君は友達
アグライヤの恋が実ることは無い。その筈だった――――。
「婚約を破棄されたんだ」
友人ヴァルカヌスから放たれた思いがけない一言に、アグライヤは目を見開いた。彼の表情はいつも通り淡々としていて、まるで他人事のようにも見える。
「破棄されたって――――そんな、まさか。ウェヌス様側から破棄できるような話じゃ無いだろうに」
動揺を抑えつつ、アグライヤは小さく息を呑む。
ヴァルカヌスの婚約者であるウェヌスは国で一番の美少女とも言われている伯爵令嬢だ。人々の目を惹きつける華やかさと底抜けに明るい陽の気質を持つ。そのあまりの美しさに国中の男性が彼女の虜とも言われているのだが、不思議なことに女性にも崇拝者が多く、近い将来社交界を牛耳るものと見られている。
対するヴァルカヌスは彼女に負けず劣らず端正な顔立ちをしているものの、多くを語らないどこか影のあるタイプだ。決して釣り合っていないわけではないが、水と油のように相容れない印象を受ける。
そんなウェヌスがヴァルカヌスの婚約者になったのは、伯爵家がヴァルカヌスの家に多額の資金援助を受けているからだ。伯爵家が事業を行うためにはヴァルカヌスの両親の手助けが必須であり、家格的にも格下であるウェヌス側が婚約を破棄できる道理はない。
「いや――――彼女は王太子妃になるそうだ。そんな風に言われたら、こちらは引くしかないだろう?」
そう言ってヴァルカヌスは肩を竦めた。アグライヤは数度目を瞬かせつつ同席していた弟と目配せをする。
(王太子妃か……)
心の中で呟きながら、アグライヤは眉間に皺を寄せた。
王太子アレス――――アグライヤ達の二つ年上で、銀色の長髪に碧い瞳が特徴的な、類まれなる美貌の持ち主だ。好戦的な性格で大層な自信家。その気位の高さからか、はたまた別の理由が存在するのか、御年十九歳の今日に至るまで婚約者が存在しない。
「なるほど……アレス殿下が絡んでいるなら納得だ。あの方の気性の荒さは貴族ならば皆が知っている。断るのは難しいだろう」
「――――その通りだ。元々ウェヌス自身は俺との婚約に乗り気じゃなかったし、嬉々として婚約破棄を突きつけてきたよ。
その代わりに、これまで我が家が伯爵家に行ってきた金銭援助については、王家が肩代わりをすると言っている。父上も納得し難いだろうが、致し方ないのかもしれない」
ヴァルカヌスはそっと目を伏せ手元のティーカップを眺めていた。
(父上も、か)
ショックなのだろう――――そう思うと、アグライヤの胸が人知れずズキンと痛んだ。
「そうか。……残念だったな。長く婚約者として共に時を過ごしてきたのに」
アグライヤの問い掛けにヴァルカヌスは返事をしない。無言は肯定を意味するのだろう。アグライヤは微かに微笑みを浮かべつつ、ヴァルカヌスのことを見上げた。
「だけど、ウェヌス様はあの性格だ。正式に婚約破棄が成立するまで時間が掛かるし、それまでの間に事態がひっくり返るかもしれない。だから……そう気を落とすな。ヴァルカヌスの元気がないと、こちらの調子が狂う」
ウェヌスは良く言えば『天真爛漫で好奇心旺盛』、悪く言えば『移り気で不安定な性格』をしていた。王太子妃になることは貴族の令嬢として最高の栄誉だが、その分大きな責任や義務を伴う。土壇場になってウェヌスがアレスとの婚約を厭う可能性も高いことから、その隙をうまく突けば、復縁の可能性もあるとアグライヤは考えていた。
「いや……俺は至って元気だ」
そう言ってヴァルカヌスは穏やかに目を細める。その笑顔はいじらしく痛々しく見えた。苦笑しつつもアグライヤはそっと目を伏せる。
「それなら良いが、何かあったらいつでもわたしを頼ってくれ。……大事な友達だからな」
言葉とは裏腹に、アグライヤの胸がズキズキと痛んだ。
