがっしりと捕まえていて、オオスカシバは必死に逃げようとしていた。生きようともがいていた。
魂が迸るような、凄まじい羽ばたきだった。
でもカマキリの鎌は鋼のように硬かった。微動だにしない。
オオスカシバが力尽きて捕食されるのは時間の問題だった
私はずっとそれを見ていた。
「すごいなあ」とか「抵抗しない方が楽に死ねるんじゃないかなあ」とか「いたそうだなあ」とか脳の浅い所で考えながらじーっと見ていた。
オオスカシバは透き通った羽で力強く羽ばたいていた。全てを掛けて生きようとしていた。
カマキリがギロチンの鎌を引き絞っていく。私はそれを見ていた。見続けた。
また羽ばたく。羽ばたき続ける。弱々しくも力強い羽ばたき。
じっと見ていて気付いた。
きっとオオスカシバは、死を信じていない。
ましてや死が救済である可能性なんて、思いつきもしないだろう。
だからどんなに苦しくても生きようとする。
可能ならどんな手段を使ってでも……カマキリを殺してでも、私を殺してでも、きっと世界を滅ぼしてでも生きようとするだろう。
とにかく一分一秒でも長く生きようとするだろう。
すごいなと思った。
究極の生の肯定だなと思った。
やがて羽ばたきが断続的になる。
断続が弱々しく明滅していく。
カマキリの顔と触覚が鋭く動く
カマキリの顎が開く
オオスカシバは、死んだ。
ムシャムシャとおいしそうに食べられていった。
私は家に帰ってぼーっとしていた。
オオスカシバがすごかったとか、カマキリもすごかったとか思っていた。特にオオスカシバの事を思っていた。それとニーチェの永遠回帰を思い返したりもした。
どんなに苦痛に塗れた生でも、何もかもが空虚でも、そんな生が何度繰り返されても生きる。生きようとする。生を肯定して生き続ける。それがニーチェの理想だった。
その点、オオスカシバはニーチェの理想通りに生きていた気がする。
オオスカシバはきっと、何度カマキリに捕まっても、誰にも助けを請わず、自分だけの力で必死にもがいて生きようとするだろうから。
私は「すごいな」と思った。
「私もそんな風に生きてみたいな」と思った。
思ったけど。
……でも、「やっぱり難しそうだなあ」と思った。
だって私は人間で、他の動物より変に頭いいから「抵抗しない方が早く死ねて楽になれるかも」とか、余計な事考えちゃう。社会性も染みついてしまっているから「世界を滅亡させても生きたい」なんて思えないだろうし、もし世界を犠牲にして助かったとしても、絶対後悔する事になる。
そしてこういう道徳とか社会性とか経験則とか打算だとかは、私が人間である以上捨て去ることが出来ない。
それは人間である以上、仕方のないことだ。
人間は群れを作って生きている時が一番強いように出来ている動物なのだから、道徳とかに縛られて、社会性を保とうとする事は自然な事だ。
ニーチェは道徳とか信仰とかを「憎悪」だと批判していたけれど、あれはちょっと言い過ぎだと思う。
人間にとっての「力への意志」は、群れる事によって達成できるとも言えるだろうし。
とにかく、私はあのオオスカシバのようには生きられない。生きようとできない。
ニーチェが言う超人にはなれない。なれっこない。
ニーチェも多分駄目だったんだろう。……彼は発狂してしまったわけだし。
じゃあ、私はどう生きればいいんだろうか。
……難しいなあ。
人間は社会的な存在でもあり、個としての存在でもある。
だからとにかく難しい。
もっと色々と勉強してみよう。とか思っていたら、
「お姉、なんしとーと?」
ソファに妹がいた。
妹は白いホットレモネードを飲みながら、スマホをしていた。
私は妹が苦手だった。
私より可愛いし、スタイルもいいし、モテるし、なんか苦手だった。
「お姉、またぼーっとしとるやん」
妹に可愛く笑われたので私はムカついて「しとらんし」と言った。
でも、話してみたくなった。
さっき見たオオスカシバの事を、話して見たくなった。
だから話した。畳みかけるように話した。
オオスカシバが食べられるシーンまで話した時だった。妹は呆れ顔で、遮るように口をはさんで来た。
「助けてやりーよ」
口をひきつらせたまま何も返せない私に、妹は諭すように続けた。
「助けてやりーよ。オオスカシバ捕まってたんやろ?」
「うん」
「オオスカシバかわいいやん」
「うん」
「助けてやればよかったやん」
私は無性に哀しくなった「そんな事したらカマキリが餓死するかもしれんやん」とか言いそうになったけど、それも違う気がして口を噤んだ。
顔を強張らせて、音を立てずに息を吐いた。嫌な気持ちだった。
妹に「助けてやりーよ」とか言われたのがとにかく嫌だった。哀しかった。彼らの命を懸けた戦いに、人間が遊び半分に関与しようとする事自体が、私には思いもよらない事だった。それは冒涜な気がした。そう言う事が言いたかったのかもしれない。でも、上手く言葉に出来そうになかったので私は口を噤むしかなかった。
ふと、妹のカップからレモネードのいい匂いがした。
私はいいなと思って、気を取り直そうとホットレモネードを作った。
口を付けたら甘酸っぱくておいしかったけど、それでもまだ哀しかった。
何で哀しいのかはよく分からなかったけどとにかく哀しかった。
あと寂しかった。
哀しくて寂しくなりながらもホットレモネードを零さないように、自分の部屋へ階段を上がって行った。
「あのオオスカシバは、超オオスカシバだったんだよ」
私は妹に聴こえないようにそっと呟いた。