絶対に真似しないで下さい(とあるバーでの一幕)
とあるバー。
ここには、一ヶ月に一度、マスターに眠らせてもらうため訪れる人間がいる。
「お酒にも煙草にも薬にも逃げられない人間は、どうやって不安から逃れればいいんだ……」
「またそれか……」
マスターの友人で、月の中頃、目の下に隈をこさえてやって来る。
「またそれか、じゃないよ! 本当にしんどいんだよ。思考はほっといたら反すうするし、嫌な記憶のフラッシュバックは止まないし、嫌な予想ばっかりして疲れるし、『そんなこと考えなきゃいいんだよ』なんて、こっちだってそんな考えが湧かなきゃしてねーわバーカバーカバーカ!!」
「ていっ」
「う゛っ」
彼がある程度ギャンギャンわめくと、頃合いを見計らって、マスターは彼の背後を取り、手刀を一発。
彼は、鮮やかに落ちる。
「……いつ見ても、うるさいから黙らせてる図にしか見えないわね」
常連のオネエさんが、しみじみと言った。
いつもこの様子を見守っていて、落ちた彼に優しく毛布をかけるのもこのオネエさんだった。
「まあ、あながち間違っちゃいないけど」
マスターは肩を竦めると、カウンターの中に戻る。
「それにしても、マスターの手刀、本当に毎度鮮やかに決まるわね。いつも一瞬で寝ちゃうじゃない」
「寝るって言うか、気絶だけど。絶対真似すんなよ。たまたま出来てるだけで、普通はこんなの上手くいかないんだから」
マスターは幼いころから趣味であらゆる武道を修めているが、それでも毎回この瞬間は緊張が走る。正直、やりたくない。
「そもそも出来ないっつの。……それでも、寝かせてるようなもんでしょ?」
「まあね」
マスターは、友人の疲れ切った顔を見た。
「不眠は辛いよな」
「お家のあれで、お薬は禁止なんだっけ?」
「心療内科も禁止。……家業なんか、継がなきゃ良かったのにな」
そうしたら、そんな決まり事から離れて彼は、今ごろ少しは健康だったかも知れない。
「でも、お店は好きなんでしょ?」
「厄介だよなぁ」
カウンターでいつものように伸びている彼は、今、どんな夢を見ているのか。
「ちょっとはいい夢見れてるといいんだけど」
そして、少しでも心が楽な方へ自ら進んでくれたら。
マスターの願いは、今日も夜の空気にそっと消える。
END.
昔、不眠気味だったときに「もういっそ誰か気絶させてくれ」とよく思っていたので。
ありえないとわかりつつ、こんなことを考えていたなと