***
アグライヤとヴァルカヌスの付き合いは長い。それぞれの弟と妹が婚約を結んだ時――――今から八年ほど前に始まった。両親の仲が良く度々引き合わされたこと、共に穏やかで物静かな性格をしていたことから良き友人、ライバルとして過ごしてきた。
アグライヤは両親から『おまえが男に生まれていたら』と切望されるほど優秀な女性で、勉学や乗馬、剣術等はもちろんのこと、令嬢に求められる作法や嗜みなども卒なくこなす。女性的な話口調ではないものの、穏やかで落ち着いた声音で話すためか、それがかえって上品に感じられる。典雅でたおやかな美しさ――――奔放かつ華美な印象のウェヌスとは真逆のタイプだった。
「良かったね、姉さん」
こちらをチラリとも見ぬまま、弟が言う。何が、とかどうして、といった補足はない。アグライヤは小さく笑いながら首を横に振った。
「ヴァルカヌスが苦しんでいるのだ――――良いことなど何もない。それに、あいつにとって、わたしはただの友人だ」
けれど、ヴァルカヌスにとってはただの友人であっても、アグライヤにとっては違う。
アグライヤはずっと、ヴァルカヌスのことが好きだった。どうして、とかいつからとか、そういうことも分からない程に、気づけば好きになっていた。
しかし、そうと気づいた時には既にヴァルカヌスにはウェヌスという婚約者がいた。想いを押し殺して側に居ることは苦しいが、彼に会えなくなることの方がもっと苦しい。
そうして友人関係を続けて数年――――彼の婚約がまさかこんな形で終わりを迎えようとは想像もしていなかったのである。
「だけど姉さん、貴族にとって結婚は義務だ。ヴァルカヌスもいずれ、誰かと結婚をしなければならないのだし……」
「あいつにとってわたしは女ではない。今後結婚相手を探すとして、わたしの名前が上がることは無いだろう」
言いながら、アグライヤは小さくため息を吐く。
親兄弟よりも近しく、それ故に誰よりも遠い。だからこそ、今さら男女の関係にはなれないだろうとアグライヤは考える。
(わたしはあいつの友達)
何者にも断ち切れない絆が自分達には存在する。たとえ二人きりで会うことは無くとも、触れ合うことはできずとも、ヴァルカヌスの心の中にアグライヤの居場所があれば良いと、ずっと自分に言い聞かせてきた。それは、これから先もずっと変わらない。
「そう思うなら、姉さんもさっさと婚約したらどうですか? 山ほど来ている縁談を全て断るなんて勿体ない。叶わない恋だと分かっているなら、いい加減腹を括るべきだ」
「――――――そうだな。お前の言う通りだ」
そう言ってアグライヤは悲し気に笑う。
(分かっているんだ、本当は)
己の愚かさを笑いながら、アグライヤは踵を返した。
***
それは、ヴァルカヌスがウェヌスから婚約破棄を言い渡された数日後のことだった。
「ヴァルカヌス様! それにアグライヤ様も! 奇遇ですわね」
学園の片隅――――いつもアグライヤ達が休み時間を過ごすテラスに、ウェヌスがやって来た。実際は二人きりではないのだが、ウェヌスの目にはそれ以外の人間の姿は映っていないらしい。彼女は満面の笑みを浮かべつつ、滑り込むようにして空いている席に腰掛ける。
「ウェヌス、用件を――――何か話したいことがあるんだろう?」
ヴァルカヌスが端的にそう尋ねる。
彼女は何かしら自慢したいことがある時だけヴァルカヌスの元へとやってくる。いつもと全く変わらないウェヌスの様子に、アグライヤは小さく目を見張った。
「ふふっ……分かる?
実は今度、殿下との婚約をお披露目する式があるから、これからその打ち合わせなの。ドレスや宝石も最高のものを選ばなければならないし、覚えることも沢山あってすっごく大変!
