人身共食10
周囲に漂うお香の香り。その中で心を無にし深く、深く落ちていく。心を無に思考を空にして魂を極限まで無色へと変える。そうしていくと身体に異物が入る気配を感じる。だがまだだ。そのまま身体を明け渡すように更に自分という存在を消していく。
そうして何かが見えてきた。
とある村に幸子という女がいた。それは美しい女だった。両親は既に他界、祖母との二人暮らしである。よく働き、よく祖母の世話をしていた。まだ若い幸子は一生懸命に働いた。そんな美しい彼女が地主の男に見初められるのは時間の問題だった。
「幸子、愛している」
「英夫さん……」
二人は愛し合った。働いていた時間も減り、祖母の世話の時間も減っていく。既に高齢で働くことのできない祖母は生活が家計の心配をしながらも、孫が幸せならそれでいいと思っていた。家に帰る度に幸せそうに話す孫を見るのが好きだった。
いつか二人は一緒になるのだろう。その頃にはおそらく自分はもういない。心配だった自分の死後、一人残される孫をどうしようかと悩んでいたがどうやら杞憂に終わったようだと安堵していた。
そんな幸せも長くなかった。
「いやあああああああああ!!!!」
幸子の悲鳴が響く。村のはずれ、英夫から呼びだれた幸子は見知らぬ女に襲われた。顔を石で殴られ、火であぶられた。顔の半分が打撲と火傷によって美しい顔は誰もが目を背ける醜いものへと変貌する。
襲った女は多恵といい、英夫の許嫁であった女だ。最近の英夫の様子がおかしいと思い様子を探り幸子へたどり着いた。元々執着深い多恵は怒り狂った。自分を差し置いて英夫と関係をもった幸子を犯罪者と罵り殴り、その顔を焼いたのだ。そして多恵が呼んだ複数の男たちに乱暴されそのまま幸子はその場に放置された。
その後、周囲を怯えたように見回しながら帰った幸子を見て祖母は仰天しすぐ医者を呼んだ。
その後村に住む駐在所で勤務している警察官が祖母に呼ばれ事情聴取をしたが、警察官は頭をかきながらこう答えた。
「犬にやられたようですな。目撃者がおるんですわ」
「は……い、犬ですか?」
「ええ。野犬に襲われていた幸子さんを目撃した人がおるんです。ほらこの辺野犬が多いもんでな」
「なら火傷は!? 犬は火を使わないじゃろうが!!」
「現場からは火の不始末があったと聞いとります。犬に襲われ転んだ時に顔を焼いてしまったのでしょう」
そうして警察官は帰っていった。呆然とした祖母はすぐに気が付いた。地主の息子であるあの許嫁である多恵の仕業だと。何か都合の良い話を地主に吹き込んだのだろう。実際許嫁がいるなんて幸子は知らなかった。だが事実として約束の相手がいるにも関わらず関係を持ってしまっているのだ。小さな村で地主に目を付けられれば生活なんて出来ない。いくらこちらが訴えても誰も聞いてはくれない。
泣き寝入りするしか……ない。
分かってはいる。分かってはいるのだ。
それでもあふれ出る感情を祖母は抑えきれなかった。
「おのれ」
「おのれ」
「儂の可愛いい孫娘を……こんな目に合わせおって……」
そうしてすべてが狂っていった。
まず畑にゴミを入れられるようになった。村を歩けば白い目で見られ、陰口は日常となった。半年も過ぎると畑への嫌がらせも加速し等々碌に作物が育たないところまで荒らされた。
そして火傷の傷が言えた幸子も塞ぎこむように家から出なくなった。理由は火傷だけではない。その身体に新しい命が宿っているからだ。地主の息子か、それとも乱暴をした男達の誰かかは分からない。そんな幸子を看病していた祖母も幸子を気遣う言葉から段々と村人を恨む言葉へと変わっていく。日に日に大きくなる腹を見て祖母はより狂気に染まっていった。
「可愛そうな幸子。可愛い儂の孫、大丈夫きっとよくなるわ」
「可愛そうな幸子。可愛い儂の孫、さあ、野菜をお食べ。ゆっくりでいい。米もよく噛みなさい」
「幸子。儂の可愛い孫。お前は何も悪くない、お前は何も悪くない。全てあの地主が悪いのじゃ」
「幸子。儂の孫。憎かろう。憎かろう。すまない、何もできない儂を許しておくれ」
「幸子。あの村の者たちは畜生じゃ。人ではない。犬畜生と同じよ。いいかこの村で唯一の人は儂らだけなのじゃ」
「憎い、憎い。どうすればいい。あの犬どものせいで畑が荒らされ食料の備蓄ももうない。どこかで調達を……」
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
「――ああ、そうか。そうじゃった。そこにあったの……待っていなさい。幸子」
「さあ――。……幸子。…………口を開けなさい。そう……ゆっくり噛むのじゃ……今日は久しぶりの肉を持ってきたぞ」
千切った小さな赤い肉。血が滴り幸子の顔を赤く染めていくがそんなものを気にせず口へ入れていく。しっかり噛む幸子を見て祖母は笑った。
そうして事件から既に9カ月以上たったある日。事件後初めて幸子は自分から身体を起こした。重い身体に大きく膨らんだ自分の腹を見てただ茫然としている。
「おや、幸子。もういいのかい」
祖母の声だ。台所にいたのだろう。ゆっくりこちらへ向かってくる。そしてその姿を見て幸子は目を大きく開けた。
祖母の身体の腕や足が欠けていた。まるで何かに喰われたかのように。それだけではない。全身が傷だらけとなっており、片方の目も潰れていた。そしてその手には――犬の首が握られている。
「すまないね。老いた儂じゃ何とか1匹だけで精一杯じゃ。それに……もう食える部位は首しか残っていない。でも良かった。本当に良かった。お前が元気になって本当によかった。だから――」
「後は――お前がやりなさい」
まるで別人のような顔をした祖母は無表情に近づき幸子に顔を近づけそういった。
「儂の婆さんはな。呪いによお詳しかった。特に犬を使った呪いはそれはもうよく効くらしい。いいか、よくお聞き。動けるようになったら犬を捕まえなさい。そうさね。3件隣に飼っている花子がいい。あれは比較的おとなしい犬じゃからの。後は儂の日記をよくお読み。そしてこの村にいる犬どもをすべて、すべて殺しなさい。いいわね。そうすれば幸子はきっと幸せに――」
そう言いかけて祖母は事切れた。
幸子は呆けながらそれを見ていた。あの事件以降の記憶がなく、ただ奴らは犬だ。犬を殺せ、犬を喰えと、それだけは鮮明に心に焼き付いている。だから喰った。頭部だけとなった犬の躯に噛みついた。
ああ、その肉が何とうまいことか。
「うぇええええええ!」
梅原桜は嘔吐した。口の中いっぱいの獣臭、そして咽かえる程の血の臭い。耐えられなかった。霊媒術を使い少しでも情報を集めようとして失敗した。醜悪な人の憎悪と狂気。ここまで狂った人間を初めて見た。
「お師匠さん! やはり無茶だ。僕が止めなければ今頃――!」
「はあ、はあ、はあ。……だめよ。この事件はあまりに歪過ぎる。情報が足りない。この事件でもっとも必要なのは過去に何があったか。刑事さんが集める情報だけじゃ恐らく一手足りない。勇実君が持ち帰った子供の霊という情報の意味がもう少しで分かりそうなの。もう一度、もう一度やるわ」
桜は震える手で香を焚き、また目を瞑った。