……だけど、王太子妃になるのだもの。そのぐらい我慢しなくちゃいけないのかしら? アグライヤ様……どう思われます?」
そう言ってウェヌスはウキウキと声を弾ませる。
ウェヌスがアレス殿下に乗り換えたことは、既に国中の貴族たちが知るところだ。彼女もそれを前提としてアグライヤに話を振っている。アグライヤは一呼吸おいてから、ウェヌスのことをそっと見上げた。
「そうですね――――わたしは同じ女として、大変羨ましく思います」
「まぁ……! そう……そうよね! アグライヤ様にそんな風に言っていただけるなら、頑張り甲斐もありますわ」
期待通りの返答が得られたため、ウェヌスはとても嬉しそうだ。けれど、アグライヤは胸が痞えるような心地を味わっていた。
(そんな話、どうして元婚約者であるヴァルカヌスの前でするんだ)
この場を早く納めるため、アグライヤはウェヌスの望む反応を返した。けれど、本当ならば「ふざけるな」と一言物申してやりたいと思う。
(別にわたしに対して自慢話をするのは構わない。痛くもかゆくもないからな)
けれど、ヴァルカヌスに対しては別だ。不用意に傷つけるようなことをしてほしくはない。
しかし、そんなアグライヤの願いとは裏腹に、ウェヌスはとんでもないことを口にした。
「お披露目の際には、二人揃っていらっしゃってね? わたくしの晴れの舞台を是非お二人にも見ていただきたいの」
(…………は?)
アグライヤは思わず眉間に皺を寄せ、ウェヌスのことを凝視する。けれど、彼女は全く悪びれることなく朗らかな笑みを浮かべていた。
(ヴァルカヌス……)
あまりにも気の毒過ぎて、アグライヤにはヴァルカヌスを見ることが出来ない。そんなアグライヤの手を、ウェヌスがそっと握った。
「楽しみですわ。アレス殿下は本当に美しい方だし、わたくしと並んだらとっても見栄えがすると思いますの」
「……そうですね。わたしもお二人はとてもお似合いだと思います」
アレスとウェヌスは、紛うことなき美男美女だ。それは誰の目にも明らかな事実で、いちいち否定する理由はない。けれど、受け取りようによっては、元婚約者であるヴァルカヌスと比較されているようにも聞こえてくる。平常心を保つため、アグライヤは大きく深呼吸をした。
「ねぇ、アグライヤ様……アグライヤ様には未だ婚約者がいらっしゃいませんし、いっそのことヴァルカヌスと結婚するのは如何でしょう? わたくし、二人はとってもお似合いだと思いますの」
その瞬間、アグライヤは大きく目を見開いた。ウェヌスのこともヴァルカヌスのことも直視することが出来ない。
(本当に何を言っているんだ?)
恐らくウェヌスには本当に悪気が無いのだと分かっている。彼女はただ、人の心が分からないだけなのだ。皆が彼女を崇拝しているし、誰かに傷つけられたことも、上手くいかずにヤキモキした経験も殆どないのだろう。ウェヌスの場合はその美貌だけで、大抵のことが片付いてしまう。自分の都合の良いように人々を操作できるからだ。
「わたくしとヴァルカヌスは何というか……あまり馬が合いませんでしたし。破談になって良かったと思っていますの。
だってヴァルカヌスは、わたくしのことをちっとも褒めて下さらないんですもの! 他の方はいつだってわたくしを大切にしてくださいましたのに、あんまりですわ。
それにヴァルカヌスったら折角綺麗な顔をしてますのにいつも仏頂面と申しますか……気難しい表情をしているから、こちらが疲れてしまうんですの。
ほら……お二人は昔からとっても仲が良かったでしょう?
まぁ、彼はわたくしのおさがりではございますけれども――――」
その瞬間、アグライヤは怒りで血液が沸騰するかのような心地を覚えた。ウェヌスはアグライヤの異変に気づくことなく、クスクスと楽しそうに笑っている。
「では、そう致しましょう」
「……え?」
アグライヤはスッと立ち上がると、驚くヴァルカヌスの手を握る。
「わたしがウェヌス様に代わり、ヴァルカヌスと婚約させていただきます。ウェヌス様……本当に、宜しいのですね?」
「えっ……? ええ、もちろん」
ウェヌスはあまりのアグライヤの剣幕に驚きつつ、おずおずと頷くのだった。
***
「すまなかった!」
アグライヤは勢いよく頭を下げつつ、そう口にした。この場にいるのはアグライヤとヴァルカヌスの二人きり。話がしたいからと、他のメンバーには先に講義へと戻ってもらうことにしたのだ。
「アグライヤが謝る必要はないだろう」
そう口にしつつ、ヴァルカヌスは眉間に皺を寄せる。
「いや……全てわたしが悪いんだ。ウェヌス様は元々ああいう方なのに、つい頭に血が上ってしまった。勢いであんなことを口にして、本当に悪かったと思っている」
あの後ウェヌスは「そうと決まったら、早く皆に知らせないと」と言って、足早にその場を後にしてしまった。追いかけようとしたものの、ヴァルカヌス達に引き止められ、それっきりになってしまっている。
(そもそも婚約は家同士の話であって、当人同士の気持ちでどうにかなるようなものではない。というか今回は、わたしが勝手に婚約を宣言してしまっただけなのだし)
しかし、顔の広いウェヌスのこと。このままでは明日にも噂が広まってしまう。アグライヤは泣きたい気分でヴァルカヌスを見上げた。
「とにかく、噂が広まらないようすぐに根回しをしよう。今すぐウェヌス様の所に行けば――――」
「いや……俺はこのままで良いと思う」
その瞬間、アグライヤは驚きに目を見張った。ヴァルカヌスはいつものように、真顔で彼女のことを見つめている。何を考えているかよく分からない、淡々とした表情だ。
「――――嘘の噂が広がっても構わないというのか? だが、婚約を破棄されたばかりだというのにそんな噂を流されては……しばらく次の結婚相手が見つからないぞ?」
「嘘じゃなくて事実にすれば良いんだろう?」
そう言ってヴァルカヌスはアグライヤの手を取った。太陽のように温かな手のひらがアグライヤを優しく包み込む。十年近く一緒に居て、初めて触れた互いの温もり。
「アグライヤ、俺と結婚しよう」
その瞬間、アグライヤは小さく息を呑んだ。
***
そこから先は、目まぐるしい勢いで色んなことが動いた。
両親は突然のことに驚きつつも、二人の婚約を快諾してくれた。実際の婚約までには少し時間が掛かるものの、両家は内々に約束を取り交わす。
アグライヤの予想通り、二人の関係は翌日には学園や貴族達の噂になっていた。こうなっては、もう引き返すことはできない。噂を事実と認め、互いに婚約者として振る舞った。
「どんな縁談にも頷かなかったアグライヤ様が……」
周りからそんな風に言われるたび、アグライヤは恥ずかしくて堪らなくなる。『不可抗力だったのだ』と言い訳して回りたくなった。
ヴァルカヌスとの婚約に一番驚き、戸惑っているのは他でもない――――アグライヤ自身だ。
(どんなに好きでも、ヴァルカヌスとの恋が実ることは無い……そう思っていた)
それどころか、一生想いを打ち明ける気すらなかった。あまりにも急転直下の恋模様に、心も身体も追い付いていない。
(いや……厳密に言えば、恋が実ったわけではないのだが)
ヴァルカヌスは恐らく、ウェヌスへの当てつけでアグライヤとの結婚を決めたのだろう。たまたまアグライヤが側に居たから――――アグライヤがそう口走ったから――――決してアグライヤを想っているからではない。
(わたしもあいつも、いずれは結婚しなければならないし、単に都合が良かっただけ)
そうと分かっているから、ずっと好きだった人との結婚だというのに、素直に喜ぶことが出来ずにいる。
(わたしはあいつの友達)
夫婦になっても、きっとヴァルカヌスの気持ちは変わらない。けれどアグライヤの方は結婚後も、これまで通りに彼と接することができるのだろうか?
(多分無理だ)
それでも、もうどうすることもできやしない。ズキズキと痛む胸を押さえ、アグライヤは深いため息を吐いた。
***
煌びやかな広間に、多くの貴族が集まっている。
(まさか本当に来ることになるとはな)
ヴァルカヌスの手を取り、アグライヤは小さくため息を吐く。
今夜この場所で、アレスとウェヌスの婚約が発表されることになっている。ウェヌスの誘いを断りきることが出来ず、ヴァルカヌスと共に登城することになったのだ。
「本当に良いのか? わたしだけで来ても良かったんだぞ?」
そう口にしてアグライヤは小さく首を傾げる。
ヴァルカヌスは元々、夜会や社交が好きなタイプではない。当然必要な時に必要な対応はできるのだが、幾ら招待を受けたからとはいえ、今夜の夜会を欠席したところで彼を責められる人間が何処に居よう。ヴァルカヌスが悲しむ顔を見たくは無いし、アグライヤは彼抜きで出席する覚悟をしていたのだ。
「いや、良い。――――俺の婚約者に変な虫がついたら困るからな」
そう言ってヴァルカヌスは、アグライヤのことをエスコートする。アグライヤの胸が大きく高鳴った。
「――――らしくないセリフだな。……いや、わたしが知らないだけで、ウェヌス様にはいつもこんな感じだったのか?」
動揺を誤魔化すために、アグライヤはそう言って笑って見せる。
(広間が薄暗くて助かった)
そうでなければ、頬が真っ赤だとバレてしまっていただろう。ホッと胸を撫で下ろしつつ、アグライヤはヴァルカヌスのことを覗き見る。
ヴァルカヌスは綺麗に髪を撫でつけ、漆黒の紳士服に身を包んでいた。元々大人っぽい雰囲気のヴァルカヌスだが、今夜の彼は更に洗練され、冴えた月のような印象を周囲に与える。深いすみれ色のクラバットは、アグライヤのドレスの色に合わせたものだ。彼の瞳の色にもよく似合っている。
(思えば一緒に夜会に来るのは初めてだ)
婚約者が居たのだから当然のことだが、何だか新鮮な気分だ。アグライヤはこっそり深呼吸を繰り返しつつ、平常心を装った。
「綺麗だな」
「……? 何がだ?」
「そんなの、アグライヤのことに決まっているだろう」
そう言ってヴァルカヌスは仄かに目を細める。アグライヤは目を見開きつつ、思わず顔を背けた。
(いや、決まっていない。決まっていないぞ、ヴァルカヌス)
これまでならば普通に言えたであろうそんな言葉を、アグライヤは素直に吐き出せずにいる。
そもそも、『綺麗』だなんて言葉をヴァルカヌスから言われたことがなかった。夜会仕様――――はたまた婚約者向けのリップサービスなのかもしれないが、少なくともアグライヤには耐性がない。
(心臓が馬鹿みたいに痛い)
ヴァルカヌスがアグライヤのことを『友達』としか思っていないのだと分かっているが、それでも胸が期待に躍る。友情が愛情に変わる日が来るかもしれないと思ってしまう。
その時だった。
「ヴァルカヌス様……!」
喧騒を掻き分ける様にして、鈴を転がすようなか細い声が聞こえてくる。二人が振り返ると、ベールを目深にかぶり、瞳を真っ赤に染めた今夜の主役――――ウェヌスがそこに佇んでいた。
「ウェヌス様?」
彼女が人目を忍んでいるのは見ればわかる。小声でそう問い掛けると、ウェヌスは瞳を潤ませつつ、ヴァルカヌスの胸へと飛び込んだ。
「わたくし、アレス様との婚約を取りやめたい! ヴァルカヌス様の元に戻りたいのです」
今にも消え入りそうなか細い声だったが、それはアグライヤの耳にやけにハッキリと届いた。胸がドクンドクンと大きく脈打ち、口いっぱいに苦みが広がる。
「アグライヤ……あちらで少しウェヌスと話をしてくる」
「ああ……分かった」
言いながら、心が張り裂けそうな心地を覚える。本当は行かないで、と引き止めたくて堪らない。
(だけど、ただの友達であるわたしにそんなことを言う資格は無い)
「頑張って来い」とそう言って、アグライヤはそっと踵を返した。
***
(冷えるな)
バルコニーで風に当たりながら、アグライヤは一人苦笑した。のぼせ上がった頭を冷やすにはピッタリな夜だ。星が煌めき月明かりがアグライヤを優しく包み込む。
(落ち込むな……最初からこうなるかもしれないと思っていただろう?)
移り気なウェヌスのことだ。唐突にヴァルカヌスが恋しくなったのかもしれない。既に十年近くの婚約期間があるのだし、復縁が叶えば二度と覆ることは無いだろう。
(とはいえ、今夜のこの場をどうするつもりだ?)
今夜の婚約発表のために遠方の領地や外国から、多くの人が訪れている。ヴァルカヌスの両親の説得だって一筋縄ではいかないだろう。それら全てに折り合いをつける方法を、アグライヤには見つけらない。
(せめてそっち方面でヴァルカヌスを苦しめるのは止めて欲しいな)
婚約破棄について、ヴァルカヌスには何の落ち度もない。矢面に立つのはウェヌス自身であってほしいとアグライヤは切に願う。
「――――見つけた。そこに居たのか」
その時、背後からそんな声が聞こえた。けれどそれは、聞き慣れたヴァルカヌスの声ではない。
ゆっくりと振り返れば、そこには世にも美しい銀髪の貴公子が立っていた。
「アレス殿下……?」
間近で顔を合わせるのはこれが初めてだが、星色に輝く長髪に、碧い瞳、中性的な美しい顔立ちは間違いない。アレス殿下その人だろうと察しが付く。
「その通りだ。君がアグライヤだな」
そう言ってアレスはアグライヤの側へと歩み寄る。アグライヤはハッと居住まいを正し、優雅な所作で頭を垂れた。
「失礼を致しました。殿下の仰る通り、わたしがアグライヤと申します」
アグライヤのすぐ側まで来ると、アレスはピタリと立ち止まった。ビリビリと背筋が震えるような沈黙がバルコニーに流れる。アグライヤは頭を下げたまま、アレスの次の言葉を待ち続けた。
「ようやく君に直接会えた。君が――――私の求婚を断り続けた理由を教えてもらおうか」
その瞬間、アグライヤは小さく目を見開く。
「それは…………」
「さすがに『何も知らない』ということはあるまい。部下からは『王太子妃の器ではないから』と固辞されたと聞き及んでいる」
「――――――はい。わたしから付け加えるべきことは何もございません」
アレスはアグライヤの顎を掴み、半ば強引に顔を上げさせる。冷ややかだが燃えるような瞳がアグライヤを貫くように見つめた。
「私にはとても、そのようには見えない」
そう言ってアレスはアグライヤを己の方へ引寄せる。小さく首を横に振りつつ、アグライヤはゴクリと息を呑んだ。
「君が中々首を縦に振らないせいで、ウェヌスに白羽の矢が立った。あれ程美しい令嬢、そうは居ない。美貌だけで国民からの人気を集められるからな。
だが、共に過ごすうちにわかった。あの娘に妃としての適性は殆どない。このままでは政に支障をきたす――――そう伝えたら、ウェヌスは泣きながら逃げ出したよ。彼女の元婚約者――――君が婚約をしようとしている男の元にね」
その瞬間、アグライヤの胸がズキズキと激しく痛み始めた。アレスは不敵な笑みを浮かべつつアグライヤに向かってそっと片手を差し出す。
「あの娘には無理でも、君にはその資質がある。私の妃になって欲しい」
「ですが――――――わたしは……」
どうしたいのだろう――――そんなことを考える。
ウェヌスに泣きつかれた以上、ヴァルカヌスがアグライヤと結婚することは無いだろう。元婚約者と友達ならば元婚約者の方を優先させるに違いない。アグライヤたちの間にあるのはあくまで友情であって、愛情ではないからだ。
(わたしもいずれは誰かと結婚しなければならない)
それならば――――とアレスの手を取りかけたその時、「お待ちください!」と馴染み深い声が響いた。
「……え?」
振り返ると、そこにはヴァルカヌスと顔面蒼白のウェヌスが居る。ヴァルカヌスは眉間に皺を寄せ、つかつかとこちらに歩み寄った。
「アグライヤは俺の婚約者です。口説くのは止めていただきたい」
そう言ってヴァルカヌスはアグライヤを自分の元へ抱き寄せる。普段とは違い、どこか余裕のない声音。アグライヤは瞳を震わせつつ、ヴァルカヌスとアレスを交互に見遣った。
「正式な婚約は未だだろう? それに、君にはウェヌスがいるじゃないか」
言いながらアレスは眉間に皺を寄せる。アグライヤの心も小さく軋んだ。
「確かに正式な婚約は未だです。
けれど、俺が結婚したいのはウェヌスじゃない。アグライヤだけだ」
その瞬間、アグライヤは大きく目を見開いた。
(ヴァルカヌスがわたしと結婚したい……?)
彼がどうしてそう思うのかは分からない。けれど、ヴァルカヌスはアグライヤの元に帰って来てくれた。ウェヌスではなくアグライヤを選んでくれた。そのことがあまりにも有難く嬉しい。
「嘘でしょう……? わたくしはアグライヤ様の代わりでしたの」
その時、ウェヌスの声がアグライヤの耳に届いた。彼女は顔を真っ赤に染め、こちらに向かって歩いてくる。
(まずい)
そう思ったものの、ウェヌスはアグライヤ達を通り過ぎ、真っ直ぐにアレスの元へと向かっていく。
「このわたくしがアグライヤ様に劣ると――――殿下はそうお考えなのですか?」
言いながらウェヌスはアレスを睨みつける。アレスは平然とした表情で、ウェヌスのことを見下ろしていた。
「ああ、劣る。今のままでは、君にこの国の妃は務まらないだろう」
「そんなことはございませんわ!」
そう言ってウェヌスは凛と居住まいを正した。先程ヴァルカヌスの元へ来た時とは全く面構えが違う。そんな彼女のことを、アレスは満足そうに見下ろした。
「――――ならば言葉ではなく行動で示せ。もう二度と、私の前で泣き言を申すな」
「当然ですわ」
アレスとウェヌスはそんなやり取りをして、バルコニーから消えていく。後に残されたヴァルカヌスとアグライヤは、静かに顔を見合わせた。
***
その後、当初の予定通りにアレスとウェヌスの婚約が発表された。神話の中から抜け出したような美しい二人に、集まった貴族達から感嘆の声が上がる。人の心が分からず何処か危なっかしい印象だったウェヌスも、今回のことで心を入れ替えたのだろう。本当に凛と誇り高い様子で佇んでいた。
(良かった……んだよな?)
二人の姿を見つめつつ、アグライヤはヴァルカヌスを覗き見る。いつの間にか二人の手のひらは固く繋がれていた。
(これは、友達としての行動なのだろうか。それとも……)
考えれば考えるほど、アグライヤは深みにはまっていく。尋ねたくて、けれど尋ねるのが怖い。
「そろそろ出ようか」
そんな彼女をヴァルカヌスは会場の外へと連れ出した。
月の明るい夜だった。二人で庭園を歩き始めて早十五分。互いに何も切り出せずにいる。
(ヴァルカヌスはわたしの友達)
そのままで居たいような、けれど先へと進みたいような、何とも言えないもどかしさが二人を襲う。
「「――――さっきのことなんだけど……」」
意を決して口を開いてみれば、ヴァルカヌスの方も同じだったようで、二人の言葉は絶妙に被ってしまった。しばしの沈黙。再び押し黙ったアグライヤを見つめながら、ヴァルカヌスが徐に口を開いた。
「さっきのこと……アグライヤは本当は殿下の手を取りたいと思っていたのか?」
躊躇いがちにそう尋ねたヴァルカヌスに、アグライヤは目を見開く。
「違う。そんなこと思っていない」
言いながらアグライヤは首を横に振る。
(伝えなければ)
本当の想いは口にしなければ伝わらない。バクバクと鳴り響く心臓をそのままに、アグライヤはゴクリと唾を呑み込んだ。
「わたしもいつかは結婚しなければならない。ヴァルカヌスがウェヌス様と結婚したいと思っているなら、この場を収めるにも丁度いいかもしれないとは思った。だけどわたしは、殿下と結婚したいと思ったことは無い。
わたしは……」
そこまで一思いに口にして、アグライヤは再び口を噤む。伝えたい想いは確かに胸にあるのに、上手く言葉になってくれないのだ。
ヴァルカヌスは大きく息を吸い込むと、アグライヤの両手をそっと握った。
「アグライヤには悪いが……俺はおまえのことを『友達』だなんて思えなかった」
ヴァルカヌスが真剣な表情でアグライヤを見つめる。
(一度口にしてしまったら、もう二度と戻れはしない)
二人は急くように、寧ろ惜しむように、しばしの間見つめ合っていた。やがてヴァルカヌスが意を決したように徐に口を開く。アグライヤは大きく深呼吸をした。
「俺はずっと――――ずっと前からアグライヤのことが好きだった。おまえは俺の特別だったから」
ヴァルカヌスの言葉が真っ直ぐアグライヤの胸に突き刺さる。心が大きく震え、目頭がグッと熱くなった。
「――――――本当に?」
俄かには信じがたく、アグライヤは震える声でそう尋ねる。それだけで彼女が自分と同じ想いなのだとヴァルカヌスには分かった。アグライヤを胸に抱き締めつつ、何度も大きく頷いてみせる。
「婚約は家同士の約束だ。ウェヌスから婚約を破棄されるまでは諦めようと――――気持ちを封印しようと思っていた。
だけど、ウェヌスから婚約が破棄されて……俺はアグライヤに結婚を申し込もうと決心した。たとえ君が俺のことを友達としてしか思っていなくても、時間を掛けて愛情を伝えて行こうと思っていた。
とはいえ、さすがに婚約を破棄されてすぐに結婚を申し込むのは不誠実だろう。そう思って我慢していたんだが」
ヴァルカヌスの言葉に、アグライヤはあの日ウェヌスと交わしたやり取りを思い出す。
『わたしがウェヌス様に代わり、ヴァルカヌスと婚約させていただきます』
勢いあまって口走ったセリフだが、ヴァルカヌスはあの時『チャンスだ』とそう思ったのだという。
「本当は何よりも一番に気持ちを伝えるべきだったのだろう。だけど……俺は怖かったんだ。もしもアグライヤに受け入れられなかったら……そう思うと、気持ちを告白することなんてできなかった。
だけど、どうか信じて欲しい。俺は本当にアグライヤのことが好きなんだ」
ささくれ立っていたアグライヤの心がみるみるうちに癒されていく。小さく首を横に振りつつ、アグライヤはそっと目を伏せた。
「いや……わたしもお前と同じだ。怖かったんだ。本当の気持ちを伝えて、ヴァルカヌスが離れていくことが怖かった」
友情ではない何かが互いの中に存在している――――そのことからずっと目を逸らしていた。後で傷つくことを恐れ、踏み込めなかった。
(ヴァルカヌスはわたしの友達ではない)
アグライヤは心の中で噛みしめるように言葉にする。一抹の寂しさと大きな幸福感が彼女の胸を包み込む。
「アグライヤ――――君のことが好きなんだ。どうか、俺と結婚してほしい」
ヴァルカヌスは懇願するように口にして、アグライヤの顔を覗き込む。アグライヤは目を細めつつ「喜んで」と言って笑うのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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改めまして、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。